カポーティ
監督:ベネット・ミラー
出演:フィリップ・シーモア・ホフマン、キャサリン・キーナー、クリフトン・コリンズJr.
時間:1h56
近所のミニシアターで見てきました。
あまり混んでいるのは嫌だったので、夜八時過ぎの回を選んで観に行ったのですが、それでも、前90席あるミニシアターの半分以上はうまっていました。さすがに話題作といった感じです。
さて、この映画、一般には主演および監督のフィリップ・シーモア・ホフマンの演技がすばらしいといわれますが…、ゴメン、正直、この演技がすばらしいのかどうかわからんかった。
というのも、冷静に考えればわかるんですが、私、動いているカポーティを見たことがないんですよね。写真は何度か見たことがありますけど、実際のしぐさやしゃべり方は全く知らないので、この映画の中でフィリップ・シーモア・ホフマンがやっているヘニョヘニョしたしぐさやしゃべり方が、本物に近いのかどうかはよくわかりませんでした。でも、単純にルックスという意味では、写真と見比べる限りかなり似てましたよ。
映画全体の内容としては、静かな農村で一家四人が惨殺された殺人事件を題材にノンフィクション・ノベルを書こうとしたカポーティが、その犯人との直接取材のなかで自分自身との内面的葛藤に陥って苦悩するというものなんですが、結局、一番問題となるのは、カポーティが書こうとした小説のタイトルである『冷血』という言葉の矛先がどこに向かっているのかという点でしょう。
普通に考えれば、この『冷血』という言葉は、一家四人を惨殺した犯人の内面を表すものとして解釈されるべきものなのでしょうが、この映画の中では、カポーティに犯人と面会した感想として、「彼と僕は同じ家の住人だ、彼は裏口から出て、僕は正面から出た、ただそれだけだ」という比喩的な言葉を言わせたり、犯人をだましながら供述を聞き出し、自らの傑作を書き上げようとするカポーティの作家としての欲望を描き出すことで、『冷血』という言葉の矛先をカポーティ自身にも向けています。
そう考えると、この「彼と僕は同じ家の住人だ、彼は裏口から出て、僕は正面から出た、ただそれだけだ」という劇中の台詞は、カポーティ自身が、自らと境遇が似た犯人と鏡のように向き合うことで、『冷血』と呼ぶにふさわしい自らの内側にあるこの上なく暗い側面を自覚したことの表明とも解釈できるように思います。
現に、この犯人の方はその暗い側面が四人の人間を殺害するという行動で現れ、カポーティの方は死刑に直面している殺人犯に嘘をつきながら作家としての名声を高めようとするという行動で内面的な暗黒面が浮かび上がっているわけですからねぇ。
この映画の中で、主人公であるカポーティは、長年取材を重ねてきた犯人のペリーと死刑執行の直前に面会し、そこでボロボロと涙を流します。
この涙の意味は見る人によって多様に解釈できると思います。ある人は、犯人を自分の欲望のままに利用したことに対する懺悔の涙と捉えるかもしれませんし、同じような精神世界、もしくは、精神構造を共有している犯人に対して純粋に「死んで欲しくない」と思ったがゆえにこぼれた涙と解釈する人もいるかもしれません。
映画を見ている間、ズーッとストレスが溜まり続けるような重苦しい映画でしたが、観る価値はあったと思います。