ここに幸あり
監督:オタール・イオセリアーニ
出演:セヴラン・ブランシェ、ミシェル・ピコリ、ジャン・ドゥーシェ
時間:2h01
近所のミニシアターでみてきました。
ネットでチョロッとしらべてみたんですが、監督のイオセリアーニって、旧ソ連時代には上映禁止処分になっていたらしいですね。
そんな抑圧を逃れてフランスに移住し、そこで花開いたらしいんですけど、表現者として政治っていう大きなものに自分の作品が抑圧されるっていうのは本当につらいことだと思うんですよ。
まぁ、私はいわゆる「表現者」ではないので、安易に「共感」はできないんですが、それでも自分が最大限の力を注ぎ込んだものを発表することを禁止されるのって、発表した上で激しい批判を受けるよりも遥かに酷い仕打ちだと思うんですよね。
ものすごい力があるのにリングに上がることを許されないボクサーみたいなもんですからね。
それって、自分の力を発揮した上での否定よりもはるかにつらいですよね。
そんなつらい体験を持つイオセリアーニですが、この人の作風はそんな体験を全く感じさせないのどかなものが多いです。
以前、私がよく行く近所のミニシアターでイオセリアーニ特集を組んでいて、そのときに『歌うつぐみがおりました』や『群盗』を観たことがあるんですが、それらの作風もなんとなくの〜んびりしていて観ているとフッと眠くなってしまうんです。
そんなイオセリアーニ作品ですが、本作『ここに幸あり』にもイオセリアーニ風味がおもいっきり生きてますね。
外務大臣のヴァンサンは、ある日、失言がもとで更迭されてしまいます。それまでのセレブな生活から一転して、財産も、家も、愛人までも失ってプチホームレスのような状態になってしまいます。どう考えても転落人生まっしぐらなんですが、そんな現状にもめげず、ヴァンサンは大臣時代には出会えなかった昔の友人を訪ねて、ワインを飲み、歌を歌ってスローライフを満喫します。
大まかに書くとこんな感じのストーリーなんですが、これって、一見すると単なる癒し系ムービーですよね。
実際、私も、この映画を観た直後はそんなふうに思っていたんですが、監督であるイオセリアーニの人生を知ったら(ネットで調べた程度ですけど…)、またちょっと見方が変わってきました。
結局、これって、“政治的な強い束縛からの解放”なんじゃないかと思うんですよ。
本作の主人公のヴァンサンって、外務大臣の職にあるときも政治家としてキチッとしていたわけじゃなく、執務室でトランプをしたりしてなんかプラプラしてるんですよ。
こういうヴァンサンのあり方って、旧ソ連の強い政治的抑圧のもとで独自の映画製作を続けていたイオセリアーニとなんとなくかぶるんですよね。
先にも書いたように、劇中、ヴァンサンは「大臣」という政治的立場から外れ、現実世界で、イオセリアーニは旧ソ連という政治的な束縛から自由なフランスへと脱却します。
そして、最終的に、一般人に戻ったヴァンサンは自由な時間を満喫し、フランスへ渡ったイオセリアーニは監督として花開きます。
ヴァンサンという劇中のキャラクターと現実世界のイオセリアーニに奇妙な類似点を読み込むのは私だけでしょうか?
もちろん、映画の解釈は多様なものであるべきだと思いますし、質の高い「癒し系ムービー」と解釈するのも一つの見方としてストレートなものだと思います。
ただ、一つの解釈として、主人公であるヴァンサンの暮らしとイオセリアーニの生涯をダブらせて、そこに「政治的抑圧からの開放」といったものを読み込んでみるのも、一つの見方として成立すると思いますね。