西鶴一代女
監督:溝口健二
出演:田中絹代、三船敏郎 他
時間:2h17
近所のミニシアターが没後五十年を記念して溝口健二を特集してくれました。
4週ぶち抜きの大特集なので、ミニシアター的にもかなり力が入っているようです。
私がこの作品を見に行ったのは、ちょうどこの「溝口健二特集」の初日だったので、かなりの人手を予想していたのですが、思ったほどでもなかったですね。
全90席の座席の内、埋まっていたのはだいたい半分ほどでしょうか、50代よりも上の年齢層の方々を中心に、館内にパラパラと散らばっていました。
一人、女子高生が制服でみに来ていたのですが、館内の最年少者はこの女の子でした。
今回の特集で公開される作品は、今後スクリーンで見る機会はほとんどないであろう作品ばかりなので、もっと人が集まるかと思ったのですが…
やはり、こうゆうところにも、地方の映画文化の衰退が如実に現れているような気がします。
さて、客層の分析はこれぐらいにして、肝心の感想ですが、「かなり面白かった」です。
公開された年が1952年ですから、今から50年以上前の作品ですけど、今見ても全然面白いです。
もちろん、さすがに画質と音声は多少苦しい箇所もありましたが、それが原因でストーリーが判らないなんていうことはありませんし、気になるといっても所々「ん?」と思う程度のことですから、何の問題もありません。
基本的なストーリーは「男性中心の封建社会のなかで、いろんな男性と出会いと別れを繰り返しながら、どんどん不幸になっていく女の一生」なんですが、この絵にかいたような転落っぷりが今見るとなんとも新鮮です。
そういえば、『嫌われ松子の一生』なんかも転落モノですよね。
本作の主人公も、さすがに人殺しはしませんが、社会と男に思いっきり翻弄されながらどんどん落ちぶれていきます。
本作で描かれている落ちぶれる原因って、だいたいが「金と性欲」なんですよね。
劇中には、これらの欲にとらわれた男達がわんさと出てきます。
金に目がくらんで娘を殿様のもとにと継がせたものの、最終的には借金で首が回らなくなって、嫁ぎ先から出戻ってきた実の娘を女郎屋に売り飛ばしてしまう父親。
贋金で豪遊し、主人公を身請けしようとする詐欺師。
真面目だったが、主人公にムラムラっときてしまったがために身上をつぶした大棚の旦那。
こういった、欲望にギラついた人達がこの映画にはたくさんでてきます。
で、それを見ていて、ふと思ったのですが、最近の邦画ってこういう「ギラギラした人達」があんまり登場しないと思いませんか?
油取り紙で顔を擦ったら、滴るほどに油が取れそうな、精力みなぎるテッカテッカのおっさん。
そういうキャラクターって、あんまり登場しませんよね。
特に、それこそこういうミニシアターとかで上映されるいわゆる単館系の作品なんかだと、オダギリジョーとか浅野忠信とか、ちょっと斜に構えてアーティスティックな香り漂う油取り紙とは無縁でおしゃれな二枚目ばかりが登場しますから、本作のような古い映画に出てくる画面から加齢臭が炸裂してきそうなギラギラ親父とはあまり出会う機会がありません。
これって、ある意味、欲望の向う対象が現代とこの当時とは異なってきているということの現れのような気がします。
いわゆる「女、金、名誉」っていう、欲望三種の神器に対して強い欲求を持つ人が、現代ではこの当時と比べてかなり少なくなってきているんじゃないでしょうか?
いや、もちろん、全くいなくなったといってるわけじゃないですよ。
テレビでしばしば見かける絶倫を絵にかいたようなセレブIT社長なんかは、相変わらず、この欲望三種の神器の権化だと思うのですが、そうでない現代の普通の人達っていうのは、これらの欲望の対象に対してだいたいの充足感を得ているんじゃないでしょうか?
そういう、社会的な土壌があるもんだから、最近の映画では作品の中にそういうギラギラ系の人達を登場させてもいまいちリアリティが感じられなくなっちゃってるんじゃないでしょうか?
「ギラギラしてる」って、マイナスのイメージで捉えられることが多いですし、現に今、この文章の中でもマイナスの意味で使ってるんですけど、この手のギラギラ親父がもってるギラギラ感て、肯定的に見ればある種の「バイタリティー」だと思うんですよ。
欲望の充足とサラサラおしゃれ感の影に隠れて、現代では、本作に出てくる悪い親父達が持っているギラギラしたバイタリティが失われつつあるような、そんな気がしました。
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