タクシデルミア ある剥製師の遺言
監督:パールフィ・ジョルジ
出演:チャバ・ツェネ、ゲルゲイ・トローチャーニ、マルク・ビシュショフ
時間:1h31
近所のミニシアターで観てきました。
人里はなれた辺境の地、国境警備隊員として上官夫婦のもとで奴隷のような生活を送っているモロスゴヴァニ。盛り場も何もない土地での禁欲生活に耐えられず、変態的な自慰行為にふける毎日を送っている彼は、ある日、ついに醜く肥え太った上官の妻と肉体関係を持ってしまう。その後、妊娠した上官の妻は、豚のような尻尾を持った男の子を出産する。
カルマンと名づけられたその男の子は、子供のころから早食いと大食いの才能を開花させ、最終的には共産政権下のハンガリーで一二を争うフードファイターに成長する。その後、同じフードファイターで女子の部のチャンピオンであるギゼラという女性と結婚し一子をもうけるが、その子供は巨漢の両親とは似ても似つかない小さな男の子だった。
ラヨスと名づけられたその男の子は、両親と同じ道は歩まずに、街中で小さな剥製店を開き、そこで剥製師として生計を立てていた。店の地下には、あまりにも太りすぎて椅子に座ったまま一歩も動くことができなくなった父親のカルマンが居座り、日夜、自分が過去に気づいたフードファイターとしての栄光を記録したビデオを繰り返し観ている。ラヨスの一日は、客から依頼を受けた剥製作りと、父親の身の回りの世話だけ。ただそれだけを坦々と繰り返しながら、ラヨスの時間は消費されていく。そんなある日、ラヨスはふと思い立ったようにある計画を実行に移すが…
大まかに書くとこんな感じのストーリーです。
一応、「親子三代の物語」という基本線はあるんですが、この映画に関しては、そんな基本線がどうこういう話はどうでもいいですね。
もう、なんていうか、とにかく、「グロい!!」。
この一言に尽きます。
本作は、ハンガリー、オーストリア、フランスの三国が共同で製作しているみたいなんですが、ドイツ以東の地域、具体的には中央ヨーロッパから東ヨーロッパにかけての映画にしばしば観られる独特のグロテスク加減が本作には嫌というほど凝縮されています。
肉、血、汗、吐瀉物といった人間の体内から放出される諸々の物体と、それらを放出する人間とのかかわり方が、観ている人の心をグリグリえぐるような仕方で次から次へと映し出されます。
本作に関して、Web上にupされている色々な感想を読んでみると、「人間の本質を描いている!!」といった思想的な方向からの解釈が思いのほか多いんですが、個人的には、この映画に、その手の思想的なアプローチをすることに対しては「どうなのかなぁ…」という感じがちょっとしますね。
この映画のラストで、剥製師のラヨスは自分自身の体に処置を施した後、自分で自分の腕と頭を切断して、自分自身の剥製を作り上げるんですね。
そんなラストシーンと、ラヨスに至る先代と先々代の生き様を重ね合わせた場合、ラヨスの自分自身を剥製にするという行為は、「欲望」というものから完全に解脱した状態へと自分自身を至らしめた行為として解釈することができるでしょうし、そういう仕方で解釈すると、映画全体の構成に補助線が引かれて、スッキリ理解することができるようになることは事実です。
しかし、ラヨスが最終的に行った行為を「欲望からの解脱」と解釈するならば、それは単に「自殺」でもよかったと思うんです。
それに、自分の祖父と父親が体現した欲望の追及に反発する行為として自分を剥製にしたのであるとすれば、切断する部位は、頭と腕ではなく、彼らの欲望を象徴している性器と腹部だったと思うんですね。
まぁ、もちろん、剥製ですから内臓は必然的に抜き取らなければならないわけで、そういう意味では腹部に対する処理は行われているわけなんですが、それでも、最終的に完成するラヨスの剥製には性器は残されたままですから、本作のラストは、単純に、自分のルーツに当たる人たちが体現してきた欲望の清算を意味しているのではないような気がするんです。
では、この映画はどのように理解すべきなのか…
まぁ、私もよくわかりませんし、観る人が千差万別にそれぞれの感想を抱いてもらえばそれでいいと思うんですが、でも、個人的には、どうも、この映画を作った監督の気持ちとして「笑いにもっていきたい…」みたいな意図を感じるんですよ。
一番象徴的なシーンは、親子三代の二代目にあたるカルマンが、フードファイトの後に自分が食べたものを嘔吐するシーンなんですけど、このシーンでカルマンの嘔吐する表情に全く「苦痛」の色がないんですね。
普通、吐いている人って、苦しそうな表情をしているものじゃないですか。
ところが、このカルマンは、普通に友人と談笑するような語り口でコーチや同僚としゃべりながらゲロゲロ吐いているんです。
また、このカルマンの父親に当たるモロスゴヴァニも、欲望に対する「葛藤」が全くないんですよ。覗きたいときには覗き、手ごろな大きさの穴をみつけたら例えそれが木の壁にあいた穴であってもワセリン的な潤滑素材を塗って迷うことなく性器を突っ込むという、欲望にともなう苦しみや葛藤が全くない立ち居振る舞いを見せてくれるんです。
そして、親子三代の最後に位置するラヨスですが、彼の行為はそれ以前の世代が体現してきた欲望に支配された生の清算と解釈すべきではなく、むしろ逆に、人間が本質的にもっている死への欲求、すなわち、タナトスを具現化した行為としてみるべきなんだと思います。
自分自身を剥製にするという自己破壊の過程で、ラヨスの表情には全く苦痛の色が見えません。ただ、坦々と、他の動物を剥製にするのと同じような仕方で、自分自身の体に処理を施していきます。そして、最後に、自分が作った自殺装置によって自分自身の死への欲求が、そこに何の苦痛も迷いもないままに、完全に満たされるんですね。
つまり、この親子三代は、自分の欲望を満たす際に、普通の人々が経験するような苦痛や戸惑い、葛藤といった負の感情を全く抱かないんです。
そして、この負の感情を全く抱かないままに欲望が成就されていく過程の中に、ある種の不条理的なものを見出すことは不可能ではないでしょう。
本作の監督がやりたいのはそこだと思うんですね。
「欲望」っていうものを柱に据えて、そこに、それを達成するために苦痛をともなわない人間を絡ませることで、ある種の不条理な空気感を作り出し、その空気感から、ものすごく強力なブラックでナンセンスな「笑い」を作り出したい。
どうも、個人的には、そこらあたりに監督の意図があるような気がしてならないんですよね。
お前、結局は、ウケたいんだろ…
でも、その割には、ちょっと、凝りすぎだぞ…
映画館のいつもの席に座りながら、そんな感想を抱いた作品でした。