「哲学史」について…
このサイトでは「西洋哲学史」をタレスから順番にみていきますが、その前に、「哲学史」というものそれ自体についてチョロッと書いておきたいと思います。
一般には「哲学史」という一言でまとめられていますが、その種類には大きく分けて二つのタイプがあります。
一つ目のタイプは、アリストテレスやヘーゲルなどに代表される歴史上の超ビッグネームが書いた「哲学史」で、この手のタイプの「哲学史」は過去の人々の思想をありのままに浮かび上がらせるというよりも、その哲学史を書いた人が持っている哲学的学説の枠組みに、それ以前の人々の学説を無理やりねじ込むような手法で書かれています。
「過去の人の学説を自分の学説の枠組みにねじ込む」なんていう書き方をしてしまうとなんとなく悪質な感じがしますが、これはこれで見方を変えると、過去の偉大な天才達の思想をねじ込んでしまえるほどその哲学史を書いた人物の学説がすごいということですから、ある意味では、その哲学史を書いた人物に対する最大級の賛辞とみなすこともできます。
実際、こういったやり方で提示される哲学史は、それを書いている人物の能力の高さも手伝って、後世の人々が持つ「哲学」に対する考え方に絶大な影響を与えることも珍しくありません。
そもそも、「西洋哲学史」を「タレス」から始めるというのも、もともとはアリストテレスのある意味では独断的な見解に後の人たちが従っている結果なんです。
アリストテレスは『形而上学』のα巻(第一巻のことです)で、知識の確実性という観点から、「我々が或る物事を知っていると言いうるのは、我々がその物事の第一の原因を認識していると信じるときのことだからである」と主張しました。
そしてその上で、アリストテレスは、第一の原因として一般に「四原因」と呼ばれる「形相因」「質料因」「目的因」「始動因」を提示し、ある諸事物に対してそれを十全に知ったとされるのは、その諸事物に関するこれら四つの原因を明確に把握したときであると規定します。
このような前提に立った上で、アリストテレスはソクラテス以前の人々の探究を「原理や原因を説いているもの」という観点から検討し、彼らの探究に対して「質料の意味でのそれのみをすべての事物のもとのもの〔原理〕であると考えた」という評価を与え、そのような原因探求の最初の人物としてタレスを挙げているんですね。
つまり、アリストテレスは自分自身の考え方、厳密にいうと、知識の確実性は「第一の原因」を把握することによって保障されるという考え方を、ある種の枠組みとして使用し、その枠組みに当てはまる知的活動をしていた最初の人物を哲学の始祖とみなしたということです。
言い換えると、アリストテレスは自らの知的活動を「知恵の愛求〔哲学〕」と自覚した上で、自分自身の活動の一部に相当する活動をしている人物を「哲学」の始祖とみなしたということです。
また、高校の世界史や倫理の時間に、西洋中世の時代について「それは暗黒時代であった」と教えられた経験はありませんでしょうか?
私よりも下の世代になると教科書の検定規準も変わっていると思うので、今もそういった記述が残っているかどうか定かではありませんが、少なくとも、私の世代(1979年生まれ)までは「西洋中世は暗黒時代だった」と教わったものです。
しかし、この「西洋中世」に対する「暗黒時代」という評価ももとをただせばヘーゲルがその哲学史のなかで示した見解に起因します。
このように、一つ目のタイプの哲学史は後の時代の人々に強い影響を与えるんですね。
もちろん、現代のわれわれが触れることのできる「哲学史」の中には、アリストテレスやヘーゲルの呪縛から脱却しようとしている作品とも出会うことができます。
しかし、脱却しようとするしろ、それに従うにしろ、どちらの立場をとってもそれはもともとの基準になっている特定の見解ありきでなされることですから、この一つ目のタイプの哲学史が持っている影響力の強さというのは押して知るべしといったところでしょう。
続いて、二つ目のタイプの哲学史に目を向けてみましょう。
このタイプの哲学史は、自分の学説に過去をねじ込むということよりも、過去の時代を生きた人々の思想を可能な限りそのまま浮き上がらせようとするものです。
古くはディオゲネス・ラエルティオスが記した『ギリシア哲学者列伝』(この著作には資料的には多少問題があるのですが、それはまたちょっとマニアックな話になるのでここでは触れません)などがこの系列に含まれると思うのですが、そこまで時代を遡らなくとも、現在、われわれが書店や図書館などで触れることができる哲学史関係の書籍はほぼ全てこちらのタイプの哲学史ですから、その基本的なイメージは一つ目のタイプよりもつかみやすいと思います。
個々の哲学者にどれほど深く踏み込むかはそれぞれの著作によって差があるでしょうが、基本的には、過去の哲学者が書いた著作に対する文献学的な解釈に基づいて、極端な深読みをすることなく、字面通りにその哲学者の思想を表現しようとするのがこの二つ目のタイプの哲学史です。
このタイプの哲学史は、たくさん出版されているという事実からもうかがい知ることができるように、その影響力という意味では一つ目のタイプの哲学史よりもはるかに劣ります。
しかし、こちらのタイプの利点としては、著者自身の偏見が介入する要素が少ない分、過去の人々の思想が歪曲されて伝えられる可能性が低いということがあげられます。
ですから、単に過去の哲学者の思想が知りたいというだけであれば、こちらのタイプの哲学史を読んだほうが便利でしょう(仮に一つ目のタイプの哲学史を使って過去の哲学者の思想を学ぼうとすると、一度読んだ後に、今度はその著者の思想を勉強して、もともとの哲学史の記述から「著者」という毒を抜かなきゃいけないので、一手間多いんですよね)。
このように、一言で「哲学史」といっても、そこには二通りのタイプがあるということは知っておいて損は無いでしょう。
ちなみに、このサイトで提供する哲学史関係の情報は、基本的には「二つ目のタイプ」の哲学史になるように意図して製作されています。
しかし、なにぶん、筆者自身が未熟なもので、原文に書かれている事柄を、無意識的に、無理やり自分のつたない考え方に当てはめて曲解しているという可能性は捨て切れません。
ですから、そこらへんの事情に関しては、あらかじめご了承ください。
また、通常、哲学関係の文章というとかなり硬い感じの文体で書かれているものが多いんですが、本サイトの書き方はかなり饒舌で軽い雰囲気で書かれています。
よく、「哲学は身近だ」とか「哲学はちょっと考えればわかる」みたいな胡散臭い宣伝文句を目にすることがありますが、やっぱり、「哲学」って難しいですし、身近なものでもありません。
むしろ、仮に「哲学」と銘打っているものでそれが身近に感じられるものであるならば、それは「哲学」という名を借りた「偽哲学」である可能性が高いです。
ですから、このサイトで伝えようとしている「哲学」に関する事柄も、基本的には「難しいこと」なんです。
でも、だからといって、難しいことを難しい言葉で伝えようとしたら、伝える側はなんとなく自尊心が満たされて気分がいいかもしれませんが、伝えられる側にしてみたらそれこそ拷問以外の何ものでもないので、このサイトでは言葉遣いも今ここで使っているような「ですます調」の緩い感じの表現で統一しています。
ごく個人的な意見ですが、やっぱり、「哲学」が語られるときには、あたかも、「無駄話」を語るときのように語られるべきだと思うのです。