BGM : 「群青


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松山大空襲


松山空襲・・・昭和20年7月26日 23:30、松山市は焼夷弾爆撃を受けた。この空襲によって被災面積約5Ku、罹災戸数14,300戸、罹災者 62200名、死者・行方不明者259名に達し、市街地の大半は灰燼に帰した。

私の住んでいた城下町松山市上空にアメリカ軍機が偵察のために初めて現れたのは,1943(昭和18)年の3月であったが、重爆撃機B−29(1機 )が飛来したのは,1945(昭和20)年2月10日昼すぎのことである。
それ以後松山市が,アメリカ軍機による空爆の標的になったことはいうまでもな い。
その間私達は警戒警報と空襲警報に何度苛まれた 事か・・・


松山攻撃の平均ポイントは,松山城のまわりの堀の南東のコーナーが選ばれた。この円形のコーナーの中には,松山市の重要な工業地域の全て が含まれていたのである。

26日夜のアメリカ軍による松山大空爆は,128機のB−29により決行された。
私が住んでいた古町から清水町、即ち城北地域から焼夷弾は投下され、市民には充分な避難の時間が無かった為、被害を大きくした。

B-29の大編隊は松山城を右旋回して焼夷弾を投下し、松山城を取り巻くようにして形成されていた市街地は、僅か2時間10分でその全域が焼夷 弾による炎に包まれ、逃げまどう市民によって街は大混乱に陥入り、松山城の内堀は焼死体で埋まりこの光景は,「この世の地獄」以外の言葉で形容しようのないものであった・・と記録されて居る。

これからするお話は,其の時幼かった私の今も目に心に焼きついた当時の体験です。
後幾年生きられるだろうか・・・其の事を考えて此処に記して置きたいと思います。
文才も 無く文脈も拙い物ですが、漱石や子規で有名になった松山で何があったのか・・・
どうか最後までお読み下されば幸いです。



「警戒警報よ!起きなさい! 」あれは眠っていた時、突然母に起こされた。 
警戒警報、空襲警報は再三で、その度に電気の傘に被せた黒い布を深く被せて息を凝らしていたものでした。
当時は、敵の飛行機から家の灯りが判らない様に、照明器具や窓を黒い布で覆い、家の中に防空壕を掘り、その中に食料品や貴重な物など入れていた。
(其の防空壕の広さは四畳半位だったような・・定かでは無いですが・・・)
そこに入って寝巻きから普段着に着替えようとした。中は電気が点いて明るかった。

其の時空襲警報のサイレンが鳴った。
父が「危ないからそこから出 て他に避難するように」と云って入って来た。
着の身着のままで防空壕から出た途端、大きな爆撃の音と一緒に部屋の中に土の塊の大小が戸口(我 が家は酒屋だったので間口が3間)を壊し物凄い勢いで部屋の中に飛び込んで来た。
一瞬にして外が真っ赤に成った。

我が家は裏の通りにも出られる様に成っていたので、母の後ろについて裏の出口に向かった。
しかし、裏の出口も炎で真っ赤。
昔の道路幅は狭く 道を挟んで前は炎上している製材所、とても出られそうもなかった。
でも、母は弟を抱いて外に出た。
続いて出ようとした私に誰か消防の方だろうか、「お嬢ちゃん危ないから出てはいけないよ。表の方に逃げて」 と止められた。

私は完全に母と離れてしまった。恐怖で「お母ちゃん!」と呼ぶ声も涙も出無かった。
其れでも私は表に引き返した。裸足のままで・・・
ガラスの破片など踏 んで痛かった筈なのにその痛さも判らない程の恐怖だった。
表通りは前の唐津物(陶磁器)屋さんの裏手が燃え盛っていた。

其の時のドーンドーンと云う物凄い爆撃音、今も耳に残っています。

筋向いに親戚の叔母夫婦と子供が住んでいたので、兎に角其処に飛び込んで「叔母ちゃん!叔母ちゃん!」と何度も叫んだ。
しかし、何の返事も 無かった。
もう逃げたのだろうか・・・?
真っ暗の中、なにも見る事が出来ず暫く立ちすくんで居たが、此の儘では焼け死んでしまう!
外に出ようとした 時私は何かに躓いて転んだ。
後日判った事だが、其れは弾の直撃を受け即死の叔母の体だった。
そして叔母の子供さんは未だに行方不明です 。

もう既に辺り一面火の海!「若しもの時は此処で会おう」
皆で約束していた場所(古町駅)に向って走った!降りかかる火の粉の中を・・・
角を曲がったその時、半狂乱の様に成っ て私を探していた母と出会った。
しかし、時すでに遅し、辺りは火の海。
焼夷弾は落ちて来る時、蛍の火の様にチラチラと輝きながら落ちて来る。
(後日聞いたのだが、その様子は「遠くから見ていたらとても綺麗だった」そうだ)。
しかし、其れが諸々のもを焼き焦がす。弟の衣類に其れがくっ付いて、母と二人で熱い のも忘れて揉む様に必死に消すが、中々消えなかった。
やっと消した時には、もう私達の逃げ場は完全に無かった。

当時は道端や色々な所に避難の為に簡単な防空壕が掘られて居た。
丁度燃え盛る家の土塀の前に防空壕が有った。
私達はそこに入るしか術は無く飛び 込んだ。
中は其れほど広くは無いが、既に逃げ遅れた4人位の人達が長椅子の様なものに座っていた。
私達を入れて7人位だったと思う。
表の焼 ける明かりで中が薄ら見えた。 男性が二人か?記憶にははっきり無いが・・・
きっと母達は「此処でみんな死ぬのですね。でも最後まで頑張ろう・・」なんて話したかも知れない。
(後で聞いた話によると、この式の防空壕は直撃を受けるか、中で蒸し焼き状態で亡くなった方が多かったそうです)
私は弟を抱き寄せる様にして座っていた。
パチパチと家の燃える音が耳の傍で聞こえ、灼熱地獄の様な中で、未だ3歳だった弟は泣き声一つ上げなかった。

防空壕の造りが悪かったのか、私の脛の下あたりまで水が有った。
しかし、この水が私達を火中から救ってくれたのでした。
絶え間なく入口から入 ってくる熱風と煙で、目や喉が痛く苦しかった。
「母ちゃん足の下から冷たい水が出てるよ」 
そう云った私の言葉に誰かが「水が泉んでいる!助かるかも知れない!」 
そして何方か女の方が自分の来ているモンペの上着を人数分に引き裂いて、手渡しながら「此れに水を含ませて目や口を塞いで頑張ろう!」 
この防空壕の上に爆弾が落ちなければ私達は助かるかも知れない。
落ち無い事を願いながら、何度も何度も布を濡らして目と口を覆って恐怖の中を過ごした。
其の時の事は 今思い出しても身体が震える。

どの位の時間が経ったのだろうか・・外から「助けて〜〜助けて〜〜」と云う女の人の声が聞こえた。
しかし、どうする事も出来ない。
其の内その声は聞こえなく成ってしまった。
死んでしまったのだろうか・・・

空が明るく成って来ているのが中から判った。
其の時だった!
物凄い爆風に私の首は千切れるかと思い、「死ぬのだ・・」と感じた。
しかし、其れは防空 壕の入口に突き刺さっていた爆弾の殻のせいだった。
若しもう1メートル中にずれて居たら、誰かが犠牲に成っていたかも知れない。
九死に一生を得た私 達だった。

恐る恐る外に出て見た。信じられない様な風景が目に飛び込んできた。
焼け野が原・・・まだ所々に火が燃え、くすぶる様に煙が辺りに立ち込め、電線は垂れ下がり、足の踏み場も無いほど焼け焦げたものが散乱し、焦土と成った地面は素足では歩く事が出来なかった。

何処で拾って来たのか、母が板切れを二枚持って来て私の足に紐でくくり付け履物代わりにしてくれた。
そして目的の古町駅に母と向かった。
多くの人が其処に来ていた。
焼けただれた死骸を見たかも知れない。でも私には木の燃え滓の様に見えたのかも知れない。
時折母が私の目を手で覆った行為は、そんな悲惨な光景を私に見せたくなかったのだろう。

私達家族は皆バラバラに逃げたが、全員無事だった。
皆の顔を見て初めて涙が零れた。皆其々恐怖の話をしていた。
父は防空壕に逃げ込んだが、危ないと感じ 其処を出た直後に防空壕が直撃された。
姉は田んぼの中を逃げ回った。田んぼの中に弾がブスブスと突き刺さったが水が有った為不発だったと・・
しかし、「川の橋の下には沢山の人が折り重なって死んでいた・」・とも云っていた。

既に炊き出しが始まり、記憶に有るのは麦飯のおにぎりだった。
私達家族は田舎の知り合いを訪ね行くために歩き始めた。
道中空襲に遭う事の無かった農家の方から、お水を貰ったり、蒸したてのじゃがいもを頂いて食べたり、
ボロボロの着物の寝巻き、薄汚れた顔、まるで乞食同然の私達だったと、今犇犇思っています。

唯一焼けなかった機関車。
何両編 成だったか覚えて無いが、屋根やデッキに鈴生りのようにぶら下がって避難して行く人たちを横目で見ながら只管私達は歩いた。
何10キロ歩いたのだろうか・・・
豆だらけの足の痛み、しかしあの空爆の恐ろしさから比べれば痛みは些細な事だった。

田舎に着いた頃は、とっぷり日も暮れて、街灯など無い真っ暗な田圃道に蛍が飛び交って居て、父が帽子に沢山蛍を入れ、明かりの代わり成るよ・・な んて云ったのが今でも忘れる事が出来ません。
不思議な事に、此の後の事は断片的にしか記憶が無いのです。

私の空襲に関する記憶は此処で終わりますが、後に兄達に聞いたのですが、あの私が最初に入った家の防空壕は、あの後父が蓋をして砂を被せた事によって、中のものは全て助かりました。
大したものは入って無かったのですが、防空壕に使っていた木材がしっかりしたものだったので、其れを使って小さな(8畳位の)小屋を建てたのですが、大工道具も何も無い中で大変な作業だったそうです。

空襲後私と弟と母は母方の里に疎開してましたが、兄達はこの防空壕で寝泊まりして小屋を造ったそうです。
そしてあの朝8月6日、広島原爆投下の日、閃光と共に爆発音を聞き、そしてあのキノコ雲を見たそうです。
其の9日後、8月15日に終戦。その後初めて家族揃っての生活が始まったのです。

                                                                



此処で私の話は終わりますが、もっと凄い体験をされた方も居らっしゃったと思います。
戦後64年の月日が流れましたが、まだ戦争の爪痕は残っている様に思います。
広島、長崎の被爆者、外地で戦死された方の遺骨は未だに家族の元には帰らないとか・・魂は彷徨っているに違いありません。
私如き体験は大した事は無いのですが、此れを書いた事で、何か自分の一部をこの世に残せたような、亡くなられた方の供養に成る様な気持です。
拙い文章でしたが最後までお読み頂いた皆様に感謝します。有り難うございました。
少しでも戦争の悲惨さが判って頂けたらと、一縷の望みを掛けて居ります。

そしてこの事を思いついた所以は、もう戦争の事は殆ど忘れられて居る今、我が子より若い某ネットフレンドの方は戦争の経験をお持ちで無いにも拘らず、 我々のこの悲しみを深く理解して頂き、「(私)の体験談を是非に聞かして下さい」と再三云う有りがたい心に感謝して書き下ろしました。
改めてお礼を申し上げます。そして提供して下さったこの素晴らしいBGMにも・・

最後にお国の為に空に散り、海に散り、陸に散り、そして空襲等で尊い命を犠牲にした方達の上に今の日本が有る事を私達は決して忘れてはいけないと思っています。

二度と戦争などの起こらない世の中で有る事を願って止みません
                記  2009.7.26



焦土と化した松山市


1947年米軍が撮影した松山市



唯一焼け残った機関車。漱石ゆかりの列車として、現在も市内を走っている
(型は此れですが、当時のものでは有りません)



松山を焼きつくした焼夷弾の殻

焼夷弾とは米軍が日本の家屋攻撃のために開発したM69。

親爆弾に子爆弾が19発が2段に、計38発が組込まれ、空中で分解して落下する。

子爆弾とはM69油脂焼夷弾−直径8センチ、長さ50センチの金属筒状のもの。

空中500メートルで親爆弾が分解すると、中の38本の子爆弾が散らばって落下、屋根を突き破ると爆発してゼリー状の油脂のナパーム材に着火し、一面にまき散らし、一帯は火の海となる。
この時、子爆弾の先にリボンが取り付けられており、其れに火がついて落下するので火の雨の様に見える。