195 金谷治 講談社学術文庫1014

淮南子の思想


淮南子の思想  『淮南子』という書物ができるまでの漢代の淮南国の物語から始まり、国王の劉安(高祖劉邦の孫)の周りに集まった「食客」と呼ばれる文化人集団の紹介を経て、当時の思想背景へと大きく話が動いてゆく。なにせ紀元前120年頃に成った書物であり、数系列の写本があるため、その大掴みな異同を検討して、いよいよ書物の内容を記す段階に入るまで、実に100頁超という本の半分を費やしている。2000年以上も生きながらえた書物の紹介であるから、こうしたゆっくりとした時間が必要なのである。

 淮南子(えなんじ)の成立の背景を著者は4つ考える。淮南(わいなん)という地が屈原の楚辞に代表される巫系文学という文化背景を持っていたこと。劉安王が文学好きであって思想的には道家に寄っていたこと。王の食客の中に王被という博識多才の学者がいたこと。前の秦帝国が法家思想に拠り他を抑圧したため漢の初期には論が盛んとなり儒墨法道などの各派が折衷しながら統一理論構築の動きがあったが、呉楚七国の乱もあって第4代武帝は董仲舒を重んじ儒家思想を国教化したため、劉安王は反発を感じていたこと(ただし、武帝自身は年長の親族である劉安王の文才を高く評価していた)。これらであると。

 淮南子は、荘子の道家思想をベースとしながら、それまで別と考えられていた老子思想との共通性を見出して老荘思想としてまとめ上げ、儒家法家の考えも取り込んで時代に合わせようとしたものと位置づけている。

 「事」は形而下の具体的な事象で、「道」は自然と人間を貫く深遠な形而上の道理である。雑多な事象は道に帰一すべきで、この不動の境地こそが目指すべきものである。ここでは全てが平等である。金谷氏が「理法的あるいは原理的な道」という認識論上の道。これが荘子的な道、斉物論であった。一方、老子は現実的行動的で、無意を説くのは万能を求めてであり、無私を説くのは能く成し遂げるためである。多様な事象を生み出す唯一の根源的実在としての道を想定し、これへ働きかけようとするのであった。淮南子は両者を統一させよとしたと、著者は書く。そのために淮南グループは、古い荘子に老子的な言質を加えて新しい『荘子』まで作ったのではないかと。

 もともと道の問題が考えられたのは現実的関心から出発した。現実は対立や差別があって無常である。人は環境に左右される定めである。これに対し儒家は道義を守る努力を唱えたが道家は一貫して変わることがない道を追究した。法家の思想は好憎を示さず智術を棄てて法に従うべしとするものであったが、これは無為の術を守ってひたすら道に従うとする道家の思想を利用することで成立しており、道法折衷も探りやすいものであった。淮南子は道家の立場で儒墨法を折衷して統一理論をなし、雑多ゆえに取りこぼしの少ないことを誇りとしたのである。

 本の後半は、自然・政治・処世など淮南子22篇を縦に見て、その道家的な主張を解説している。また、真人と聖人(2番手!)の比較をとおして誤解されがちな道教(道術・方士の術)との峻別もされている。淮南王の食客には方士もたくさんいて、彼らにより淮南王は登仙したと伝えられるようなったのであった。白状するとケノは淮南子を道術の本だと勘違いしていた。この点は期待はずれであったが、老荘的世界を構築した『淮南子』の何たるかを垣間見せてくれた本書に感謝するしだいである。

[#195: 05.07.09]

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