音としての和語があってそれが現代の日本語となるまでに大きな働きをした天才たちの仕事を解説したものである。文字、表記法、文章、文法という領域と時代的な区分とが上手く重ねあわされている。本のケノ風コンプレス版を作っておこう。
応神天皇時代に漢字を輸入したが、それは中国語のためであり、外交等の政治上の必要からであった。漢字を用いて和語を表記する試みは5世紀末から始まっており、それを一段と進めたのは『古事記』(712)の編纂に当った太安万呂であった。漢文そのもの、及び漢字から音を借りてきた「仮借」とからなる音訓交用として表記したのである。この表記法の何れかであるか分りづらい時は「注」をつけた。しかし古事記の注は不完全であり、未だに読みが定まらないところもある。
サンスクリット語を音写する方式に仏典の陀羅尼があった。これを参考に古代日本語を漢字で音写したのが、万葉仮名である。この漢字を草書したものが草仮名であり、成るまでに『万葉集』(759)から百年かかっている。更に単純化し平仮名となった。紀貫之がまとめた『古今和歌集』(905)は、平仮名で書かれた最初の国家プロジェクトであった。
一方、片仮名は万葉仮名の漢字の一部を用いる「省画」から生じている。この省画は寺院における講義ノートである「抄物」に使っていたもので、寺院(宗派)ごとに異なっていた。ある程度は広まったものの、平仮名の普及に押され「ひっそり」としていた。
書き言葉としての和文が生まれたのは、消息(手紙)のために必要であったからである。和歌を添えてラブレターの遣り取りをするのであるから進歩は速かった。しかし、歌物語の代表である『伊勢物語』(940頃)では口頭表現を引きずっており、『源氏物語』(1013頃)においてすらそうであった。紀貫之は、『古今和歌集』や『伊勢物語』の他に、和歌世界の方法を日記という散文世界に持ち込んだ『土佐日記』を物するなど、和文の発展に大きく寄与したのである。
中世における言語の天才は藤原定家である。『下官集』を記したが、ここで「お」と「を」を書き分けている。定家の時代では共にwoと発音して区別がなかったが、大野晋氏の研究で当時の京都アクセントの高低に対応していることが明らかになっている。他にも「志」と「し」の区別など、仮名と漢字の使い方に巧妙なルールがあったことが分り、「定家仮名遣」と呼ばれている。これは、正書法もしくは用字法として確立されたに見えたが、やがて忘れられた。
より分りやすい文章と言う意味では、和漢混交文の漢字比率を上げることで達成され、細かな定家仮名遣を気にする必要がなかったのである。その工夫は、慈円の『愚管抄』や『平家物語』が切り開き、源信・法然・親鸞などによる「仮名法語」として完成度を上げていった。
五十音図といものがある。小学校の壁に貼ってある「あいうえお、かさなたなはまらわ」という表である。これができるまでに1000年以上の物語がある。古代中国において、未知の漢字音を示すために既知の二文字を用いる方法があった。「反切」という。更に詩歌のために韻をまとめた「韻書」が作られた。代表に『切韻』や『韻鏡』がある。遣唐使として渡った空海や円仁は、これらの漢語の知識と共に悉曇学(梵字一覧と発音法)を学んだ。悉曇学は密教の真言を習得するために必須であったからだ。悉曇は中国語で梵字の発音を表記しており、これが日本語の音韻への自覚を促すことになる。これらを背景として、仏教経典読解の過程で11世紀に五十音図の原形が生まれたようである。これを江戸時代に契沖が整理した。更に本居宣長が『字音仮字用格』で正しく「お」をア行、「を」をワ行に位置づけ、五十音図を完成させた。宣長は悉曇学や『韻鏡』の知識もあったのである。この字音仮名遣は、一部を除き定説となっている。
本居宣長は、更に大きな発見をした。奈良時代の万葉仮名に13の音節において2種類の漢字を使い分けていたことを見出したのである。「お」と「を」の使い分けの理由は分ったが、「古」と「許」等の区別が何を意味するか分らず、弟子の石塚龍磨に託した。それらを受けて橋本進吉が、上代には母音が8種あることを(再)発見するに至るのである[a, i, i', u, e, e", o, o"]。他に母音調和があることまで見出した。これは日本語の起源に係わる重要な発見であった。
本は、夏目漱石に至る現代文体の創造について、及び、日本語文法への自覚と立論までの過程について、更に積み上げて書いている。コンプレス版になりにくのでココまでとするが、本は人を中心に書いており日本語の話から遠からず離れた文学的雑談も交えてあり、なかなか刺激に満ちている。数ある日本語関係の書籍の中でも格の違う本といえる。\800円は安い。即、本屋へ走るべし。
[#234: 07.03.10]
