225 金谷武洋 講談社選書メチエ230

日本語に主語はいらない


日本語に主語はいらない  前回の本は文学史的な日本語論であったが、今回は教育とセットになった日本語文法の話である。文というのは「何は何である」が基本であり、主語と述語とがあって助詞「は」でつながっていると考えるのは当たり前だと思っていたが、日本語は全く違うというのである。その「百年の誤謬を正す」のが本書である。ケノ的な料理法として、年表風にまとめてみた(数字は年号である)。

 1773:富士谷成章『あゆひ抄』で、「てにをは」は「あゆひ(脚結)」であり「は」は題を受くべき脚結とした。1779:本居宣長『言葉の玉緒』に「は・も」は係り結びの一部であると書き、主語を示す助詞とは考えなかった。1863:米宣教師S.R.ブラウンは、「は」は分離の助詞であって主格の標識ではないと残した。1888:東大言語学講師のB.H.チェンバレンは「は」は as for にあたり、「何は」は文の通常の流れから lift off されて離れたところに置かれていると分析している。

 ところが明治の学校文法では、文は主語と述語からなるとされた。『言海』をまとめた大槻文彦が、西洋の文法をそのまま輸入したからである。金田一京助らは「普遍文法」へは懐疑的であった。そこへ草野清民が大槻文法への疑義を挟んだ。「象は、体大なり」は大槻文法では説明ができない。この象は主語ではなく、述部と対応をもたない「総主」であると。これを橋本進吉が「体大なり」は「述語節」であり「象は」との主述の関係は維持されているとして解決した。この場合、主語は構文的というより意味論的な役割である。こうして1935:第二期の学校文法には橋本説が取り入れられた。

 1960:三上章は『象は鼻が長い』により日本語に主語はいらないと主張した。「は」は係助詞で動詞とは無関係であり「がをにとで」は動詞と文法関係をもつ格助詞である。さらに「が格」名詞句も主語ではなく主格補語にすぎない。日本語は述語一本で表現している。欧州語は主語が決まらないと文が作れない。それを図式すると、日本語は盆栽型であり、欧州後はクリスマス型ツリーだ。また、「は」は節(点)を越えて働き、文(丸)を越えて働く。いわばスーパー助詞である(ここの「また、」以降の説明文が「は」の影響範囲の例文ですよ!)。先の図式で言えば、「は」は盆栽ツリーの外にある旗みたいな物であると。金田一春彦・服部四郎・中島文雄らは、この三上説に賛同した。1962:マルチネ『言語学的機能としての主語とバスク語の分析』にある主語の定義からも、日本語には主語がないと言える。

 1971:残念なことに三上は世を去る。1972:森有正が、日本語は論理的文法的ではないとの対談。1973:久野ワが、日本語の再帰代名詞である「自分」は意味的に主語に一致するとの主語擁護論。1978:柴谷方良が、尊敬表現「お〜になる」は主語に照合するとの主語擁護論。1976:キーナン『主語の設定基準』リスト30項目を発表する。特定の名詞句の相対的な主語性の指標であったのだが、主語普遍論の裏付けと曲解する者が多出した。1978:奥津敬一郎『「ボクハ ウナギダ」の文法』により、ウナギ文論争が起きた。「だ」は「食べたい」「選ぶ」等の種々の述語の代用であるとした。1981:北原保雄は、「ぼくが食べたいのはウナギだ」の分裂文(省略文)であるとした。更に「コンニャクは太らない」の文法解釈にかかるコンニャク文論争も小噴火した。いずれも三上指摘の係助詞「は」を無視し主述にとらわれた擬勢の論である。

 現在、すなわち第三期の学校文法では、助詞「は」は文の主題を表し、文脈によっては対比・否定を表すとされている。文の主題=「〜について言えば」と変り、文法は大きく進歩している。大野晋『日本語練習帳』がその論に近い。「は」はすぐ上にあることを他と区別して確定したこと(もの)として問題とする。文を切る働きがある。…と書いている。ただし、「は」と「が」の比較をするなど、まだ「主語病」の影響から抜け出ていない傾向もある。

 大槻が陥った普遍文法の権化が、1957:チョムスキー『生成文法』である。『サピア・ウォークの仮説』の「我々は母国語というフィルターを通して世界を認識する」という視点から言えば、チョムスキーのそれは余りにも英語中心主義(洒落れて「英語セントリック」)である。証明もできないしマニアックで不毛な論議が続いている。ところで、主述語の普遍的存在のほかに、動詞の自動詞・他動詞の説明においても英語中心主義による誤謬がまぎれている。本の後半では、それを解きほぐしながら、従来とは全く異なる自/他動詞論が展開される。ここが金谷氏のオリジナルである。そこは\1500円だして読むべきであろう。

 本書は面白いのだが、一点だけ苦情を言う。英語や仏語を入れるので横書きにせざるを得ないのはわかる。しかし、「は」の働きを「コンマ越え」「ピリオド越え」と書いていながら、「,」と「。」を混用しているのだ。旧文部省方式は「、。」であるし、旧科学技術庁方式は「,.」である。これを講談社側で指摘しなかったのだろうか? それとも学校文法○○食らえということだろうか? 小さいことだが、ケノは気にかかるのだナァ。

[#235: 07.03.17]


 NEXT  BACK  MENU  HOME  EXIT