
どうもぅ。
今日は2進法で読むと57。だから何と言うことは無いのですが、空には高積雲です。いわゆる羊雲が厚めに連なって、日を適度に遮っています。土曜は朝から地域自治会主催の運動会で近所の小学校から子供の叫び声とラウドスピーカーの案内の声、さらに未だにスタートの鉄砲も聞こえます。おまけに集合住宅周辺の側溝工事のために重機の音が喧しく、全体として煩い休日の朝です。確か、来週は小学校の運動会だったような。
騒がしいといえば、眠主党税調が出した復興税を後押しするマスゴミです。税金は GDP から金を引き上げることですから、増税すると益々デフレが進み、結果税収は減るのは目に見えています。バブル崩壊後に橋龍政権のとき消費税を入れ、更に湾岸戦争に10兆円を吐き出してからデフレが始まりました。それ以来、税収は落ち込むばかりです。それを加速させようと言うのですから、財務省(渇栄ニ郎次官)とその狗走たる藤夷裕灸党税調会長には困ったものです。何処ぞの外国勢力から取り巻かれているんでしょうか? 逆に、政府紙幣か復興債日銀買取が復興の切り札でしょう。高橋是清が正解です。
新聞やテレビは今や衰退産業です。いはば迷国をモデルとする過剰生産と大衆宣伝により消費を煽ることで成立していた社会構造が崩れようとしているわけです。物を買うときを考えれば分ります。腹減ってメシ食いたいとか靴下に穴が開いたので替えがいるという必要から購入する場合がある一方、テレビで見てこれカッチョイと思って欲しくなる場合があります。この後者のケースは宣伝により人の心の中に欲望が作られているのです。極論すれば、欲望が操作され買わされているわけです。こうした消費行動により経済が支えられてきたわけです。
インターネットの登場もマスゴミの取分を減らし、2年前にインタネットへの広告宣伝費が新聞へのそれを追い越しました。次は数年でTVへの広告宣伝費が追い越されると言われています。その兆候は現われており、経費の安い恨流ドラマやオ哂いスタ・トークを流し朝薊系コンチパの宣伝が増えました。定期的な映画番組は皆無です。
人口減少と物の充足感からユックリと消費は減っています。それに増税をすると、この要と欲の見極めが厳しくなって欲は衰退します。物が売れなければスポンサーは付かず、益々マスゴミの取分は減ります。目先の同業種への減税に賛成すれば、それが巡って業界全体の縮小になるのです。まぁ、どうでも良いですが。というわけで、今週の通勤読書は;
○斉藤貴男, 心と国策の内幕, ちくま文庫
臭民党政権が続いていたら有難く読めただろうが、今や眠主党政権だ。告発している心算の記述が、それほど妙だとは思えないのである。麿生前首相が言っていたが、臭民党政権の良さを2年で証明した眠主党政権はエライと。これに似た読後感である。
江本勝「水からの伝言」に書かれた似非科学を材料に教育技術法則化運動が広めた奇妙な倫理教育を掴みに、寶塚出身の公迷党沫アキラのオカルト質問と続く。指摘の通り確かにオバカで奇妙だ。しかし震災後神戸市がはじめたトライやるウィークや岩原辛太郎が始めた田子輝会長率いる「東京都青少年教会」の職場体験活動はどこが告発すべき動きなのか理解できない。その延長上に文部省配布の「心のノート」があり、更に2007年の教育基本法改正、教育三法改正があるが、これまた何を問題としているのか分らない。米キャラクタ・エデュデーションとの関係も説明し切れていない。
戦前の帝国教育会が慰霊碑として建立した教育塔は確かに教育を通じた当時戦争遂行のシンボルであったが、戦後その資産を日教組が承継し社会党系の日教組初代代表が合祀されたからと言って、日教組が帝国教育会の理念を継承したことにはならず、これまた理解できない記述が続いている。自衛隊のサマワでの活動の一環として現地住民との信頼関係を結ぶ活動は当たり前であって、特に旧日本軍の宣撫作戦や朝鮮戦争の英雄白善Yが日本語で書いた本を自衛隊員が読んだからと言って可笑しいことではない。他、便所掃除や血流ユラギから精神状態を推定する法などの関連ありそでなさそな話題を挟む。
要するに本書は書かれた時代の空気を背景に深読みさせようという内容らしい。著者は過去に鋭い指摘をしていたので、本書のタイトルに惹かれ大いに期待したが、ハズレであった。もっと一億白痴化などの陰謀めいた話を期待したセイモあろう。一応読んだとのメモを残す。
最近「へんまも」が面白いですね。インドネシアン風のオジザンは大昔のタモソのような笑いがあります。可なり右翼で「偏向マスコミ報道から日本を守る」からヘンマモということですが、「辺境を守る」じゃないかと想像しています。
ではまた。
まいどぅ。
先週の土曜が地域の運動会、日曜が小学校、今日の土曜日は保育センタ。PAが煩い。でも、快晴で気持ちよい日和です。こんな日は海がモヤってダメなんですね。少し風があって曇の日が、キレイに大橋が見えるんです。先週日曜朝に日の出の頃にこんな写真が撮れました。手前は須磨アルプスの陰にあり、大橋だけに陽が射していました。

モヤと言えば、秘書三人の判決も酷かったし、汚沢裁判の行方について元検事で髭の生えたオール巨人みたいな顔の弁護士はИHK-TV で「金の出所が明確なら無罪、怪しいなら有罪」と推定無罪の原則を無視する発言をしていました。そういえば、二度の検察審査会の議決というのも実に怪しいものでした。裁判人制度を入れて、無原則の裁判が行われる司法では、まるで鎌倉時代じゃないですか。当時、法令文や証拠、それに被告への告発状の通知まで原告が準備しなけりゃならないのですが、その証拠は偽書だらけだったのです。今や、嘘の合成映像を証拠採用して、アホな裁判人を騙す時代はもう到来しているかも知れませんね。既に、世界を映像で騙す手法は確立しているわけですから。と言うわけで、今週の通勤読書は;
○森茂暁, 皇子たちの南北朝, 中公文庫
谷川健一『日本の地名』に、フォサマグナ上の秋葉街道沿いに宗良皇子の拠点があり、南朝の行宮は吉野や賀名生にあり、四国忽那(松山)に懐良皇子は3年止まり、肥後菊池には懐良皇子の拠点があって、何れも中央構造線上であったと。これが妙に頭に残り、先に佐藤『南北朝の動乱』を読み、今回T京駅傍の松○本舗で見つけた本書を読む。イヤー面白かった。
天台座主になるも最後まで武闘派だった護良皇子、征夷大将軍を継いで鎌倉陥落という唯一の軍事的成果があるだけで殆ど遠州や大川原で過ごし「新葉和歌集」を編んだ二条派歌人の宗良皇子、伊予・薩摩・肥後を経て大宰府を落とし一時明国から日本王と呼ばれた懐良皇子、これらの話を中心に九皇子が描かれている。その70年間の活動のイメージと年表をA5ノートにちまちまメモしたので左に上げた。
成良親王は何故か足利直義に担がれ、恒良親王は毒殺されたが、それに使われたのが鴆毒というのが記憶に残った。砒素か南方のモズだったような気がして、検索すると調べてあった。三つ巴の戦いだったので南朝は長持ちした。吉野で五百番歌合せができるほど安定した時期もあった。尊氏と直義は不利になると南朝と組んでは裏切り、直義の養子に入った直冬は最後は南朝方として戦った。その直義も毒殺された。要は、守護勢力と荘園勢力の争いだった。
散漫なメモとなったが、年表作成をもって良しとしよう。何故か『新葉和歌集』岩波文庫復刻版や同時期に編まれた『風雅集』も買ってある。『太平記』に行く手もある。当分、南北朝の日々が続きそうだ。
A+B+C=Dなのですね。政策を入れるときは、aだからA、bだからB、cだからCって言うのですが、狙いはDなのです。単独で見ると、BやCなんて変な政策を何故主張するのか分らない。でも、本当の狙いが分ると奇妙な行動が分った気になります。議員を大量に連れて握手させた汚沢、少なくとも県外と宣言した鳩ポッポ、薊サービスよろしく外国人参政権と地域主権を言った空缶、これらが同じ政党にどうして居るのか分らなかったのですが、ヘンマモ見てツナガリました。琉縄独立を朝貢品に仕立てるためだったのではと。
ではまた。
どうもぅ
金曜昼から雨が降り始め、退社時刻辺りはかなり激しくズボンの裾がビッショリ濡れました。翌朝は予報で雨とあったものの、雨は上がっています。天気図を見ると低気圧と前線が東北に進み、通り過ぎたように見えます。でも、出かける元気のでそうな天気じゃありませんね。というわけで、早々に今週の通勤毒素じゃなかった読書は;
○吉本隆明, 真贋, 講談社文庫
隆明の相対主義と工学的発想というのが良く分る本である。著作家として個人としての生き方の話から、日本人の精神という大きなところまで一貫して相対的発想である。例えば、個々人の人生についての考え方はこう書く。人は乳児期と前思春期の環境で人格が決まり、大事と考える事柄は千差万別である。人を見るうえで大事なことは、何を志し何をモチーフにしているか、そのモチーフの中でどこまでやれたかという点である。コンプレックス解消だって人生のテーマとなることもある。だから都度変る大切な事と自分の現状との距離を意識し続けることが必要だ、と言う。
神道の起源とする宗教的権威である天皇と西洋的ハイテク産業が共存する国家は他に無い。マルクス主義者のアジア的生産は日本にはあてはまらないので自分なりに考えてきた。その話は置くが、その目で見て現在の日本の精神は旧来の姿から崩壊しつつある。豊かになると実利的な関心は薄れる。物事には必ず裏表があるからだ。それ以外にも問題はある。だから上からの道徳等の押し付けではダメだろう。問題の本質を考えながら、良さそうと思えることを小規模でやってみて試行錯誤を繰返して道を見つける必要があろうと。
ところで、吉本氏は提示された理論の検討は鋭いが(共同幻想論読破できずトホホ)、テレビや新聞記事を信じ、歴史に歪曲があると考えもしないような、どこか甘さがあるようにも読めた。氏の娘の小説家ばなな氏が本の帯に「自分の人生に寄り添ってくれる稀有な本だった」と誉めながら過去形で書いたことに、どこかつながっていると感じた。
11日というのは一部の邪悪な宗教の信者には祝うべき日のようで、おかげで戦争はできるわ、イメージアップにはなるわで、来る11月11日も鴨葱がやって来る日になりそうです。その先導がBKドジョウですから、ついでに柳川鍋でもしてお祝いしましょうか、って思っているかも知れません。それにしても、罪務省や害務省の次官や局長クラスついでに彼らに操られている大臣の面々は、寝覚めが悪くないのでしょうか。それもともホントの莫迦か、根が耽羅・参国人だから敵をとっているのだと考えているのでしょうか。震災後に、こんな無茶苦茶なショック・ドクトリンの前振りを請け負うマスゴミも同様に狂っています。国家中枢は>乗っ取られています。
もしホノルルで柳川鍋がでたらその後に国会の批准が待っています。ここでも空缶のとき使った猫だましで(また鳩が啼くかも)180名の慎重に考える会が切り崩されれば、私たちは、迷大資本の小作と化した農業作業者が作る遺伝子操作小麦や越轢れ米を食わされることになります。生活習慣病が蔓延し薬漬けの毎日となり、訴えても、裁判での外国語使用が認められたために、チンプンカンのまま棄却されるのです。なんでもFDAの規定が準用されたためだと聞かされて終わりです。金は黒腹大資本が吸上げて国外へ持出し、到る所で餓鬼が出る噂が立ち、朝起きるのが嫌な日々が続く、なんて世界になるわけです。かってのヒリピンやハチイですわ。
デフレの最中の日本に安い製品が入ってくれば、デフレは更に進みます。GDP の17% しか占めない製造業の、更にその一部の業界の意見に従う必要はありません。こんな時は、急いで鴨葱するのは止めて、じっくりFTAで韓国やカナダがどうなるかを見ておけばよいのです。いっぽうで、高橋是清が関東大震災と世界大恐慌の後に行った政策を真似て復興しましょう。もし鴨葱しそうになったら、誰か月に代わってオシオキしてくださいね。
【追加】
真面目な中野
切れた中野
TPPから見えてきた米国の対日戦略 【new】
ではまた。
まいど。
週末、朝四時半起きで五時過ぎに家を出て地下鉄経由で6時過ぎの新幹線で東京へ出張しました。家を出ると辺りは未だ夜です。東に下弦の月が出ており、西には明るい星がありました。木星です。天頂には御車座のカペラ。南北の道路に出て東北を見ると北斗七星が立ち上がり、振り返るとオリオンとシリウスが見送ってくれました。先々週から出張の話があって、四時半起きなんて何てヤーなんだと思っていましたが、空が晴れていただけで十分元が取れましたね。安価なケノですわ。
只で感動するといえば、先日の休日の夕暮れに帰宅のためバスに乗ったところ、薄汚い老人が乗ってきて「奥さん、最近は行列が多いね」と話しかけるのです。初は知合いかと思いましたが、目があった老婦人はどうも愛想笑いをしています。分けの分らんオッサンを怒らせないよう対応している感じでした。話は行列から移って「奥さん、知ってる? この辺りは湖だったんですよ。学園からここいら、それに鈴蘭までズッーとね。○○湖っての。」と古代の湖になりました。そして最後の挨拶もなくバスを降りました。やっぱり少し某の気があります。ケノも知識欲は高いけど以前ほど薀蓄垂れる場へ出ることもなく、行く行くは似たような行動を取るかもしれないって、そのときは怯えたのですが、聞き取れなかった湖を調べると元気が出てきました。
古神戸湖という新生代初期にあった古代湖です。ケノが勝手に龍の背骨と呼んでいる六甲山から淡路島へつながる山地は、3500万年前は湖だったのです。ケノが住んでいるM谷も水底でした。一旦、丹生山地(たんじょう)の隆起で古代湖は二分され、200万年前に学園−西神は沈んで海となり、その後に50万年前に全体的に隆起して今の形になったようです。
某の気のオッサンの言うことは正しかったのです。ついでに行列と言うのも、乳癌早期発見キャンペーンで長田の鉄人28号がピンクにライトアップされたときのイベントだったようで、妄想じゃなかったのです。ケノ以上に正常でした。というわけで、今週の通勤読書は;
○末木文美土, 日本宗教史, 岩波新書
仏教受容から鎌倉仏教、更に江戸期と明治初期の復古神道−国家神道の小史を重ねたものである。そこそこ詳しく書かれ通史として読み応えがある。とは言え、宗教は多様であり、それらを書かない理由がいる。神々の自覚は仏教の影響下で生まれたものであるから、仏教の表皮の下にある復古なり<古層>を求めたとしても神仏習合以外の何もないとの考え方の上で、そのような構成になったのである。他でこうも書いている。「宗教を究極的とか絶対的とか言ってしまうと多くの日本人は無宗教ということになってしまう。…習慣化した行為まで含めれば多くの日本人は何らかの形で宗教と関係している…。日本で宗教と言うときには、この二重の意味をもっている…」と。本書はこの前者に注目した書き方であるともいえる。
本書の興味深いところを列挙しておこう。▼仏教(の受容)によって神々の自覚が生じた。▼神仏習合こそ日本の宗教のもっとも<古層>に属する形態である。▼中世神道理論は仏教の影響で生まれたが根本神(原理)を求める動きに向った。▼鎌倉仏教は天台仏教と聖の活動から生まれ、蓮如の阿弥陀如来信仰への単純化により一神教化した。▼神道及び鎌倉仏教の一神教化がキリスト教の受容を容易にした。▼キリスト教との競合から秀吉・家康の自己神格化がでてきた。▼中国が夷荻清国に支配されたので、儒教は日本型華夷思想を持った。▼来世観がなく民衆に定着しない儒教と神道が習合した。▼国学の文化ナショナリズムと<古層>を誤解した復古神道が結びついて国家神道を準備した。▼真宗徒島地黙雷の限定した「信教の自由」獲得が皮肉にも「非宗教の」国家神道を承認する形となった。等々。これらを例の如く図示してみた。
宗教の二重の意味のうち習慣化した行為(儀礼、習俗)について、スペースの関係もあろうが、本書はほぼ書いていない。陰陽道も修験道も言葉があるだけである。更に、平田篤胤は死後の霊は此の世に居続けることを主張し、それが柳田国男の霊魂観に通じるという。それは死体のケガレ観が失われた後の新しい霊魂観である。<古層>の発見は誤解なのだと。しかし未開社会の研究を見ると住居に祖先の墓がある例はおおく、ケガレこそ新しい観念のように思える。ケガレ発生以前を考えることは無意味ではない。また出発点を神仏習合とすることに無理があったのかもしれない。仏教こそが日本に神仏習合として根付いたのであり、その時点で強力な<古層>があったとも考えることができるのである。柳田国男、折口信夫、宮本常一、五来重などの民俗学、民俗宗教学の成果の豊かさをみれば、逆に究極の神など神棚に上げておけば済む話に思える。歴史的に習慣化した行為を見ないことは宗教史を語る上で潔よすぎるように感じる。
それにしても、某C機関に脅され操られた政治家・メディア・専門家・評論家は笛や太鼓で騒いでいますが、悉くオシオキが必要なようです。YouTube の日本語版ニュース政治欄が見えなくなりましたが、その動きに関係あるかも知れません。まぁ、どうでも良いですが。ケノは本読んで暮らします。T京出張でまた松○本舗で4冊買っちゃいましたし。
ではまた。
どうもぅ。
朝からイー天気です。今週半ばは朝夕冷えたけど、今日から暫らく暖かくなるそうです。明日は雨だそうですから、今日あたりコスモスでも見に外へでましょう[ P.S. 午後行きました。一週間遅かったみたい]。
世の中、円高デフレでC.ゴンさんも吼えるくらいなのですが、この円高は貨幣の供給を日本だけが増やさなかったという政策から来たものです。リーマンショックの直後、米国は貨幣供給を2倍、英国に至っては3倍に増やしてデフレ対策としました。日本はそうじゃなかった。結果、供給ギャップが 25兆円だの 30兆円だのと言われています。近頃、円高を鎮めるためには金融緩和政策は限界だ TPP しかない、と叫ぶ評論家がいますが、言うことは間違いです。チャンと金融緩和政策をしていなのです。当時も優秀な日本官僚は貨幣供給増を考えたに違いありませんが、結果的にそうしなかった。何故か?
まっ、頭を冷やして本の話。夏に『江戸の思想史』110616を読み、佐藤一斎の心学(心構え)に影響を受けた西郷隆盛が書いた「手抄言禄及遺文」を読んだものの、漢文調に歯が立たない上に、こりゃ毎日を戦い抜いている武士(モノノフ)への鼓舞の言葉であって海月より軟弱なケノの読み物ではないと早々に切り上げましたが、このとき同時に取り寄せたのがコレ。というわけで、今週の通勤読書は;
○E.H.ノーマン, 忘れられた思想家(上), 岩波新書D141
1950年初版の2008年復刻版である。漢字が正字であるのが嬉しい。本書は、江戸時代に独創的で社会批判を展開した思想家がいたことを紹介している。安藤昌益が、そういった特異な思想家であることは第四章で分る。要は、彼は総じてこう切って捨てるのである。「…耕さずして貪食し衆を誑かし…○○という言う。先ず失りなり」という調子である。社会混乱の原因は聖人の偽の説教だという。その批判対象は、支配階級たる武士、五人組制度上の小暴君の名主・庄屋、過去の軍略家の源義経・楠木正成、三大聖徳人の聖徳太子・秀吉・家康、孔子・朱喜・庚有為も同様、御用学者、仏教的祖先弔祭、釈迦・老子、中国始祖の伏儀・神農・黄帝・帝亮、制度上の神道・三種神器・天照大神等々。勿論、遊芸等もいけない。逆に、自然信仰としての神道には同情的で、誉めているのは3人のみ。曹子(孔子の弟子)、教養人菅原道真、神忠臣の物部守屋である。この社会批判が異常ではなく真っ当であることを示すため、本書は西洋の文学者・思想家の著作が引用されている。残念ながら分る人には分るとしか言いようが無い。
安藤昌益は元禄時代に育ち田沼時代に活動した。庄内平野の米を積み出す酒田湊は、京大坂の文物が入り、思想家が出る十分な文化環境にあった。昌益は農民が社会の最も本質的階級と見た。富の基準は米であった。それが貨幣経済の拡大により伝統的な封建権力が崩壊しつつあった。この変化に対する直観を明晰・正確に表現した。武士の身分は悪くないが士農工の三階級全部を搾取するのは実は大商人であることを洞察していた。そこから先の批判が生まれたのである。その思想の骨格は、…新書下巻のお楽しみ。
思い出してください。リーマンショックの直後に麿生政権となり、仲河氏が財務大臣となりました。そして春紫苑入りワインを飲まされて酩酊会見の後に失脚し直ぐに死にました。要するに口封じされたのです。大幅な金融緩和策を執ろうとしたに違いなかったのです。その後、与詐野氏となって以降、今の政策が続いているのです。その間、曰銀総裁はズッと白河馬氏です。脅しに一番弱そうな顔をしてますね。ビビって誰かの言うなりになっているわけです。そうこうするうちに、国民の目先を変える政変がありましたが、政権政党内で招集民族派がどこぞの勢力の支援の下に権力を得てしまいました。やはり金融政策が同じであることから、どこぞの勢力と仲河氏を葬った勢力が同一だと推測できます。官僚も政治家もどこぞの勢力に操られた木偶人形なのです。これが日本の権力構造でしょう。
今やその召集民族派の筆頭グループとなったBKDジョウや前腹らは、ミニチュア・コレクター氏に言わせればミネコ(峰子)だそうです。眠主党のネオコンの略ですね。それがトンでもない悪政を始めようとしています。TPP がそれです。召集民族派だから日本が滅ぶのを喜びとするのです。肉は金融資本が齧り、骨は盅国が拾いに来るでしょう。良い出汁が出そうですから。そこで、志高い政治家の皆さんは、様々に反対の運動を始めています。どうなりますやら。
世の中が良ければそれに越したことはありませんが、日本が滅んで冬の時代が来ても、ケノはいつでも社会と縁を切って生活する覚悟ができています。いはば穴熊生活の準備完了です。新聞・TV・Net を遮断しても本があれば生きていけます。情報は知識のパロディであるって言いますね。情報は切れてもいいのです。どうせ嘘情報しか流れませんから。一方、日本の古典の世界に遊べば、50年は大丈夫です。清談相手も不要です。本を溜め込み、本を楽しめるだけの最低限の知識と気力を身につけましたから。これは新聞・TVと夜の付合いに始終していては身につきません。もう一つの生き方は、狼になることです。獲物を見つけ危険を察知して逃げるという流離いの生活を難なく過ごせる動物的本能と体力を身につけることです。そう冒頭に書いたモノノフです。ケノは海月的ココロですから、狼は無理ですわ。いずれにせよ、準備とトレーニングが必要です。今から始めて間に合うかどうか。
そういえば、古本屋で下巻だけ買っていた「百代の過客」が、学術文庫から全巻一冊で出ました。上巻を探すか、これを買うか、悩ましいところです。もう少し、秋の日々が続いて欲しいですね。
ではまた。
まいど
朝から今にも降りそうな暗い雲が全天を覆っています。今日は散歩もなし。明日も雨との予想ですから、一日中、本を読んで暮らしましょ。そういえば、先週末と文化の日は出歩きました。普段は速歩で通り過ぎる公園内にカメラを持って入ると、木々が語らっているのです。一方が両手を広げ、何やら主張しているかに見えました。きっと、政治談議です。だって無茶苦茶やっているのですから、3人の中で最悪の総理だって。
とうとう、BKDジョウは正体を現したようですね。G20 で増税の約束をするなんてトンデモない暴挙です。国民へ信を問う前に国際的な会議の文書に文言を残したというわけで、こりゃ完全に国民を舐めています。ИHKはサラッと「国際公約した」と伝え、国民を洗脳するのです。仕方が無いと思わせようとの援護でしょう。でも、国際公約だか香臭い膏薬だか知りませんが、その前に選挙で選ばれた国会議員です。増税をしないという公約で議員になったのだから、公約どおりにしないのであれば、議員辞職して選挙で審判を受けるのが筋です。ここを言うのは、関西のローカル番組だけです。特に、森田実氏の指摘は鋭いものがあります(1,2,3)。BKDジョウは、やっぱり薊系のBKDだったのです。同じ手で TPP もやらかそうとしています。その前にきついオシオキですね。とは言え、反対派に分党するだけのパワーがあるかどうか。
結局、何が起こるかと言うと、徴税した金は為替市場に投入されてドルを買い支える資金に使われます。1晩で4〜5兆円です(先日は7兆円!)。昔、ミスター閻と呼ばれる男が100兆円の迷国債を買いました。これはもう返ってきません。元国際局長坂鬼腹の行為は犯罪同然なのですが、それと同じことが又この先数年繰返されます。迷国のデフォルト阻止のために日本の税金が使われているということです。この国は植民地なのです。震災復興ではなく御機嫌伺いに政策が始終しているわけです。
森田氏は、安保闘争以降51年ぶりに反迷という意識が国民に立ち上がってきた、と指摘しています。そうかもしれないですね。以前はサヨが吸収・組織化したけど、今は民族派がありません。ウヨが薊系だと皆知っています。だから結集の核がありません。それは政治勢力の再編が起こっていないからです。文化ナショナリストとしては、眠主党の分党・解党が見たいですね。というわけで、今週の通勤読書が余り進まず紹介が貧弱になりました。本が貧弱というわけではありませんが;
○高島俊男, 芭蕉のガールフレンド, 文芸春秋
「お言葉ですが」シリーズの9。芭蕉のガールフレンドというから寿貞のことかと思ったが、違った。寿貞の話であればドロドロして高島氏の扱うところではない。それは、近江の商家河合乙州の実姉である智月である。初老の芭蕉と婆さんの可愛らしい関係が描かれている。ここでは出てこず、門弟のタイプを語ったところで、有名な「行く春を近江の人と惜しみけり」の話が追記してある。去来が「風光の人を感動せしむる事、真なる哉」と述べて丹波じゃダメとしたわけであるが、芸術論に「感動」を持込んだのは去来が最初だと言う。芭蕉論を数冊読んだが、これは他に無い面白い指摘であった(その数冊は紹介済。いずれも去来の言葉どおりに句の良さを受け入れているが、何かの本で、故事来歴を捻ったから良いのだという説を見たが、思い出せない)。
とはいえ、本書は芭蕉と殆ど関係なく、高橋氏の高校教師時代の思い出やら、自由な頃の大胆な教師やら、鉄道話やら、今谷明の旧暦知らずやら、人名漢字やら様々の話がある。疲れて本なんか読んでいられないと思うときに、コレを読むと元気になる不思議な本である。なお、悪口が少ないので、もう少し初期のお言葉を捜してこよう。
ところで、財相の亜住もオシオキ対象です。地元の復興にはソッポを向いて、G20公約の露払いをしたのですから。名前は安曇族の末裔かも知れませんが、官僚を始として朝薊とその背後の某Cに使われるパシリにすぎません。彼は、福島以北すなわち古い陸奥国ノ民の敵です。宮城に阿弖流為叛乱を起こすべき時のようですね。
ではまた。
どうもぅ。
日付は金曜日にしておきました。滅多にない並びですから。二進数と見て十進数に直すと、63です。年初から 10 しか進んでないのですね。年頭の予感が的中したようでもありますが、だから何だというわけではありません。10月01日の 57 の時と同じです。2011 の 11 が二進数を想起させるというだけの話です。
今週の夜は、ゴミ分別のポスター造りに燃えました。K戸市はペットボトルと容器包装プラスチックを分け、更に今年の春に、汚れたプラを燃えるゴミとしました。改宗者じゃなかった回収車は、決められた回収日に異なる内容のゴミがあったり袋が違った場合、そのゴミを置いて行きます。M村管理組合でもこれが問題となり対策会議があって、私が妙な事を言ったばっかりに、市のポスターには無い切口(回収日ごと)のゴミ案内のポスターを作る破目になりました。
元の絵は市の WebPage から取り、自宅ですので、OpenOfficeWriter での作成でした。Word と少し違いがありましたが、何とか仕上がりました。結構、楽しい作業でした。近所で A3 ラミネート処理してエレベータ内に掲示する予定です。一方、市からも160枚の写真入のキレイなポスターをせしめました。お礼に小生作のポスターを PDF にして返しました。コンナン要るか!という市担当者の声も聞こえそうですが。というわけで、今週は夜の本のマトメができませんでした。
○高島俊男, 広辞苑の神話, 文春文庫
駅近くの本リサイクルショップでゲット! お言葉9と毒はあまり変らない。岩波神話に基づいた広辞苑神話、「分限」無視の時代小説、湯桶/重箱読み、正字、等々。鴆毒は砒素だとの話が冒頭にあった。辞書にカタカナ語収録が1割になったと1998年に書かれている。2010年末にはズバリ横文字がはいるかも。
9.11 と言い、3.11 と言い、そして 11.11 BKDジョウ首相会見と言い、全て11日です。その 11 とは何か? ヘブライ語でカフ(Kh)「拳」であり、タロット・カードの「運命の輪」です。何かに向って(拳を以って)導かれる、その運命の選択をする日ということかもしれません。一方、ゲマトリア数秘術では、11 は 2 に還元できて「月」と照応関係にあります。その象徴的な意味は、「受け身」「自覚の無い受容」ということです。そして更に、あるヘブライ語、或いは今や英語かも知れませんが、ある単語をカリオストロ式数値変換で数値にすると 11 になる何かが隠されているとも想像できます。陰謀論なら、その言葉は「世界征服」なんて設定すると、11 のカバラ的な解釈では「莫迦な民衆に暴力を持って当方の世界征服のための条件を呑ませる日」となるわけです。言葉から数値への変換は斉一ですが、逆はできません。呪いをかけた者の心の中にあるだけですね。オー怖ワ。
ではまた。
まいど。
今日19日土曜は、晩秋の雨の日です。時雨れて紅葉が進むという優雅な降りではなく、200m先は霧で隠れ、ヒューヒュと窓で鳴く風と冷たい雨が黄葉を叩き落とす勢いです。「秋の蝿 叩き落せと 命じけり (子規)」と病人がイライラを募らしている姿が想われます。
柔らかな黄金の光に包まれた晩秋の静けさは、もう戻ってこないのでしょうか。外資が高額配当をフンダクり、農地もやがて大規模企業が買い占めるでしょう。ディガーズという歴史の言葉が浮かんできました。というわけで、早々に今週の通勤読書は;
○E.H.ノーマン, 忘れられた思想家−安藤昌益(下), 岩波新書D142
安藤昌益があらゆる権威を切りまくった様は、本書上巻に書かれていた。この下巻では、宇宙(自然)観・社会観・影響を与えた思想・世界での類似思想などへ展開してある。昌益は医師であり、田舎とは言え京大坂と交通があって哲学と科学を学ぶに都合の良い地位にいた。昌益は多くの中国古典を読んでおり、焼け残った彼の著作の言葉は直裁的で「碑銘のように簡潔」である。特異な造語も本質的社会批判を意識してのことであろう。彼が批難しなかったのは、性格と生き方が好ましい曽子と陶淵明であった。後者は自ら耕し自由で平等な田園生活を送り流派を立てなかった。昌益は、自然や社会は常に変化しており価値も相対的であると考えたが、それは古代中国の「弁者」である恵施の影響がある。荘子も恵施を書に引き且つ影響を受けた。荘子も相対主義であった。また、朱子学を攻撃した李卓吾からも昌益は影響を受けたようである。王陽明の影響を受ける一方、社会を動的に捉えた知的反逆者であった。
昌益は、自然を不断の流動状態にある生成過程と捉えた。そして自然は規範であり理想であった。人は自然を通じて勤労を学ばなければならなかった。「自然世」と呼んだが、それは現実にはなく理想郷である。ノーマンは列子のそれに近いと言う。乏しく且つ誤まった伝聞の蝦夷地やオランダ社会から発想したのかも知れない。自然世であるから当然にも人は平等である。ここから昌益の政治哲学が出てくる。一方、今の社会は自然に反する人為の世界である。特権者が民衆を支配する身分社会であり「法世」と呼んだ。この法世を支える道具が儒教イデオロギーであり漢学であったから、これを攻撃したのである。しかし本質的な反社会思想を世は受け入れないであろうから「百年の後」のため近隣者だけに伝えるに止めた。
ノーマンは、昌益を類似の西洋思想家と比べている。自然に反する社会批判の点で古代アテネの急進的ソフィストに似ている。農地は農民の物であり郷紳や都市大商人の物ではないとしたG.ウィスタンリーのレベラーズ運動にも似ており、重農思想の点ではF.ケネーにも似ている。ケネーは生産者が社会的優位がなければならないとしてインカ社会を称揚した思想家である。昌益は徳川時代中期にあって歴史や社会の大転換を認識した思想家であったとノーマンは結んでいる。岩波新書復刻版、正字で印刷。見た目もナカナカよろしい。
先々週のカメラ散歩のとき、珍しい写真が撮れました。鷹が池の魚を急降下して捕らえようとするところです。2回のトライの後に烏が邪魔に入ったので、それっきりでした。ケノは高台から捉えたのですが、帰りに池傍を通ると、500mm 以上のゴッツい超望遠レンズを持った人が3名屯していました。どうも、この池はポイントのようです。一日中釣りをしている老人も十人ほど居ます。これまでに小金を貯めてリタイヤした人はセーフでしょう。ユックリ趣味の黄金の時間が過ごせるのです。それ以外の世代は多難です。TV見て莫迦笑いしたりモゲバーなんかで遊んだりしてる場合じゃないのにネ。
ではまた。
どうも。
急に冷えてきました。月曜日にスーツを変えて、火曜日にダスターコートを増やし、水曜日は休み、木曜日にコートを厚手に変えて、スリャスリャスリャラーラという一週間でした。もう葉が落ちた木もありますが、木々の紅葉が進みました。この季節の変り目の中日、階下の道路の木の葉が部分的に紅葉してステキな感じだったので、撮っておきました。実物は、不思議の世界の物語にあるようなキラキラしたオーラが出ていたのですが、そこまでは撮れませんね。
週の真中に休日があると1週間全体がなんとなくユッタリした感があります。今日土曜日もノンビリした気分です。先の休日は曇がちで風が強くて今にも雨が降りそうだったので、午後は部屋で本を読んで過ごしました。ぐっと読書が進みました。というわけで、今週の通勤読書は;
◎小西甚一, 俳句の世界, 講談社学術文庫
いやー面白かった。今年のベスト3には必ず入る。連歌と俳諧の違い、芭蕉の進化の過程、その後の俳壇と明治の俳句誕生、更に戦後あたりまでの俳句の歴史が構造を以って分ったような気にさせてくれる本だ。雅と俗、不言の言がキーワードである。
俳諧とは俳言を詠みこんだ連歌である。俳言とは連歌に用いる雅な言葉ではない、漢語や俗語のような語である。最初の俳諧師は山崎宗鑑であった。俳諧師は同時に連歌師であった。初期は掛詞や形式的な季語に特徴がある。江戸時代になって松永貞徳がでて古典味豊かな句を詠み、貞門と呼ばれる流派をうんだ。やがて貞門の大人しい伝統表現に飽き足らない勢力がでる。西山宗因は謡曲を引き破調を好む新風を吹き込んだ。談林派とよばれ、大坂には井原西鶴があった。しかし十七世紀末の貞享期となると俳諧全体が閑寂に向っていった。
こうした時代を潜り抜けて松尾芭蕉が出て、一代で俳諧を完成させた。本書第四章が圧巻である。蕉風に開眼し、自らを西行・宗祇の風雅に比べるほどに芸術性を高めた。芭蕉の「俗」はあくまで連歌と同じ高さの美をもちながら、しかも連歌では詠まない世界を表現した。ありふれた物、感情を持込まない描写、切れ字のない句、禅のいう「不言の言」と同じく描写せずにそれ以上に表現すること、感情と景趣を深いところで同調させる「配合」など、様々の技法を生んだ。元禄のはじめ「かるみ」に至るが、結果的に蕉門としては完成しなかったと小西氏は書く。
芭蕉没後、其角を筆頭に談林風に乱れはじめた。「かるみ」も誤解され、平凡な句が続いた。天明期に「芭蕉に帰れ」とばかり新鮮な動きが出てきて俳壇の中興がなった。近代俳句のような句も生まれた。その中で与謝蕪村が出る。漢学と南画を学び、これが俳諧へと芸術的に結実した。見た実感を描写せず、いったん溜めて、宗祇のような雅な世界を表現した。俳諧は俗と雅の両面性に妙があった。その意味で蕪村は俳諧性を稀薄にした。小西氏評して、天明俳壇の最高の作家だが芭蕉を越えるものではなかったと。
天明の中興の名家は寛政年間には姿を消す。時代は十九世紀、文化文政期には平俗は句となった。この時期の小林一茶は異色であったが、それ程の作家ではない。その後の天保年間も新味はなかった。よく言えば、蕉風の完成期であったと言える。
明治になって暫らくは同じ調子だが、正岡子規が出て天保の俳壇を「月並流」と攻撃する。そして「俳句」と名を変えて、小説に奪われた「第一芸術」の地位を主張したのである。客観的な写実精神を強調したが、蕪村をその代表と誤解していた。また、文芸上の主張と比べ作品は蕪村以上のものではなかった。小西氏の見るところ「日本派」の最大の作家は夏目漱石である。深い教養が良い俳句を生んだ。「日本派」の中で河東碧梧桐は写実精神を追求したが、大正年間に自由率へ移り、短詩に到って頓挫した。子規のもう一方の系統である「ホトトギス」の高浜虚子は、子規の推した蕪村に依り非現実的世界を形成した。仲間内でわかる世界であったため子規の主張した第一芸術から俳諧の世界へ逆戻りしたに等しい。
その後、俳壇には季語の排除などの動きもあったが、「ホトトギス」の重鎮、水原秋桜子がクーデターを起こし、これまでなかった「美しさ」を見せた。何か神秘的で静かで太古のような俳句であった。また先行して生まれ変わった短歌の影響を受け、連作俳句を提唱し叙情性の高い作品を世に出した。しかし隈なく表現するのは俳句本来の姿とは逆であり、やがて表現は頽廃へ向った。更に、山口誓子が出て新しい素材や漢語を用いた新しい視覚表現を持込んだ。しかし晩年になって描き尽くす表現を捨てた。本は、続いて中村草田男や加藤楸邨、石田波郷なども紹介している。
本の二度読みでは、あまりに内容が濃いので只ただ句を書き写すしかなかったが、それで十分である。語り口調で書かれ、名講義を聞いてるようで、実に魅力的である。直ぐにも本屋へ走り購入すべし!
ではまた。
まいど
土曜の午前中は、陽があったので窓際で万年筆のメンテやファイル整理をやってから何時もの速歩の散歩、午後は買物と、セワシナク師走の時を過ごしました。ケータイについている万歩計を見ると1万歩です。夕方は冷えてきたので、腰から下に毛布を巻いてページの更新に入ったのですが、毛布がイケナかった。椅子に掛けたまま居眠りです。そして夕食後にやっとまとまった今週の通勤読書は;
○中西進, ひらがなでよめばわかる日本語, 新潮文庫
日本語は漢字と仮名で書かれ、漢字には音読みと訓読みがある。訓読みは漢語の音便からできた語と大和言葉のどちらかである。この大和言葉読みを書名の「ひらがなでよむ」と表現している(この紹介記事では分りやすいようにカタカナで書く)。
この大和言葉の同音とその合成語によってカラダ・自然・生活等々に対してどのように使われているかを描いてあるが、それはある種の衝撃である。一つは、大和言葉の語源から言葉の意味を解説した「国語」の授業や辞書に出会わなかったこと、もう一つは、そこで描かれた世界、弥生人が大自然と人間社会に対峙して、その有様を真剣に言葉で表現し始めた現場に立ち会っているように思えるからである。どこか白川漢字学にも似ている。
さて、直ぐ気づくのは大和言葉には同音異義語が多いことである。例えば、カミ。漢字で書くと、紙・髪・神・上・守・咬み…がある。大和言葉に漢字を当てるとき意味ごとに別の語としたのだが、元は多様な意味を持った一つの言葉あったと考えるべきである。なお、古事記や万葉集が書かれた8〜9世紀頃には、ミに二つの音があったことが知られており、大野晋氏は上と神を分けて考えているが、中西氏は「仲間ことば」としてまとめている。解説者の佐藤氏は中西説を「止揚」と表現している。ヒも同様に日・火・霊などがある。仲間言葉としてみると、太陽の日が地上に降りたものが火と考えたという。霊は書いていない。
例えばイで始まる言葉は厳かである。イキ(息)は生きている証である。イノチとは斎の霊である。そのチとはオロチ(大蛇)やイカイヅチ(雷、厳の霊)のチと同じである。またチは血でもあり、不思議な力、霊格を表す。そこからチカラが湧く。チとカラから成るが、カラとは幹の意味であり、例えばカラダができる。カラダには魂がやどっている。それがタマである。タマは玉という字も当てられるように魂は球体と考えられた。
一方、自然界にはカミが居るが姿は見えない。ケハイや御業で存在が分るだけである。ケとは毛や気であり、もやもやしたものを指す。中西説では神は古代朝鮮語のコム(熊)から来ていると言う。アイヌ語のカムイも神であり熊であるところが同じである。これには若干の疑問が浮かぶ。アイヌ語のカムイは日本語のカミが伝わった言葉ではなかったのか? またカムイコタンには産卵場があって、ユベ(チョウザメ)がカムイであったと谷川健二が書くが、これとどう整合するのか、頭の整理がつかない。
本に戻る。カミに祈って願いがカナウためには繰り返しネグ(和ぐ)ことが必要であり、継続を示すフをつけてある。そうこうしている内に死を迎える。人は手枕・草枕そして最後に岩根を枕にするのである。人はシヌ。植物はシオルである。水分が抜けるのだ。なお、本では冒頭に人と植物の言葉の対応関係が書かれてある。ハナ(鼻、花)メ(目、芽)ミ(耳、実)等、植物は人の身体から類推されているのが分る。
死んでも終りではなく、タマ魂が離れるのである。それがカル(離る、枯る)である。そしてナキガラ(亡骸)となる。ガラは先に書いたカラ(幹)。これは草叢に放られる。それがホフル(葬る)である。
本は、人体と植物、命、大地、神、祭、生活、恋愛など太古の言葉と思想が次々と説明されている。本の解説には、本の要約と学問上の方法や立場についても書かれているため、ケノの紹介に騙されまいと思うなら解説から読まれると良い。太古の昔に連れ戻すチカラをもった実に興味深い本である。
印度犀じゃなかったドイツ国債の4割が売れ残って大変だ!って、ホンの1週間前に騒いでいましたが、その後どうなったかご存知ですか? ドイツ中央銀行が国債を買い取って何事もなしです。そうなんです。中央銀行は通貨の発行権がありますから、お札をすれば済むのです(インフレにならないよう様子見はいりますが)。それなら、東北大震災復興債を税金ではなく日銀が引き取ればよいのです。誰か、白樺とドジョウと渇兄弟の4人を成敗してください。
ではまた。
どうもぅ。
一段と寒くなりました。会社近くの銀杏並木は、週はじめ黄葉に朝陽が当たりその照返しで辺りを黄色に偏光させていたのですが、週末には葉を落としてしまいました。風で植込み付近に掃き溜められ、行儀の良い落ち葉でした。暫らく歩くと、他の木の落ち葉が風で吹き流されるのが見えます。時々、落ち葉は跳ね上がり、地引網に引かれた小魚が飛び跳ねるように光るのです。枯葉は落ちても暫らく命があるようでした。というわけで、今週の通勤読書は;
○松尾剛次, 太平記−鎮魂と救済の史書, 中公新書1608
太平記の筆者、背後勢力、意図などについて位置づけようとした本である。原本は、足利直義を中心として幕府の指示により法勝寺律僧である恵鎮らの教団により編纂された南朝諸氏の鎮魂の書であったとしている。原本は直義の検閲をうけており幕府の歴史書として位置づけられた。「太平<記>」であって物語ではないこともそれを示す。その後も幕府の関与があったと見られる。
恵鎮は比叡山延暦寺の官僧だったが別所黒谷に遁世し、戒律復興を目指した遁世僧の興円に同調した。やがて後醍醐天皇に信任され宝戒寺に持住した。更に京白川の法勝寺の大勧進となって経済を握り法勝寺は律僧恵鎮教団の寺院の一つとなった。律宗は女人救済や地獄からの救済者である地蔵信仰を広めた。教団は南朝・北朝に対し中立であったため、両派の調停連絡役となることがあった。
太平記は儒教的道議論と仏教的因果応報論が共存して両者は補完関係にあり、後者の論は恵鎮教団が編纂に当たったことと矛盾しない。一方、儒教的道議論は、藤原南家の儒者仲範や大学者の法印玄恵に負ったと見ている。玄恵は尊氏の子直冬が直義の養子となるまでの間預かったように直義と近しい関係にあった。更に、延暦寺の山門記録の専門家である記家のひとりであった義源が律僧興円の弟子となっており、歴史書のプロも教団にいたことがわかる。逆に法勝寺から延暦寺に登った律僧裕覚は南朝の軍奉行であって、太平記の戦闘にかかる記述は南朝の合戦記録からの情報によるものと考えられる。なお、著者とされてきた小島法師は近江国小島の法師で、ここも恵鎮教団の勢力があった。
南朝諸氏のなかでも最も重視されたのは後醍醐天皇である。第一部と第二部に登場するが、第三部は崩御後の話である。しかしここでも怨霊の姿で登場しており、太平記最大の主人公なのである。太平記は、細川頼之の管領就任と足利義満時代の開始を「めでたかりし事どもなり」と言祝いで終っている。
さて、佐藤進一『南北朝の動乱』、森茂暁『皇子たちの南北朝』そして上記と読んできたので外堀は埋まったようです。いよいよ『太平記』そのものへ進んでいかなければなりませんね。とはいえ、積読本が本棚一段と枕元を占めるようになりましたし、どうしたものか。
そういえば、年末年始の休みくらいハードカバーを読んでおこうと読書家の頁をサーフして、樺山紘一『ルネサンスと地中海』が面白そうと感じました。で、古書販売を探すと何と \2,600 (1996年11月初版)が \500 で出てました。送料込みで \900 しないで入手できました。文庫版と違って色刷りですし、美品で陳舜臣の対談を収めた冊子も挟んであります。こうりゃ儲けものです。って、今でもハードカバー20冊、選書版15冊を溜め込んでいるんですけどね。
ではまた。
まいど。
毎週書いていますが、一段と寒くなりました。どうも最近、金曜日が寒いのです。で、気象庁にお邪魔してK戸の気象統計から毎日の気温を貰ってきました。これをグラフにしてみると、11月の7,15,21,24日、12月の1,9,16日にそれぞれ前日よりグッと気温が落ちています。
その周期を数えると、8,6,3,7,8,7日となっていて、11月24日以降は、ほぼ1週間毎に寒気団が降りて来ていることが分ります。寒気団が周期的に南下するというより、偏西風の蛇行が周期的に南北に振れるということでしょう。グラフの谷をつないだ直線を延ばすと、30日か31日に冬日となるかも知れませんネ。閑があったら去年の気象統計と比べましょう。というわけで、今週の通勤読書は外堀を埋められて;
○武田友宏編, ビギナーズクラシック 太平記, 角川ソフィア文庫
太平記の現代語訳要約本である。「太平記らしさを伝える場面」が原文と訳文が並べて書かれ、その間を訳文の要約でつないである。この要約がナカナカ上手くできていて、現代語部分だけを読めばストーリーを中断することなく太平記全体を展望できるように工夫されている。戦況の変化を記すにはこの要約法は将に打って付である。実際、通勤読書においてもスピードを落とすことなく読み通せた。
興味深かったのは巻三十五「北野通夜物語」の政治鼎談に続く「十文得るのに五十文」の話である。夜間の移動で十文を小川に落としたのに気づき、松明と人手で五十文の経費をかけて銭を回収した。これを費用対効果の点から批判されての反論、銭が市場から消えることを防ぎ、更に五十文を投入して市場を膨らませたのだから良いことだという。南北朝時代にGDPの概念があったと想像される。増税をしたがる亡国政府に読ませたい一説である。
登場人物では、佐々木道誉と今川了俊が面白い。婆娑羅大名道誉の傍若無人振りやら屋敷明渡しの美学と策略にはある種の爽快感がある。当初は鎌倉幕府に付き次に南朝更に北朝足利に鞍替えして生きながらえた。将に「器用の仁」であった。了俊は、軍事的に優れているばかりか「難太平記」という太平記の批判書を書くほどの論者であった。なお、論者といえば、南朝方の北畠親房もそうだが、太平記での扱いは小さい。後醍醐は怨霊となる。ただし崇徳上皇が怨霊としてより高位であるとの共通認識が確認されている。
戦局が極めて悪くなり、回復や脱出が不可能となると、この時代の将は直ぐ自害したことが多数記載してある。そのメンタリティが気になる。また貴族ばかりか武将も感動すると直ぐ泣く。やっぱり応仁の乱以前の日本は別世界のようである。
少し原文を眺めてみると、巻一「酒池肉林の無礼講」や巻四「隠岐の御所の日々」の漢文調、巻二「(日野)俊基、鎌倉へ死出の旅」の嫋々とした大和言葉の対比も趣がある。これらは声に出して読みたくなる美文である。このように本書は太平記を読んだ気にさせてくれる。高校生時代に読むべき本のようである。
篠ふかく梢は柿の蔕さびし 野水
ではまた。
どうもぅ。
太平洋側・瀬戸内は晴天に恵まれています。でも風は冷たいですね。年末は床屋に行くほか予定がありませんので、部屋で日向ぼっこしながら本を読んで過ごしています。そうすると、良からぬ考えが浮かんできます。ブライヤーを買ってから暫らく買い物をしてないナァと。で、ネットサーフしているうちに思わずポチってしまいました。定価5万2千円が3万5千円ですし、長原宣義氏も退職されるとのことですから記念に買っとくか、とね[手前。奥は3776]。
書いてみるとチョットがっかり。これは売れ残るわナと思いました。悪くはないのですが、用途が限定されます。書くとキリリとした線になります。横線が太く、縦線が細い。ペンを立てると線は細くなるけどペンの滑りが不自然です。寝かせるとぼってりと太る。これは黒インクを入れて、葉書の宛名書きとか原稿用紙に大きな文字を書くためのものです。
売るためには「止め払いがキレイに」等は記すけど「大きな字を書くため」という情報を抜かすわけです。TV ニュースで散々騙されて手口を知ってはいるのですが、コロリと行くわけです。しかし、軸のギャザードはナカナカ良くて、プロフィットとは別系列のプロフェッショナルギアのペンとネジがコンパチのため普通のMニブを入れて快よく書けます。セーラーは細字を買って終りにしましょ。というわけで、年末大売出し的な今週の通勤読書は;
○高島俊男, キライなことば勢揃い, 文春文庫
表題部分は次の言葉をキライだと書く。体調をくずす、慎重な意見(姿勢)、ふれあい、いやし、まちづくり、いのちとくらし、思い出つくり、(我が子に)してあげる、電話を入れる等々。想像するに、今年の漢字、絆もこれに入るだろう。
興味深い話もある。戦争中、野球の審判はストライク・ボールを「よし」「だめ」と言ったというのはガセというのである。当時、野球の花形は学生野球であり、ずっとストライク・ボールと言っていた。職業野球はそれより地位が低かった。野球連盟は物資をもらうため上部団体・大日本体育協会の指示をうけて、用語を翻訳して規則を書き直したのである。そして憲兵が監視に来たときだけ「よし」「だめ」とやっていたに過ぎないと。どうも過去を捻じ曲げて伝える人々が我が国には居るようだ。
他にも「日本」の読み方について。「15日から三日間、お日様の休日です」のように日には4つの読み方がある。日東を今はニットウと読むが、ジットウという読みもあった。日本=ジッポンもあって良かったのだが、消えてしまったという話。
悪口が少ないなと思っていたら、研究者が槍玉に上がっている。「京都のさる大学の田中なにがし」とあるが、京都精華大学人文学部助教授田中貴子氏(当時)である。今昔物語にある「乞匃」をホームレスと意訳したのがイカンと。ケノが今読みかけている『百鬼夜行が見える都市』にもチラと出てくる。本を読んでもらっているので、田中氏にとって実は光栄な事だったのだろう。一方、東大史料編纂所教授の黒田日出男氏が「編纂=叙述」等の記号を意味不明に使っていると。ところが、教授が手紙を書いてハロー効果で黙らせようとして、逆に「あとからひとこと」に追記されるという後日談がある。『龍の棲む日本』は興味深かったが、著作と品格とは別だというオマケがついた。お言葉シリーズは実に面白い。
罠団に飼われているBKDジョウだから恨国から言われ放題です。像設置の容認ならびに大統領の品位のない脅し文言が不快なので大使召還を命じても良いくらいです。もともとGQHが参国人を特別残留させてノサバらせ、狸少判ラインを勝手に引いて竹島を奪い、65年の10億ドルの賠償金には礼も言わず、更に何かと因縁を付けては脅し取ろうとするのはザーヤクと同じです。これを野党が追求しようとする直前に、北の生活習慣病の百貨店が死にました。世論はアッチ向きます。多分、恨国大統領は知っていたんでしょうね。まぁ、外務官僚もBKD助ける義理はないし、BKDは国を守る心算もないし、国家の態をなさず無茶苦茶ですワ。セイゼイ税金取られすぎないよう頑張りましょ。
ではまた。
まいど。
年内最後の更新です。大災害があり後から見ると何かの変化の開始点、節目の年になるのだろうと思います。意識、特に政治意識の変り目でしょう。現政権の売国ぶりとマズゴミの情報操作を多くの国民が知るところとなりました。TVの時代の終。また、前も書きましたが、評論家の森田氏は安保闘争以降51年ぶりに反迷という意識が国民に立ち上がってきた、と指摘しています。
消費も無駄嫌いというかストイックとなり、確実に冷えて行くに違いないのです。人口も減少します。税収は下がる一方ですから、官僚は自らの収入源を確保するために増税を言うのです。そこも国民には見えてきました。民間企業所得と公務員所得の格差も分り、「子供にツケを残さないために」というデマに惑わされなくなるほど、賢くなったのです。ギリシャ国家破綻は、公務員天国による破綻という意味では他山の石ではないのです(財政の話ではありません。お間違えなく)。
来年3月〜8月に選挙があり、眠主党政権は瓦解します。しかし、その受け皿がなくて混乱が起きるでしょう。政党再編は必至です。しかし、それも大極的には節目の動きの一つです。そして数年、数十年経ってあの時コッチに向う動きが決まったのだ、と分るのです。まぁ、ジックリ動きとその影響を見ておきましょう。というわけで、今週の通勤読書は;
○佐藤・魚住, ナショナリズムの迷宮, 朝日文庫
佐藤優と魚住昭との対談である。ナショナリズム・官僚・ファシズムに関する三題話と言ったら叱られるかもしれないが、ケノ流にまとめると以下のようになる。
B.アンダーソン「想像の共同体」によってナショナリズムの発生を解説する。18世紀に啓蒙主義が起こり、革命によって神授ヒエラルヒーである王朝秩序の正当性が破壊されることにより生まれた。その形成には出版資本主義が役割を果たした。大部数の小説と新聞が市中に流通することで人々は属する社会を<一つの共同体>として想像させたのである。産業社会は人々を流動化させ均質化・匿名化させた。流動化することで逆に産業社会が維持できなくなる。そこで国家は経費を投じて国民を教育し、国民としての自覚を植えつけ共有の文化という一体感を用意した。結果的にナショナリズムと民族が強化される。国民国家は産業社会と相性が良い。同族ながら宗教が異なったため、たった百年で異なる民族神話を持つに至ったアルメニアとアゼルバイジャンの例を持ち出して「民族」の危うさを指摘するのである。
一方、国家は国民に課税して維持される。それを担うのが官僚である。マルクスは(1)地代を得る土地所有者、(2)利潤を得る資本家、(3)労賃を得る労働者の各階級を考えた。しかし国家を考察から捨象し、官僚は高級官僚を資本家にいれ一般の官僚や地方公務員は労働者とみなすという誤りをおかしたのである。佐藤は(4)税金を得る官僚という階級(という語はもちいてないがその特殊な社会階層)を考えなければならないと言う。(1)〜(3)は実体経済から生まれたので経済に限界があることを知っているが、(4)官僚は限界を知らない。欲望に任せて税の形で収奪を深めるのである。明治成立直後の高級官僚は百人扶持であったが、その後官僚は大衆化し収入が減ったため官僚特有の欲望を昂進させた。その結果1930年代に統制経済を軍事官僚が選択したのである。
政策により市場経済は制御できると官僚は考える。国家が全面にでるのが上に書いた統制経済であった。もう一つが、資本の活動を容認しながら過度の動きがあれば国家が介入するのが国家資本主義である。マイルドな介入であれば社会福祉資本主義となるであろうが、金融資本と独裁政権とが結びつくとファシズムとなる。佐藤は言わないが、ここでも官僚は黒子として暴力政治を支え国民を収奪する。ファシズムの政治的特徴は、デマと暴力である。しかも表面上は「清潔な政治」であり窮民対策という優しさを持つ。
小泉政権は当初は新保守主義の仮面を被り官僚を攻撃して清潔さで支持を受けたが、後に新自由主義を全面に押し出した。郵貯を金融資本へ売り渡すためのデマ政権でありファシズムの一歩手間であったが、彼には優しさが無かったと。本書には他にも、天皇機関説を沈黙させた蓑田胸喜の活動、宇野弘蔵の社会系学問への立位置、ヘルメットを冠る神学徒、ホリエモン事件等の興味深い話題も交えてある。宗男氏が仮釈放された記念に読むべき本か。
二大政党政治のマヤカシも学習しました。はじめの方に書いたように情報リテラシーが向上している。TVや政治家の発言の嘘は直ぐ分ります。でも、例えば投票するにしても何処に誰に投票すべきか分らなくなります。それは自分の中の「良い国、あるべき社会、住みたい地域」のイメージが薄いからでしょう。人がマイクを通して語る未来は、自分の未来ではない。自分の頭の中に湧き育った未来像だけが、他人の発言に良し悪しをつけることができるのです。優れたアジテータやメディアはこの未来像を操ります。でも、その洗脳のやり方自体に不審を持つに至ったのですから、なかなか人のココロは操れなくなりました。例えば、Twitter や FaceBook がジャスミンを用意したって誰も信じていません。勿論、佐藤氏が言うような対中国経済同盟としての TPP 論も信用できません。彼は今や政府のスポークスマンに零落れたのでしょうネ。
だから、内なる自分に対峙する時代が来るのです。それが弱ければ育てる努力も必要でしょう。でも情報操作がなければ案外ヒトは単純に動くのかもしれません。それで社会が廻って行けば良いし。それは今晩から始まるかもしれません。大歳神が遊興されるとき「私って何? 何を求めてるの?」と伺ってみましょう。
では、来年また