春休みには,「聖地セノハチ」に行く!,という決意でお年玉や小遣いを工面して,
中2の終わりに,「巡礼」に行ってきました。
さすがに親も,セノハチ=広島市の校外,ということに気付き難色を示しましたが,
孫バカ?の祖母の助けで,許可が出ました。(巡礼の若干のお布施も...)
21時台の最終「弓張」〜博多乗り継ぎ〜「明星」のハザ〜早朝の広島着でした。
*写真はすべて,1977 3.25
セノハチ 77
天神周辺(下の写真も)
当時の私は中学生らしく,小生意気だったので,自分の腕も省みずに駅撮りを見下しており,
駅を出て八本松よりのすぐの踏切を渡り,小高い丘で構えました。
素直に駅撮りしていれば...,と思いますが,実は,「明星」の車中で体調を崩し,この時は微熱
状態でした。そのために気がせっていたり心細かったりの状態でした。
それだけが理由ではありませんが,この最初のセノハチ詣では,構図や露出などかなり最悪です。
当時の瀬野駅周辺は御覧の通りで,周辺の景観は蒸気時代のなごりが残っているように思えました。
5年前に上り「さくら」で通過したときに,寝台の窓を通して見るその変容に驚きました。
左は初期型「湘南電車」の80系とEF15。右はEF61(たぶん)とEF59(元53)。
こうしてみると,70年代の山陽本線には,昭和20年代や30年代の車両風景がまだまだ残っていました。
もう2〜3年早くこの「聖地」訪れていれば,新幹線博多開業前の黄金時代を撮影できたのですが...。
鉄道雑誌で見る3年前の特急街道が頭をよぎります。(4年前にはクロハ181がここを...)
「鉄世界」では,どの世代でも,「あと,○年早く生まれていれば...」のため息がつきもののようですね。
この「聖地巡礼」は,峠越え穂機の醍醐味を味わうのが正当なのでしょうが,ビギナー&中2の当時の私は,
どうにもバスでの移動と当日の体調に不安があり,もっぱらそれ以上に,EF53とEF56の撮影気分でした。
この元2形式が走っているだけで,信じられませんでした。
微熱は治まらず,さすがに心細くなり,夕方までの予定を泣く泣く切り上げ,帰りました。
今ひとつ消化不良のセノハチでしたので,再訪を願い,この地を後にしました。
この願いは約2年後に実現することになるのですが,これもまた,番狂わせのセノハチ再訪でした。
この番狂わせについては,また後日にアップします。
しかし,この時の訪問で機関車たちを確かに録音したはずなのですが,テープが見つかりません。
セノハチの神からは未だに見放されているようです。 (了)