幼い頃の旅行の記録


記憶にある乗車,記憶にない乗車,記憶が風化しないうちに
聞き書きしたことをまとめてみます...

何分40年近く前のことですので,自信ある記憶,弱い記憶が
あることもご了承ください。

多少,自慢めいていることもご了承ください(笑)

1959年  特急「はと」 いきなり大げさな特急名で恐縮ですが,私の生まれる少し前に,当時鉄道関係の仕事についていた親が,門鉄のお偉いさんのお伴での出張で,大阪〜東京を展望車に乗ったそうです。私が卵細胞時代と言うことで,強引に乗ったことにします。
*事の詳細は,鉄道弘済会に勤めていた親が,何かの全国大会で大阪〜東京とまわる途中で「はと」に乗っていたら,展望車にいるお偉いさんから, 京都駅と名古屋駅であいさつのお伴に数名呼ばれて,名古屋まで乗車していたそうです。喜んで展望デッキにいたら,「汚れるぞ〜」と笑われて,その意味がわかったそうです。また,展望車は意外に揺れが大きかったそうです。
1962年  急行「西海」 記念すべき初列車です。12月に東京まで乗ったそうです。ロザだったそうです。
復路は,「あさかぜ」の個ロネだったそうです。
1963年  特急「みずほ」 とにかく,親が話すには最悪の特急だったようで,時期的にぎりぎり旧客編成の「みずほ」に乗ったようです。くさい,暑い,うるさい,と語っておりました。20系固定編成を期待していた失望でしょう。ちなみに私はロザにおんぶ紐で「固定」されていたそうです。
1965年  特急「さくら」 私の誇れる乗車記録です。10月1日の佐世保「さくら」処女列車に乗りました。親は,車内でカーネーションが配布された,と語っています。私は,駅が騒々しかったことを何となくおぼえていますが,3歳の記憶なので自信は50%です。
1966年  特急「みどり」 神戸まで乗車したそうです。まったく記憶にありません。チンチン電車(神戸市電)は,かすかに記憶にあります。
1967年  特急「さくら」 この頃からの記憶はおおよそ確かです。この時は,佐世保からのロネが取れずに肥前山口で長崎編成のロネに乗り換えたことをおぼえています。ナロネ22の個室側の通路が倉庫のようで怖かったことと,トイレと間違えて個室の扉を開けたら,外人が室内におり,笑顔を返してくれたことを記憶しています。また,隣の号車のロザは夜にどのように寝るのか気になり,見に行ったらそのままだったことも,この時の記憶です。
都電の銀座線と京浜東北線の73系も記憶しています。この直後に都電銀座線は廃止されました。
1969年 冬・夏 「さくら」 この年は1年の間に2回上京する,つまり,「さくら」に4回乗る,一番思い出の時期でした。冬は1月の下旬に乗りました。世相では「全共闘 安田講堂」なのでしょうが,もちろんまったく知りません。この時は横浜に滞在したので,「ブルーライトヨコハマ♪」を街角で聴いて,実感したことをおぼえています。
夏は,佐世保駅2番ホームの長崎国体記念の庭園が印象に残っています。
思えば,この年の記憶がこの趣味の世界に入るきっかけだったと思います。
1971年 春「あかつき」・
         新幹線

初めて「あかつき」に乗車しました。おなじみの肥前山口ではなく,鳥栖で併結作業をすることと,朝起きて見た海が東海地方の海でなく,瀬戸内海だったことが記憶に残っています。新幹線初乗車は新横浜下車と言うことで,「こだま」でした。G車の座席の広さに驚いたのと通路の自動ドアとマガジンラックが印象的でした。新横浜駅は,まもなく小3の私から見ても,驚くくらいの田園地帯でした。ヨコハマの近くに田んぼがあるのは驚きでした。復路は,「さくら」に乗り,結果的に最後の20系「さくら」乗車となりました。20系「さくら」は,結果的にロネのみの乗車でした。
1972年 夏「あかつき」・
         新幹線
前回と同じ往路でしたが,復路は14系初乗車となりました。ロネに乗れなかった残念さをおぼえないほど,室内の広さや自動昇降装置の新しさを記憶しています。20系と比べて,室内が明るく感じました。
この欄の右にある画像はこの時のもので,私の初写真です。
1974年 夏「あかつき」
         「はかた」
佐世保発の最終「あかつき」で東京に向かいました。岡山の手前から遅れ始めたのと遅れからくる並行ダイヤにはうんざりしましたが,山陽本線の下り昼行特急とのすれ違いを楽しめました。復路は新幹線→「西海」乗り継ぎの予定でしたが,架線事故(この頃は多かった)があり,「西海」には間に合わず,岡山で臨時急行「はかた」に乗り換えました。12系でしたが,眠れないのとダイヤの乱れを幸いに,山陽本線の上り夜行昼行特急群を眺めることができました。(とにかく多かった!)