小説についての雑記(あとがき)
○微香シリーズについて
微香シリーズは呉の名将・周瑜が女であった、という設定で三国志の物語の中に話を溶け込ませています。
女であったところで、歴史は大きく変わらないというのが基本で設定はIFですが話の本筋はほぼ正史・演義に準拠しています。
そもそもなぜ周瑜を女としたのか。
理由にはいくつかありますが、周瑜という人物の表記にはヒゲがないこと、そして眉目秀麗であったこと、の二つが挙げられます。
その当時、特に顔や姿に特徴がないかぎり、容姿についてかかれることは稀だったので、本当に美男子だったんでしょう。
しかし女が主役の話を三国時代を舞台に描くのは非常に問題がありました。
それを語る前にまず、三国時代の性について見てみましょう。
時代物のお話を書く上で、どうしてもネックになってくるのはその時代の性風俗についての知識です。
中国は歴史が古く、さまざまな文献も残っていますが、そのあたりのあまり詳しいことはわかりません。
たとえば下着。当時の男性や女性はどんな下着をつけていたのか?
それも詳しい記述はありません。しかし、日本は卑弥呼の昔から衣装などに中国の影響を大きく受けてきました。それから推測することはできます。
儒教の教え
当時の中国は儒教の思想が支配していました。
子を絶ってはならない。
男女の別をはっきりする。(男尊女卑)
儒教の思想というのは子孫繁栄の考え方なのであり、女は子をつくるための従属物で、子のない女は無条件で離縁できたりもしたのです。
無子の罪、というのですが、夫は子を作るために何人でも妻を持つことを良しとしているくらいです。
後漢時代の書物に「女誡」というものがあります。
これは当時の女子の教育書であり、中身はこうです。
「女たるもの、男より一生地位が低いことを認識させよ」
女子が生まれた場合、生後3日目にはベビーベッドから降ろされ床に寝かせられたと言います。
曹丕の妻、甄氏が夫へのうらみごとを言ったために死を賜った、という話があります。
現代の考え方では「それくらいで可哀想に」が、当時の男尊女卑社会では、夫が妻をなじることは許されてもその逆は罪に問われたのです。曹丕は皇帝ですから、その罪は重くて当然です。
唐の時代の法にこんなものがあります。
夫が妻をなじっても罪には問われず、妻が夫をなじると三年の刑に処せられた。
夫が妻を殴っても罪には問われず、妻が夫を殴打すると一年の刑に処せられた。
夫が妻を殺すと三年の刑を課せられるが、妻が夫を殺害すると死刑に処せられた。
周瑜の妻・小喬に関しての話は民間伝承に多く残っていますが、どれも気の強い女性として描かれています。
鋏池の話では周瑜と喧嘩をして鋏を投げつけた、などという口伝もあるくらいで、これが本当なら周瑜という人はかなり妻に対して愛情があり、かつ、寛大であったということになります。
こういう記述も「周瑜=微香の主人公」の設定のひとつの要素となりました。
女性の地位は低く、明代では女は無学であるべき、などという差別思想までありました。
ですから、正史に(王族は別として)女性の記述が載っていることは非常に珍しいことなんです。
ある程度の階級にある人物の系譜に女、と記述がある程度で、身分の低い場合、女の子供がいたかどうかすらも定かではありません。
実際、孫策には姉妹がいたことになっていますが系譜を見てもそれはわかりません。
孫権の姉婿に弘咨、という人は実際いたと正史にあります。「金蘭」では彼にも活躍してもらいました。
女の姉妹で唯一わかっているのは劉備に嫁いだ孫夫人ですが、本当は何人姉妹がいたかもよくはわからないのです。
また、幼くして亡くなった場合も正史から消されている場合もあります。
もちろん、妾や第二夫人などがいたこともあるでしょう。
ロバ顔などと称されて(愛されて?(笑))いた諸葛瑾なども何人も愛妾がいたと言います。なんだかイメージちがいますよね(笑)
こういう時代において、身分の低いはずの女に歴史に名の残る武将たちが翻弄されるという、いわば時代へのアンチテーゼのような話を書いてみたいと思ったわけです。
もう本当にモテモテなわけです(笑)
微香の周瑜は身分の低い女ではなく一人の武将として生きていく努力をしています。
この話のなかで私は孫策という男を試しました。
ちょっと私の個人的な趣味で、理想の男性っぽくなってしまったかな?
孫策伝を読むにつけて、益々好きになってしまったので、周瑜に自分を投影させてしまっているかも知れません(笑)
かたくなに孫策の求婚を断るあたりとか(笑)
私の描く「微香」は三国志に名を借りた恋愛小説なのです。
微香、暁光、金蘭、と三部続き、ようやく最終章です。
しかしここからはちょっと未知の世界に突入してしまいそうなので、なかなか進みません。
原作ではもうとっくに亡くなってるハズの期間のお話を書いているので・・・
三作の中で一番乗ってかけたのは金蘭です。
とにかく、孫策が一番元気だった頃のことなのでもう進む進む(笑)
あと、外伝では「江東余話」ですかね。自分でかいといて何ですがこの祖茂は結構好きだったり。とにかく孫策とは違う大人の男を描きたかったんですが(どこが)結末はああなってしまいました。まあ、仕方ないですね。孫堅に華雄を斬らせたし、満足です♪
○呉曄伝について
呉曄伝は孫堅の妻・呉夫人の話です。
曄、は、よう、と読みます。弟の名と関係を持たせる字にしたんですがなんとなく語呂もよかったので。
弟の呉景の字は不明だったのでごく普通に伯昭とつけました。あまりひねりがなかったかなあ。
呉曄伝(2)で曄の履物がぬげて素足が見えた、というシーンがありますが、昔の中国では女性は裸足を晒すというのはかなり恥ずかしいことだったようです。セクハラに近い?現代でいうと下着を見られたくらいな感覚でしょうか。
中国には纏足(てんそく)という忌まわしき風習があったことはご存知のとおりですが、中国人にとって女性の足というのはちょっと性的に特別なものだったように感じます。
孫策の祖父
六朝時代の「千字文」という書には、呉の孫家の初代として孫鐘という人物の名が出てきます。
この人物は瓜を売って生活していたとかいわれていますが、正史にはもちろん登場しません。
しかしこの孫鐘の子孫は呉王になったという記述もあります。
正史ででてくる孫堅の父は県の役人をしていたとあります。
ですから孫鐘という人物が本当に孫堅の父かどうか確かではありません。あるいは孫堅の父の兄弟である可能性だってあるのです。実際、孫堅の兄孫羌のこともよくはわかっていないのですから。
しかし、ここでは他に資料もないので、孫堅の父の名は孫鐘、字を季暁、としました。
呉王となった孫権の父と母であるから、早死にした割にはまだ資料はある方だと思います。
孫堅も早くに亡くなりましたが、母である呉夫人も孫策の死後数年後に亡くなっています。
はっきりとは書かれていませんが、孫策の死後2年後くらいに、孫権が国への官吏の登用などを控えていた時期があるようです。
母親が亡くなったあと喪に服するのが普通なので、おそらくこの期間であったのだろうと推察されるわけです。
劉備の結婚式に立ち会った女性は孫堅の第二夫人である呉国太です。
彼女は呉夫人の姉妹で、姉妹して同じ男に嫁いだのです。
呉夫人は策、権、翊、匡、孫夫人らの実母です。
孫堅には孫朗(おそらく本名ではない)という庶子がいたといわれていますが、これが呉国太の子であるとは書かれていません。
呉国太の子であるならもう少し正史に登場していてもおかしくはないと思うのですが。
ということは(女子はいたかもしれませんが)呉国太には子がいなかった可能性があるわけで、それがすごく不思議だったので、こういう話を作ってみました。遠からず心情的には納得できたかな、と思うお話に出来たと思います。
孫朗が主人公の小説「呉・三国志 長江燃ゆ」というのもありますので、興味のあるかたは一読ください。