恋心
江南は晩秋を迎えていた。
このころ、孫策は周瑜を伴って江南各地を転戦していた。
まだ日も明けない、薄暗い靄のかかる早朝、周瑜はひとり回廊を歩きながら先日自分が切り出したことについて、苦い思いを抱いていた。
江東の二喬のことである。
あの美女好きで有名な曹操ですら欲しがったという橋玄の娘の美女姉妹のことである。
周瑜は孫策に二人のうちどちらかを嫁にしろと勧めた。
その見返りとして孫策は周瑜自身を要求した。
初めてだった。
あのように抱かれたのは。
あの悦びは言葉でいいつくせそうもない。
しかし自分がそれを感じれば感じるほど遠くに不安を感じてしまう。
「毎晩おまえを抱かせろ」
そう言った時の不敵な笑みは周瑜の知っているいつもの孫策のものでは無かった。
怖い、と思った。
そう思った自分を、やはり女なのだな、と感じた。
孫策が侍女や下女をたまに抱いていたのは知っている。
若い男なのだから、当たり前のことだっただろう。
宴の最中に酒を運んできた下女を絡め取り、自分の膝に座らせて酌をさせていたことなどしょっちゅうだった。
夕べの宴の時もそうだった。
「だからって、私がやきもちを焼くようなことではないではないか。馬鹿馬鹿しい」
江南の、名もない城を落として、そこにひとときの居を構えた孫策の室の前まで来て立ち止まり、周瑜はひとりごちた。
第一こんなことでやきもちを焼いていたら二喬が来たときに自分はどうなるのだろう。
「何が馬鹿馬鹿しいんだ?」
背中から突然声をかけられて周瑜は心臓が飛び上がるかと思った。
ばっ、と体ごと振り返るとそこには孫策が立っていた。
周瑜より頭一つ分、背が高い。
振り返った拍子に目に飛び込んできたのは孫策のはだけた裸の胸だった。
「は、伯符、さま・・」
周瑜は頬に熱を感じた。
室から出てきたばかりで、どうやら起き抜けらしい。
髪も結ってはいなかった。
「どうした?顔が赤いな。熱でもあるのか?」
孫策はからかうように言った。
「ちが・・・・」
周瑜が何か言おうとしていたその顎を持って上を向かせた。
「なんだ。何を恥ずかしがっている?」
孫策にからかわれている。
そう悟った周瑜は自分の顎を捉えている孫策の手を払いのけた。
「夕べ抱いてやらなかったことを怒っているのか?」
平気で、そんなことを言う。
周瑜の頬がさらに熱くなって、それを悟られないために横を向いた。
図星だった。
夕べは宴のあと、酌をさせていた下女を伴ってそのまま寝所に行ってしまったのだ。
毎晩、抱かせろ、といったのは誰だった?
「馬鹿な、そんなこと・・」
意識もせず口に乗せた言葉は孫策に届いてしまった。
孫策は周瑜の腕を掴んで引き寄せた。
「・・・悪かった。夕べはあのまま寝所に行って眠りこんでしまって、あんまりよく覚えてないんだ。そう怒るな」
「別に、怒ってなどいません」
また、はじまったと思った。
この美貌の主が意地を張り出すとなかなか折れないことを孫策は良く知っている。
「・・・ならいいんだがな」
「・・手を」
「ん?」
「手を・・・お放しください」
孫策から見て、周瑜の赤らんだ頬が真下にあった。
わずかに抵抗を試みてその頬を背けている。
芳しい髪。白い肌。
それが孫策の情欲に火をつけた。
「イヤだ」
「伯符さま、お戯れはおやめください」
「おまえ、素直じゃないな。抱いて欲しいならそういえ」
孫策は周瑜の腕をひっぱって自分の室に引っ張り込んだ。
孫策はいつも強引だ。
剛胆で勇猛だ。
でもそんな男だから惹かれる。
それは何も自分に限ったことではないと思う。
ここにいる誰もかれもがそうなのだろう。
男でも女でも。
それを・・・・・
自分の我が儘で束縛するようなことがあって良いのだろうか?
そんな女は自分がもっとも軽蔑する類のものではなかったか。
孫策の腕の中で、周瑜はふと罪悪感を感じた。とたんに胸の奥が苦しくなった。
「伯符さま・・・先日のこと、取り消すわけにはまいりませんか」
「何を?」
「・・・その、私を抱かせろ、とおっしゃったことです」
「今だってこうして抱いているではないか」
「・・・・・これでもう、終わりにしていただきとうございます」
孫策は牀に横たわり、自分の腕で頭を支えて周瑜を見つめていた。
「おまえ、また何か余計なことを考えてたんだろう」
周瑜のこめかみにかかる髪を後ろへ流しながら言った。
「いえ・・・やはりこういうことはあまり良くないのではと思っただけです」
「どこが良くない?好きな女を抱くことが良くないことか?」
好きな、女。
そう言った。
周瑜は孫策を見つめていた目をそっと伏せた。
この人はどうしていつもこう、人の心を捉えて放さない術を知っているのだろう。
それも無意識だからタチが悪い。
周瑜は心の中で呟いた。胸の鼓動がいつもより速くひびく。
「俺はな、公瑾。別にこないだの条件なんかどうだってよかったんだ。おまえを抱けるんなら理由なんか無くたって良かった」
孫策の言葉を周瑜は目を閉じたまま聞いていた。
「おまえが女だって告白したあの時からずっと、俺はおまえに惹かれてた・・・・いや、もしかしたらその前から」
孫策が周瑜の額に手をあてる。それから目尻、頬、唇に触れる。
「おまえが俺の覇業のために男として生きる道を選ぶことに異存はない。だからこそ、だ」
「この約束の期間だけでも、俺の妻になってくれないか」
周瑜は大きく開いた目にこみあげてくるものを感じた。
それを見せまいと、孫策の胸に顔を埋めた。
相愛の相手にこんな言葉をかけられて、嬉しくない者がこの世にいるだろうか。
今はいい、二喬のことも、自分の選択したことも忘れよう。
そう思った。
すると、周瑜は、さっきまで感じていた胸の痛みが、すうっと引いていくような心地よさを感じた。
「・・伯符さま・・・うれしゅうございます」
自分の懐でききとれないほどにかすかに声がした。ふるえているようだった。
そんな周瑜が愛しくて、孫策は懐に抱いた手に力をこめた。
(了)