「公瑾どの。夕べのことを覚えていますか?」
「・・・・なぜ、そんなことを訊く?」
「私のことをどう思っているのかと思って」
孔明は周瑜の横になっている寝台の脇に腰を落とし、語りかけた。
「・・・・・嫌いだと言ったでしょう」
周瑜は顔を背けてそう言った。
「・・・・・今度もし私が・・・そうですね、あなたが嫌だと思う行動に出たら、そのときはこの短刀をお使いになっても構いませんよ」
そう言って孔明は自分の懐から懐剣を取り出して周瑜に渡した。
「・・・・?一体どういうつもりか」
「私があなたの色香に迷い、自分を抑えられなくなったときに、これをお使いになれば自制心がきくというものです。あなたに嫌われたくありませんから」
「・・・・夕べもおぬしはそう言っていた」
「・・・・・・・・」
孔明は怪訝な顔をした。
「なぜ・・そんなに私に構うのだ。こんなものを渡されたら私は本当におぬしを殺すぞ」
孔明はくっく、と笑った。
「いいですよ。どうぞ、やるときはひと思いに心の臓を突いてくださいね。苦しまぬように」
「・・・・」
冗談なのか本気なのか、周瑜はともかく懐剣をしまって溜息をついた。
周瑜が逃げた。
月瑛が手引きしたらしい。
均はそれを孔明から聞かされた。
「やれやれ、月瑛まで誑かされてしまうとは、公瑾どのの色香は充分武器として用を成しているな」
孔明は素知らぬ顔で均に言った。
月瑛まで、といったところに含みがあることを当然諸葛均は気づいていた。
それを受け流して返答にした。
「兄上、私は明日いいつけどおり、趙子龍の後を追って江陵に発ちます」
「うん。そうしてくれ」
「では」
均がそう言ってその場を辞そうとしたとき、孔明が呼びかけた。
「時に、均よ。おまえ、妻を娶る気はないか?」
「・・・・は?」
唐突な質問だった。
「あの月瑛だ。おまえも知っているとおり、あれは黄家の娘で漢中の豪族だ。婚姻して損はない。それになかなか賢い女でもある」
「・・・・・それは・・・・」
「あれは私に気があるようだが、私にはもう心に決めた人がいるのでね」
孔明は均に釘をさしているのだ。
「・・・兄上のご命令とあれば、私に異存はありません」
「・・・そうか。ではおまえが江陵から戻ったら手筈を整えるとしよう」
孔明はそう言って笑った。
兄は自分の気持ちを知っている。自分が周瑜に何をしたのかも知っているのだろう。
均はかすかに唇を噛みしめた。
・・・あの人は渡さない。
この兄には。
江陵へ発つとき、均は周瑜を攫ってきた時に使った薬を持っていった。
兄が手配した密偵により、江陵に仁を引く孫軍に周瑜がまだ戻っていないことを知ると、孔明から趙雲に孫軍の動きと、その周辺の偵察を命じさせ、油江口へ報せよとの命を受けた均は、船で見ているはずの女を見かけたら連れてくるように、とも言い渡した。
趙雲はさすがに怪訝な表情をした。
これから戦をしようと言うときに、女のことなど、なぜ気にするのか、とでも言いたげな顔だった。
「・・・全く、軍師どのらしくない。このような個人的な依頼をされるとは」
趙雲はひとりごちたが、ともかく偵察には出かけていった。
趙雲が油江口に戻って報告をし、さらにこちらに向かっていることを兄からの書簡で知ると同時に周瑜負傷の報が記されていた。
そこには魯粛が薬をくれ、というので調合して届けたのだが、正しい用法を書き忘れた、とあり、兄が書いてきた処方より量を多くすると、その薬を欲して常用せずにいられない体になる、と書いてあった。
これから自分は襄陽に発つ故、正しい用法を記したものを孫軍に届けてやってくれ、という。
均はしばらく考え込んだが、このまま放っておくことにした。
もし薬が必要なら自分が行って与えればよい。
そうすることで周瑜を虜にできる、と考えたのだ。
趙雲が孔明の命を受けてしたことは、孫軍の本陣を攻略するために主力が不在になった南郡城を攻めることであった。
不意をつかれた形になった曹仁軍は留守を守る陳矯が捕らえられるとすぐに降伏した。
投降する曹軍をまとめ、城の中を検分してまわっていた趙雲は、孔明が到着したと報告を受け、驚いた。
到着が早いのではないかーそう思ったが、やってきたのは紛れもなく英明なる軍師であった。
趙雲が出迎えると、均に一室を用意し、そこで状況報告を聞かせることになった。
そこで趙雲は周瑜に出会ったことを伝えた。
「・・・・あの周瑜公瑾という者は本当に女なのでしょうか。私にはわかりません」
均は苦笑すると、
「さて、どうでしょうか」と答えた。
曖昧な返答に少しじれながらも趙雲は
「もしあれが女なら私は世間知らずということになります。この世にあのような女がいるはずがない。馬を巧みにし、剣も扱うとは」と言った。
均はくすくすと笑うとそれへ同意した。
それから趙雲に、ここへ周瑜を呼んでこい、と命じた。
襄陽での作戦が成功した今となっては、ここを明け渡して孫軍に恩を売っておくのも良い。
それは兄からの指示でもあった。
「女か否か、ここへ来たときにご自分の目で確かめられるがよろしいでしょう」
周瑜が連れてこられて、久しぶりに再会を果たした時、均は改めて自分がいかに周瑜に惹かれているかを認識した。
そして、どうしても抑えられない情欲の念にかられて、周瑜を抱き上げ寝室に連れ込んだ。
二人きりになったとき、均は周瑜の様子がおかしいのに気がついた。
それも薬のせいなのだろうと決めてかかっていたが・・・・
予想していなかったといえば嘘になる。
しかしよもやこの手にかかろうとは。
胸に突きたった短刀を見たときも言葉はなかった。
自分の胸に触れて、手のひらについた紅いしみを見た。
死ぬのか?
不思議と痛みはなかった。
自分の血潮のかけらが目の前の美しい顔に飛び散ったのを見た。
(・・・私の血でこの人を汚してはいけない・・・・・)
均はその頬についた血を拭おうとしてそのまま倒れ込んだ。
「あ・・・・・」
最期に聞いたのは周瑜の声にならぬ声。
いつまでも聞いていたかった声だった。
(兄上になんと言おう・・・。ああ、また、だめな奴だと叱られるだろうか・・・・)
広がっていく自分の血潮の海に沈みながら均はかすかに微笑んで息絶えた。
孔明は諸葛均の亡骸を引き取って趙雲とともに油江口へと向かった。
弟の亡骸をどうしても荊州に葬りたかった。
孔明は、均が襄陽へ行くといった自分についてこなかったことをずっと恨んでいた。
弟は叔父の財産を継いで残った。
たった二人きりの、のこされた兄弟だったのに。
弟は兄の自分より、財に目がくらんだ、そう思っていた。
だが、叔父の妻の面倒も見ていたし、孔明も大人になってそのことに対してはもういい、と自分に言い聞かせていた。
だからこそ、自分の元に呼んだ。
一人の女を取り合って、愚かなことをしたと思わないでもない。
・・・・弟は自分とは違う。
わかってはいたが、心の隅のどこかで自分と同じように生きて欲しい、と願っていた。
均が周瑜に渡す薬の用法を正すかどうかが孔明の賭けだった。
だが、結果はこうだ。
周瑜に正しい薬を与えていればあのような幻覚に殺される事もなかったであろう。
それが自分の仕掛けた罠だというのであればそういうことになる。
馬上、隣の趙雲が孔明を見つめている。
弟が死んだというのに、あまりにも自分が平然としているから不審に思っているのかもしれない。
あの人にちょっかいを出した事は許せない、と思う。
だが・・・あれも自分だったのだ。
自分が好きになった女だったからこそ弟も好きになったのだろう。
あれはずっと幼い頃からそうだった。
自分のものをなんでも欲しがった。そしてそれに挑むたびに失敗してきた。
幼い頃はそれをほほえましく思ったこともあった。
そうやっていつも自分のあとをどこまでもついてきて欲しかった。
「均・・・」
孔明はひとりごちた。
「何か?軍師どの」
趙雲が耳ざとく訊いてくる。
「いえ、なんでもありません。さ、先を急ぎましょう」
孔明はそう言うと、馬の腹を蹴った。
趙雲は一瞬孔明の目に光るものを見たような気がした。
涙かと思ったが先ほどの言動から彼が弟の為に涙を流すとは考えにくかった。
「まさか、な」
そう呟いてから趙雲は孔明に続いて馬を脚を早めた。
(了)