続・再会
〜前編
時は興平二年。
歴陽城までもうあと少しという距離で、孫策軍は陣を張っていた。
孫策の天幕には、今周瑜だけがいる。
たった今までここで軍議をしていた。
まだ、大勢人のいた、暖まった空気が天幕の中に充満していた。
「公瑾、傍に来い」
言われるままに、周瑜は孫策の傍にきて膝をついた。
周瑜の手をとり、立たせる。
「…会いたかった」
「伯符さま」
肩を抱き寄せて、軽く抱擁する。
ここ歴陽での再会を、何より喜んでいた二人である。
「…もっとよく顔を見せろ」
孫策はそう言いながら周瑜の顔を覗き込むように顔を近づけた。
周瑜の方は、孫策の精悍な顔を間近で見ることになって、恥じらうようにそっと目を伏せた。
「伯符さまも立派におなりで、見違えました」
「おまえこそ、また一段と、綺麗になった。連中の顔を見たか?」
孫策は愉快そうに言った。
「子衡や子明はおまえのことを、もっとごつい、強面の男だと思っておったようだぞ」
「伯符さま、いったい私のことをどういう風に彼らに話していたのです?」
周瑜はおかしげに答えた。
孫策は取った手を握り、その双眸を見つめて言った。
「本当に、心配だった、おまえが」
「すぐに参じられなくて申し訳有りませんでした」
「…いつかの、あの袁術の屋敷でおまえを見たときは、息が止まるかと思った」
「伯符さま」
「おまえは自覚がないのだろうが、あの時のおまえの姿を見ればどんな男だっておまえを欲しがる」
「…あれは化粧が過ぎました」
孫策はその言いように思わず笑った。
「まあ、外見だけを見れば、の話だがな」
「私の中身は男ですからね」
周瑜はぶすっとして言った。
孫策はその顔を見て愉快そうにまた笑った。
久しぶりに会って、過ぎ去りし日のことを回想していたのだろう。
しばしの沈黙の後、孫策はフッ、と笑いながら言った。
「で、やはりおまえは俺の求婚を拒むわけだな?」
「…それは…」
周瑜はいつもの、困った表情をした。
孫策には答えがわかっていたのだが、この美貌を前にするとつい、言いたくなってしまう。
「まあいい。おまえの言い分はわかった。俺もまだ当分は戦続きで嫁どころではないだろうしな」
「…申し訳ありません」
周瑜はこの件に関して謝ることしかできない。
孫策もそれはわかっていた。
彼は、この美貌の主と一緒にいられればそれで満足だった。
「それより今日はゆっくりおまえと酒を酌み交わしたい」
「はい、それはもう。江東の美酒をくすねてまいりました故、後ほど持参致します」
「そうか、さすがに気が利くな」
孫策は大声で笑った。
呂範は以前、海陵で周瑜に会っていた。
陶謙に、袁術の間者と疑われ捕らわれた海陵城から救出された時、彼は気を失っていたので誰がどう、自分を助け出してくれたのかは実はよくわかっていなかったのだ。
直接彼を助けたのは孫策の宿将である韓当なのであったが、だいたいなぜ丹徒で警備に当たっていたはずの韓当が海陵にいたのか。
韓当から詳細を聞いているはずの孫河に話を聞いてもそこらへんのことはよくわからない。
ただ、周瑜に救出を頼まれたから、とだけ聞いている。
だから呂範としては、当の周瑜本人にちゃんと事実を聞きたかった。
そう思って、陣中を探して歩いていると、孫策の天幕からちょうど誰か人が出てくるところを見た。
「あれは殿…と」
孫策と周瑜だった。
談笑しながら連れ立って歩いていく。
あんなに楽しげな孫策は見たことがない。
もう陽も落ちるというのにどこへ行くのだろう。
なんとなく声をかけそびれて、二人を見送った呂範だったが、どこへ行くのか気になって少し離れて二人の後を着いていく。
ほどなく長江のほとりに出た。
何をする気なのだろうか。
なにやら周瑜が身振り手振りで話をしているようだ。
おそらくは戦の話だろう。
そう思って少しホッとした。
なぜホッとしたのか、呂範はふと考えて、その考えを振り切るように頭を振った。
「殿」
ようやく呂範は声をかけた。
孫策は振り向いて、声の主を睨みつけるように見た。
呂範はその様子に気づいて狼狽したが、声をかけてしまったものは仕方がない。
明らかに、周瑜との時間を邪魔された孫策の不興を買ってしまったようだ。
「なんだ子衡。何か用か」
「あ、いえ、お二人が陣を出ていくのを見かけたものですから」
「ふん、なんだ。つけてきていたのか」
「もう日も落ちましたし、不用心かと思いまして」
「おまえごときに護衛されるようでは俺もたいしたことはないと思われているのだな」
「いえ!決してそのような…」
「なら、おまえは一体何が不用心だというのだ!」
孫策は怒りをあらわにした。
「伯符さま、もうそれくらいでよろしいでしょう」
助け舟を出したのは周瑜だった。
だが孫策はまだ治まらぬ、とばかりに周瑜に一瞥くれただけで呂範にさらに言葉を投げつける。
「いいか、二度と俺の跡をこっそりつけてきたりするな。俺がどこで何をしようと、おまえが知る必要はない」
「は…申し訳ありません」
呂範は孫策の怒りを買ってしまったことを悔んだ。
呂範を追い払った後も、孫策はせっかくの気分に水をさされてすっかり不機嫌になってしまった。
孫策は普段は明るく活達なのであるが、一度不機嫌になってしまうと、人や物に当たる癖があった。
それで使用人などを殺してしまったことも一度や二度ではない。
そんな彼を諫められるのは孫河や周瑜くらいなもので、周りの部下たちは孫策の機嫌を損ねることを何より恐れていたのだった。
「伯符さま、まだ怒っていらっしゃるのですか?」
「ああ、だっておまえ、あいつ俺達のことを盗み見していやがったんだぞ?」
「たまたまついてきただけではありませんか」
「たまたま、ではない。あいつは俺とおまえの仲を疑っているんだ」
「は?」
「そして、あいつはおまえを男だと思っている。…どういうことかわかるな?」
周瑜はぽかん、と口をあけたまま呆然としていたが、やがて吹き出した。
「くくくっ…、なるほど、そういうことでしたか」
「笑い事ではないぞ。おかしな噂が陣中に流れたら困るのはおまえだ」
「私は平気ですよ」
周瑜は笑いながら言った。
孫策はフン、と不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「だいたい、おまえが女だと言えば何の問題もないことなんだぞ」
周瑜は咳払いをひとつして、笑いをおさめた。
「久しぶりに伯符さまに会えて少し浮かれていたのかもしれません。自重します」
「俺も同じだ。だが俺達の事情は他の誰も知らないのだから仕方がないだろう」
「…つらいですか?」
「俺が?」
「ええ」
「別に、俺はどうとも思わん。言いたい奴には言わせておけばいい」
「さすがは伯符さま」
「だが、おまえとの時を邪魔されるのは我慢ならん」
眉間に皺を寄せる孫策の顔を、周瑜は目を細めて見上げた。
「…私もです」
「公瑾」
孫策は周瑜の手を取った。
周瑜も孫策の手にもう一方の手をそっと覆うようにかぶせる。
その行為が孫策にはとても愛らしく思えて、それまでの不機嫌さもどこかへ吹き飛んでしまった。
それがわかったので、周瑜はあえて呂範のことを振ってみた。
「呂子衡殿は忠臣ですね」
「ああ」
「伯符さまのご不興を買うのがわかっていてもあのような注進をなさる。伯符さまは良き臣下をお持ちになりました。なにもあんなに怒らなくてもよろしかったものを」
周瑜の言葉に、孫策は握っていた手を離し、真顔になった。
「それとこれとは別だ」
「彼はおかしな噂が立たぬよう、心配して様子を見にきたのでしょう」
「そんなことはわかっている。だが俺だって臣下の目を気にしてばかりいるのは正直煩わしい。ああでもいわねば厠にまで見張りに立ちかねん」
周瑜はその様子がなんとなく想像できて、苦笑した。
「それだけ伯符さまをお慕いしているのですよ」
「余計な世話を焼く奴が多いんだ」
孫策は口を歪めて言った。
「それに、どいつもこいつも、俺の周りにいる奴らは俺が戦好きで、戦さえしていれば満足なのだと思っている」
「違うのですか?」
周瑜は少し笑いながら言った。
「おまえまでそんなことを言うか」
孫策は呆れ顔で言葉を続けた。
「否定はせんが、いくら俺でも戦ばかりで満足なぞするものか。俺がなぜ戦うのか、おまえにはわかっているのか?」
「志なかばで倒れたお父上のご遺志を継ぐため、でしょうか」
「ああ。最初はそうだった。だがこうして自分の軍を持って独立した今となっては少し違ってきた」
孫策はその視線を長江の遠く、彼方へとやった。
「ずっと俺は俺の、天運を試したいと思っていた。江東を平定し、そこを足がかりに中原を狙うと」
「ええ、伯符さまにならお出来になります」
孫策はすっと、視線を周瑜に戻した。
「その時に、隣りにおまえがいてくれれば良いと思った。おまえは言ったな?おまえの望みは俺が覇王になることだと」
「…はい」
「俺は、俺の望みと同時におまえの望みも叶えたいと思った」
「伯符…さま」
「そうすればおまえは俺の妻になってくれるのだろう?」
「伯符さまが覇王におなりの暁には美女などよりどり選び放題ですよ」
「話を逸らすな。俺は与太話をしているわけではないぞ」
孫策は真顔で、真剣だった。
周瑜は観念した。
「…そうですね。伯符さまはあの時わざわざ舒までおいでくださったのですから、私もちゃんと応えねばなりませんね」
「そうだ、俺はおまえに求婚しに行ったんだ。見事に振られてしまったがな」
周瑜はクスリ、と笑った。
「…その時になっても、伯符さまのお心にお変わりがなければ、謹んでお受けします」
あんなに頑なだった周瑜がこうもあっさりと陥落するので、孫策は少し拍子抜けしてしまった。
「そ、そうか。絶対だぞ」
まるで子供の約束のようだ、と周瑜は思って微笑した。
だが、どうしたものか。
現実問題として、やはり頭領である孫策に、おかしな噂がたつのは好ましくない。
たとえ本人が意に介さずとも、臣下にとっては士気にかかわる問題になる。
「それよりも現在のことです」
「ん?」
「私もいろいろと、自重せねばなりません」
「具体的にどうしようというつもりだ?」
「このように、二人きりで会ったりしない、とか」
「それは駄目だ」
孫策は即答した。
「伯符さま…」
周瑜は苦笑した。
「それでなくとも戦になれば、こうして逢瀬を楽しむことも少なくなるだろう。一緒にいるときくらい、いいじゃないか」
孫策のためを思えば、こんな甘えは許すべきではないのだろう。
ここで突き放したら、孫策は怒るだろうか。
周瑜はそんな意地の悪いことを考えてみる。
「でないと俺は機嫌を悪くして部下の誰かを斬ったりするかもしれん」
「…私を脅すつもりですか」
周瑜は呆れ顔になった。
孫策はニヤリ、と笑った。
「おまえが余計なことを考えるからだ」
「伯符さま…」
「文句を言う奴がいたら俺が斬ってやる」
軽口を叩いているように思えるが、孫策は本気なのだろう。
このまま孫策を拒絶するようなことになれば、本当に死人がでるかもしれない。
周瑜はもうひとつ、溜息をついた。
「わかりました。しかし、私も伯符さまの臣下の一人です。そのように扱いください」
「ああ」
気のないような返事に聞こえた。
(続く)