呉曄伝(7)〜呉夫人伝異聞〜



「本当に無茶をする」
孫堅は少しあきれ顔で言った。

近くの村の女の手を借りて、なんとか無事に栄は子供を産んだ。
戦の後処理もあって、孫堅たちも少しの間滞在することになって、曄も妹に付き添って村人の家に寝泊まりしていた。
それまで張りつめていたものがぷつり、と途切れた瞬間、曄はようやく自分の脚の痛みを思い出したようであった。
それを知った孫堅は、その手当をしてやっていた。

「だが、あの簪のおかげでおまえのところへたどり着けた。やはりおまえは才女だな」
「・・・やっぱり拾ってくださったのね」
孫堅は自分の懐から簪を取り出した。
「ああ。少し飾りが欠けてしまったな。また新しいのを買ってやる」
曄はにっこり微笑んでそれを受け取りながらゆっくりと首を横に振った。
「これがいいの。私の願いを叶えてくれた、この簪、大事にしますわ」
「・・・そうか」
孫堅は自分が選んだ女に、やはり間違いはなかった、と改めて思った。

「それよりも、あの子が心配だわ」
「あれは、許劭の子か」
「・・・おそらく」
「どっちだった。男か」
「女の子よ」
「・・・ふむ」
曄は孫堅を見た。
妹と再会してからずっと、思い悩んでいたことを言おうかどうしようか、迷っていた。
孫堅が手当を終えたところで、彼女はついに口を開いた。

「・・・あの」
「なんだ」
「・・・・勝手なお願いなのですけれど・・・」
孫堅は表情を変えずにいた。
「言って見ろ」
「・・・・あの」
曄にしては珍しくもじもじした様子だった。
孫堅は笑いを噛みしめた。
「妹も、その・・・・私と一緒に・・・」
「一緒に、なんだ?」
孫堅にはもう曄の言いたいことはわかっていた。
曄は覚悟を決めて、顔をあげた。
「私と妹を、あなたのところへ一緒に嫁がせていただけないかしら」
孫堅はその涼しげな目を細めて笑った。
「・・・それは構わんが・・おまえはそれでいいのか?」
曄は目を伏せた。
「・・・本当は嫌。文台様の奥方が私以外にもいるなんて」
かすかに身体を震わせている。
孫堅はその様子を嬉しそうに見つめていた。
「すごく、嫌よ。贅沢なことをいうかもしれないけれど、文台様は私一人の旦那様でいて欲しい」
伏せた睫毛の根元がうっすらと濡れていた。
孫堅はそれを愛おしい、と思った。

「でも、あの子も私と同じで親がいないし、あんな子供を抱えて生きていくなんて無理だし・・・」
あの戦のさなか、栄の母親、つまり曄の継母は行方不明であった。
死者は実に数千人にのぼり、おそらくはもう死亡しているのだろう。

孫堅はフッ、と表情を緩めた。
「俺はおまえのそういう心根の優しさが好きだ」

孫堅は曄の手を取って言った。

「こののち俺が昇進すればおまえの妹は側室としてあげ、子も俺の子として育てさせよう。だが」
孫堅は曄の目を見つめた。
「俺の妻はおまえだけだ」
男らしい容貌が、曄の潤んだ瞳の中で揺れた。
「文台様・・・」
「おまえは俺の後継ぎを産むただ一人の女だ」
孫堅は曄をしっかりと抱きしめた。






エピローグ



「お姉さま、お茶をお持ちしました」
栄が盆にお茶を乗せてやってきた。
「ありがとう」
お腹の大きな曄に代わって細々としたことを妹はやってくれる。
「旦那様はもうお出かけになられたのでしょうか?」
「ええ」
「そうですか・・・忙しいのですね」
「それはもう。あちこちの乱を鎮めてまわっているのよ」
曄はニコニコとしながら言った。
「お兄様もご一緒?」
「ええ。伯昭はすっかりあの人になついてしまって」
「ご活躍なさるとよろしいですわね」
「そうね。きちんとお手伝いできるようになれば良いのだけれど」

「お姉さま」
「なにかしら」
「本当にありがとうございます」
「なあに?あらたまって」
「お姉さまが旦那様にお願いしてくださらなかったら今頃私、あの子とのたれ死んでいました」
「姉妹なのだから、あなたの面倒を見て当然でしょう?それに、子供に罪はないわ」
栄は目を潤ませた。
「心配しなくてもあの子はちゃんと孫家の娘としてきちんと輿入れさせてあげてよ」
栄は感動して曄の手を両手で握りしめた。
「私、お姉さまに男子が産まれたら、一生懸命尽くしますわ」
「まあ」
曄はクスクスと笑った。
「お願いするわね。あの人の子だからとても一筋縄ではいかないと思うけれど」

「それにしても世の中騒がしくなってきたこと」
曄はお茶を飲みながら淡々と言った。
「私の子はどのようにこの乱世を渡っていくのかしら」
少し微笑んだように言った。
「お姉さま、まるで楽しんでらっしゃるようですわ」
妹は不安げな表情をした。
曄は少しだけ微笑んで妹の髪を撫でた。
「楽しんでいるわけではないわ。ただ世の中が変わる、そんな気がするの。この子が成長するころには新しい世の中になっているのではないかと思ってね。その世界を私は見たいと思うのよ」
「変わる・・・本当に変わるのでしょうか」
「ええ。この子が教えてくれているわ。はやく暴れたくてしょうがないみたいよ」
曄はお腹を愛おしそうにさすりながらそう語った。




(了)











駆け足で書き終えてしまった感じでしたがようやく完結です。
正史にある、孫堅の妻呉夫人はその記述の詳細はないのですがどうやら姉妹して嫁いだらしいというところからこのお話ができました。
ところが妹が登場するのは例の劉備の嫁取りの段のみで登場時の名は「呉国太」となっています。
正史には呉夫人の記述しかないことから彼女は側室あるいは妾であってしかも姉妹であるからにはなんか理由があったんじゃなかろーかと勝手に推測しちゃったわけです。
しかも、呉夫人伝には彼女の兄弟のことは弟の呉景しか出てこないし。
曄の妹が産んだ娘は孫策の姉になりますが、正史にも孫策に姉妹がいた記述もありますし庶子「孫朗」っていうのもいますしね。
今回は孫朗の件は無視しちゃいましたが。

呉夫人は孫策の死後2年ほどで他界していたと思われます。
彼女の死についての記述も当然なく、やっぱり旦那と長男を早くして無くした精神的ショックが大きかったのかなあとか思ってしまいます。
孫堅はなかば呉夫人を略奪に近い形で娶ったわけですがそんなとこも長男の孫策は真似しちゃったりしてますよね。母にしてみれば「ああ〜あの人を思い出すわあ」みたいな感じだったりして(笑)
だからきっと大喬との仲も良かったに違いないと(笑)
思うに彼女はやっぱり長男を可愛がってたんではないかと思うわけです。
次男の孫権にしてみれば母親といえば妹のほうなのかも知れません。
孫権が母のために建てた寺とか結構後の方ですからね。しかしどーもこのあたり、演義のニオイがプンプンするんですが。