次々と戦死者が出る中、混乱する曹操軍からかろうじて逃げ延びようとしていたものがいた。
ホウ統はひそかに用意していた船で、曹操軍を出発していた。
「元直どの、本当に劉玄徳どのの所へは行かれないのですか?」
「ええ。今更、もう戻るつもりもありません。それにあの方の元には孔明がいます。あなたこそ、どうされるのですか」
ホウ統と同じ船に乗っているのは徐庶、字を元直と言って、元は劉備に仕えていた軍師であったが、今は心ならずも曹操の配下になっていた。
「私も同じようなものです。ただ、ちょっと訪ねたいと思っている人はいるのでそこへ寄ろうと思っていますが」
「そうですか・・・・うらやましい。今の私はもう抜け殻のようです」
「そのようなことをおっしゃらずに・・・むっ」
ホウ統は船を走らせながら前方を睨んだ。
「あれは・・・」
前方には孔明の乗る船がいた。
夏口へ向かっているようだ。
「孔明、よくぞ戻った」
夏口城で劉備は両手を広げて孔明を迎えた。
「ただいま戻りました。我が君には無理を申し上げて申し訳無く思っております」
「よいよい。そなたのよこした書簡にあったとおり、すでにおのおのの武将たちは持ち場に待機しておる。ただ・・・・」
「雲長どののことでしょうか」
「うむ」
「敢えて雲長どのを華容道に配したのには意味があります」
「雲長が曹操を見逃す、ということにか」
「はい。今ここで曹操が死んだら、北の地をはじめ、いまだ納まっていない西の地やこの荊州ですら混乱を極めるでしょう」
「・・・・董卓亡き後のように、か」
「私が以前より申し上げている天下三分の計を実行するのです」
孔明は劉備と別れて自室として使っている部屋に戻った。
「お戻りでございますか、孔明さま」
孔明に声をかけたのは一人の女であった。
孔明の恩師でもある黄承彦の娘、月瑛であった。
「・・・・あの人はどうしている?」
「奥の間に寝かせてあります。まだ目を醒まさないようですが、大丈夫でしょうか」
「少し薬が効きすぎたか・…」
孔明は続き部屋になっている奥の寝室に足を運んだ。
少し大きめの牀台に周瑜は横たわっていた。
恐らく月瑛が着替えさせたのであろう、女物の寝衣を身につけ、つややかな黒髪は牀台の下まで流れていた。
「美しい・・・・」
孔明は膝をついて周瑜の顔を覗きこみ、その頬を撫でた。
「あなたをもう、誰にも渡しはしません」
その様子をじっと月瑛は見詰めていた。
「都督の船が行方不明だと?!」
呂蒙は敵の掃討にかかっていたが次の指示を仰ごうと周瑜の本陣に戻ってきていた。
「それはどういうことだ!」
「どこにも見当たらないのです」兵も困惑しているようだ。
「そうだ!文嚮は!?」
呂蒙は徐盛ならば何か知っているはずだと思った。
しかし、当の徐盛の姿も見当たらない。
呂蒙は兵に周瑜と徐盛を探すように命じた。
しばらくして、徐盛が戻ってきた、と報告があった。
呂蒙は急いで徐盛を呼び、事情を聞いた。
「・・・なんだと!都督があの劉備の使者に連れ去られただと!?」
「はい。船で追跡したのですが、あいにく敵の将兵に矢を射られまして、船が走らなくなってしまいました」
「・・・・・・なんてこった・・・!それは確かなんだな!」
「はい。しかとこの目で。船は夏口の方へ向かっておりました。おそらく夏口城へ向かったのでしょう」
呂蒙は怒りのあまり、言葉が出なかった。
「魯子敬どのと徳謀どのを呼んでくれ!」
この戦の最中に、自軍の大将を連れ去るとは、一体どういうつもりなのだ、と考えれば考えるほど腹が立つ。
呂蒙の脳裏にはあの孔明の不敵な微笑が浮かんだ。
陣舎に魯粛が先に入ってきた。
「公瑾どのがいなくなったというのはまことなのか?!」
つづいて程普も入ってきた。
呂蒙は怒りをかろうじて抑えつつ、話しを始めた。
「魯子敬どの。あなたが連れてきたあの使者です。あの者が都督を連れ去ったのです」
「な・・・・・・!」
魯粛は絶句していた。
「そ、そんな馬鹿な!なぜ孔明どのが公瑾どのを連れ去る必要があるのだ」
「知りませんよ、そんなこと!」
呂蒙は吐く様に言った。
「と、とにかく…このことをすぐ殿にお知らせしなければ」
程普も事情がよく飲みこめていなかったようであった。
「徳謀どの。とりあえず、都督に変わって敵の掃討作戦の指揮をお願いします」
「うむ。それは良いが…今後のことを考えねばならん」
「・・・・・くそっ・・・」
呂蒙はそれよりも連れ去られた周瑜の身が心配であった。
「・・・・・ここは・・・・どこだ?」
「お目覚めでございますか」
すぐ近くで女の声がした。
体がだるい。
起きあがろうとするが、体がまるで言う事をきかない。
かろうじて声が出せる、という程度だった。
「私は・・・・一体・・・どうしたのだ・・?」
思い出せない。
記憶が混乱している。
「あなたさまは孔明さまのお客人でございます。私はお世話をするように申し付かっております、黄 月瑛と申します」
「・・・・・こう、めい・・・?」
そうだ、孔明。
「・・・・いかがなされました?」
月瑛は不思議そうな顔をした。
「孔明は!どこだ!言え、女!」
勢いで起きあがろうとした周瑜だったが、体の半分が言う事をきかない。
「な・・なんだ。これは・・・体が動かない・・・」
「・・・・・医者を呼んでまいりますわ。しばらくそのままでいらしてください」
「これは・・・麻酔と阿片を使われましたな」
「阿片?」月瑛は首を傾げた。
「常用すると廃人になる危険なものですが正しく使えば痛みを和らげることができるのです。また、幻覚を見せる事もできる」
「それでこんなふうにからだの自由が利かなくなってしまいますの?」
「薬の量が多かったのでしょう」
「元にもどるのですか?」
「わかりません。気力と体力次第でしょう」
孔明は今劉備のところへ行っている。
「困ったわ・・・」
周瑜は牀台に横たわったまま、月瑛を見た。
「・・・・すまぬな。そなたに罪は無い。さっきは怒鳴ったりして悪かった」
月瑛は目を見張った。
自分にそのような物言いをする人を父以外、いままで見た事が無かった。
はっきり言って月瑛は美人ではなかった。
だから彼女に懸想したりする男はおらず、ましてや優しい言葉を掛けられたこともなかった。
「・・・・いいえ。私はあなたさまのことを何とお呼びすればよいのでしょう?」
「・・・公瑾、と呼んでくれ」
月瑛は頬を染めて頷いた。
彼女は周瑜公瑾の名を知っている。だがさすがに孔明から聞くまではその周瑜が女であるなどとは夢にも思っていなかったのである。
「はい。公瑾さま。お茶をお持ちしましょうか」
「ああ、お願いする。私はこんな体だから逃げ出すことなど出来ないからね。見張りはいらないよ」
月瑛は部屋の外に立つ細作のことを言っているのだ、と察した。
「お許しください。あれは孔明さまの手のものです。私ではどうにもできません」
「そうか。それは悪かったね」
そう言って涼やかに笑う周瑜を見て、月瑛が心を動かされないはずはなかった。