(26)暁光


 
 
 

徐盛は周瑜を寝所まで運び、寝台にその身体を横たえた。
「・・・・・」
徐盛はしばらく、寝息を立てる周瑜を見下ろしていたが、一息つくとその場を去ろうとした。
「・・・・?」
つん、とつっぱる感じがして、見ると自分の衣服の裾を掴まれていた。
振り返って掴んでいる腕の先をたどって見ると、周瑜が目を開けこちらを見ていた。
その目に吸い込まれそうになる。
「都督・・・お目覚めになっておいででしたか」
「文嚮・・・すまぬがしばらくここにいてくれないか」
「しかし・・・・」
徐盛は周瑜の申し出に躊躇した。
灯り取りの火がぼんやりと灯っているだけで薄暗い部屋の中に周瑜と二人きり、というのはいくら徐盛であっても意識せざるをえない。
しかし、周瑜の望みとあってはそれをも押し殺さねばならないのであった。
彼は周瑜の寝台の脇に座ると、横たわる周瑜の顔を見つめた。
「・・・・どうかなされたのですか」
そう問うと、周瑜はうっすらと笑った。
「おまえの背中が気持ちよくてつい眠ってしまったが・・・少し夢見が悪くてね」
「そうでしたか」
「何か、言っていなかったか?私は・・・」
「いいえ、何も」
徐盛は嘘をついた。
「そうか」
周瑜はほっとしたように目を閉じた。
徐盛はしばらくそのまま黙って座っていた。

「文嚮・・・・おまえはあの馬超という男をどう思う?」
「確かに、剛勇であると思いますが、なかなかに激しやすい性質で謀略には向かない方だとお見受けいたします」
「そうだね。私もそう思う」
「都督はあの御仁との同盟を持って曹操と対峙なさるおつもりなのでしょうか」
「・・・・益州だ」
「は」
「漢中を手に入れる」
「益州はたしか劉璋が治めておられますな」
「そうだ。だが劉璋は暗愚でその都は治まっていない。攻めればたやすく落ちるであろう」
「・・・しかし、劉備がおります」
「それだ」
徐盛は、周瑜の顔つきが変わったのを見た。
策を立てるとき、いつも周瑜は生き生きとしている。それを見るのが好きだった。
「益州に遠征する為に、劉備がいる荊州を通らねばならぬようにする」
「・・・・そのどさくさで・・・劉備を討たれるおつもりなのですか」
徐盛の言葉に周瑜は口の端をゆがめて笑った。
「劉備は既に公安に居し、零陵・桂陽・武陵などを攻めております。おそらく平定するのも時間の問題でしょう」
「殿は、荊州を奴にやるとは言ってはおらぬ。先に攻略する権利を与えただけだ。それを・・・」
語気に怒りが混じるのがわかった。

「馬超とはむろん同盟を結ぶ。彼は一族の実力者だ」
徐盛は何か言おうとしたが、口を開くのをやめた。
そのためにあの男と同衾したのか、と言いたかった。
周瑜はふ、とうすく笑って、徐盛に目をやった。
「何か言いたそうだね、文嚮」
「いえ」
「いいんだよ、何を言いたいのかはわかっている」
「・・・・」
「別に、自分の身体を餌にしたわけではないよ。そんな愚かな真似はしない・・・ただ」
徐盛は複雑な気持ちで周瑜の次の言葉を待った。
「あの男に惹かれたことだけは確かだ。だから許した。それだけだ」
「都督・・・・」
徐盛はそれ以上、何も言えなかった。
「・・・・・眠くなってきたようだ。すまぬが眠らせておくれ」

周瑜がそういうので徐盛は周瑜の寝所から出ていった。
ちょうど部屋から出るところへ馬超がやってきた。
「公瑾どのはもうお休みになられたのか」
「はい」
「ちょっとそこを通せ」
馬超は周瑜の室の戸の前にいる徐盛にどけ、と言っているのだ。
「なりません」
「なんだと?」
「お通しできないと申し上げているのです」
馬超はかっとなって徐盛の肩に手を置いて退けようとした。
「どけといっているのが聞こえんのか!」
「なんと言われましても」
「〜〜〜!」
馬超は怒りのあまり徐盛の胸ぐらを掴んだ。
幸いなことに帯剣していなかった。
「きさま・・・・・」
「都督は既にお休みになられております故、・・・どうかお静かに」
徐盛は馬超に胸ぐらを掴まれたまま苦しそうにそう言った。
「・・・・・そうか。おまえも公瑾どのに惚れておるのか」
そう言って、徐盛を掴んだ手を放した。
「・・・・何を・・・」
「おまえも知っておるのか、あれを」
「・・・・何のことかわかりません」
「・・・ふん、まあいい。だがな、公瑾どのは俺のものだ。忘れるな」
そう言い捨てて馬超は来た方向に戻っていった。
徐盛はそれを見送ると掴まれていた襟を正し、その場に座り込んだ。
「・・・・勝手なことをほざきおって」徐盛は吐くように言った。
今夜はこのままここで朝までいよう、と思った。
あんな男に周瑜の眠りを妨げさせるわけにはいかない。
 
 
 
 

戸が開いて、周瑜が出てきた。
「なんだ、文嚮・・・こんなところにいたのか」
少し、うつらうつらとした程度だったが、徐盛は眠い目を開けて周瑜を見た。
夜着のままだった。
まだ、陽が登り切っていない、薄暗い朝だった。
「朝議はいいからおまえは少し部屋で眠っておいで。今日の行軍に差し支える」
「いえ、大丈夫です」
「命令だ、文嚮」
「は・・・」
そう言って徐盛を下がらせ、身支度を済ませる。
今日は久しぶりに気分がいい。早起きもしたし、少し外の空気を吸ってこようか、と思いたった。
 
 

「公瑾どの」
回廊を歩く周瑜の背に、馬超が声をかけた。
「孟起どの・・・早いですね。夕べは失礼いたしました」
「いや・・・そんなことはいい。それより今時間はあるのか」
「いえ、朝議がありますゆえあまりゆっくりもしていられません」
「そうか。ならば手っ取り早くすまそう」
そう言って、馬超は周瑜の腕をひっぱって、近くの一室に入った。
「な・・何をなさる」
「しっ」
馬超は周瑜の口に手をあてて塞いだ。
そしてその身体を抱き寄せると、塞いだ唇をなでる。
「今は一時こうして別れるが・・・覚えておいてくれ。そなたは俺のものだ」
そういうと、馬超は周瑜の形のいい唇を吸った。
周瑜は驚いて目を見開いていたが、ゆっくりとその双眸を閉じ、その身を任せた。
やがて二人の影が離れると、周瑜はにこやかに言った。
「ひとつ訂正しておきます。私は誰のものでもありません」
「公瑾どの・・・」
「孟起どの、私ごときに溺れてはいけません。あなたはあなたの大望のために私を利用すればよいのです」
「そんなことはできぬ。俺は、そなたが好きだ。できるならそなたをつれて涼州にもどりたいくらいだ」
馬超は両手で周瑜の両肩を掴んで熱っぽく告白した。
その彼の真剣な眼差しを受け止めかねて、周瑜は目をそらせた。
「・・・もう行かねばなりません」
「約束してくれ。またの逢瀬を・・・でなければこの手は放せぬ」
「あなたが私の同盟者であるかぎりはそれが叶うでしょう」
「・・・・・・」
馬超は今、目の前の周瑜が女ではなく呉の参謀として存在していることを知った。
そしてそっと両手を放す。
「・・・わかった。そなたはなかなかに堅いな。砦をひとつ落とすよりもそなたを陥落させる方が難しいようだ」
そう言って苦笑した。
「見送りにはいかん。俺も出立する故な。だからここで別れを言おう」
「ええ。孟起どのもお元気で」
 

回廊を広間へと歩む途中、やっと陽が登ってきた。
その光が、目にまぶしい。
「さて・・・私にあとどれくらいのことができるか・・・まだ、そちらに行くには時が満ちていないようです」
周瑜はその暁光の中に、喪われた人の姿を見たような気がした。
 
 

広間にはすでに孫瑜や呂蒙たちが来ており、主だった武将がいた。
呂蒙は夕べ飲み過ぎたらしく、ひどい二日酔いだと言っていた。
周瑜は孫瑜と話をして軽く笑いあっていた。
朝議がそのまま始まった。
 

周瑜は出立の時刻を告げると、孫瑜に後を任せ、出発の準備をするために広間を後にした。
 
 
 

その日、周瑜たちは呉都に向けて出立した。
未だ、戦乱は続いている。
まだ、周瑜が戦衣を脱ぐ日は遠かった。
 
 

(了)