微香 終章
呉都の周家の中庭には玉蘭が咲き始めていた。
小喬はその花が好きであった。
清廉さ、美しさ、あでやかさ。
そして手を伸ばしてもなかなか届かない高嶺の花。
彼女のかりそめの夫であるその人そのものではないか。
「母上」
駆けてきた子供は7才になったばかりの利発そうな男児であった。
「父上はお帰りになった?」
「つい先ほどお出かけになってしまったわ」
「そうなの……つまらないなあ」
名を循。
周瑜と孫策の子であるがそのことはもちろん知る由もない。
循は純粋に小喬を母、あまり帰らない周瑜を父と思っている。
我が子をも騙すことをしている後ろめたさはあるのだろう。
だがそれはそれで良いのだ、と彼女は思う。
「お父様は都督なのですからね。お忙しいのよ。わかるでしょう?」
「はい、母上」
利発そうな、父の面影がうっすらと感じられる活達とした黒い瞳を持つ少年であった。
「でも……このまえ帰ってらしたとき書を読んでくださると約束したのに」
「また、戻ってくるわ。それまで待ちなさい」
「はい」
小喬は素直に頷く少年を優しく見た。
姉の息子ともよく遊んでいるし、自分の知らないところで二人とも父が不在であることを慰め合っているようでなかなかに仲が良かった。
小喬は姉の屋敷によく出入りしており、寂しさを感じることも少なくなった。
「私、幸せよ」
誰にともなく呟いてみる。
ふいに循が振り返った。
「なんですか?母上」
小喬はにっこりと微笑んだ。
「なんでもないわ。さあ、遊んでいらっしゃい」
「はーい」
駆けていく子供の後ろ姿を見送って、小喬は玉蘭を見上げ、しばしみとれていた。
「おや、周都督。今日はお一人ですか」
柴桑の城内の兵の駐屯地を見回っていた周瑜をめざとく見つけ、声を掛けてきたのは劉備軍の例の使者であった。
「……こんなところでなにをなさっておられるのです」
「孫呉の船を見に参ったのですが、兵が通してくれないもので、困っていたところです」
「諜報活動ですか」
「めっそうもない」
「孫軍の者でない貴方が一人でうろついていても、中に入れてくれるわけがないではありませんか」
「本当は魯子敬殿に頼もうかと思ったのですが、今日はお留守のようで」
諸葛亮は白羽扇で口元を隠しながら言った。
「周都督殿、お願いできませんか?」
「私は忙しいのですよ。凌公績にでも案内させましょう」
「それは残念です。ところであなたはどちらへ?」
「水軍の訓練に出かけるところですよ」
「そうでしたか。一緒に行ってもよろしいですか?」
「ダメです」
周瑜はきっぱり言った。
諸葛亮は目をぱちぱちさせた。
「ダメですか」
「ええ」
「えらく嫌われてしまったようですねえ」
諸葛亮は悪びれずに言った。
「あんな無礼をしておいて、当たり前でしょう」
「誘ったのはあなたではありませんか」
周瑜はムッとして反論した。
「誰が誘ったというのです」
「誘ったでしょう?そんな綺麗な顔と唇をして」
諸葛亮は周瑜の前に立ち、見下ろすようにして言った。
口の端に笑みをたたえていた。
「何度みても美しい」
「また、愚弄するおつもりか」
「愚弄だなどととんでもない。私の言葉は真実ですよ」
「都督」
諸葛亮が二の句を告げようとした時、彼の言葉を遮る者が現れた。
いつのまにか、周瑜の真後ろに男が立っていた。
諸葛亮がその男を見ると、相手もまっすぐに見返してきた。その視線はすこしばかり挑戦的でもあった。
「文嚮」
周瑜がゆっくりと振り返る。
「軍議が始まります。本営にお越し下さるよう、お迎えに参りました」
徐盛であった。
彼は射るように諸葛亮を見た。
「やれやれ」
ついに諸葛亮は根をあげた。
「なかなかにあなたの城壁は堅いようだ」
「何を言っているんです、あなたは」
周瑜は笑いもしなかった。
周瑜のすぐうしろに立つ徐盛もまた鋭い眼光で諸葛亮を睨んでいた。
「冗談ですよ。そんなに睨まないでください」
白羽扇を持つ男はそらぞらしく言って視線をそらせた。
「白檀ですね」
ふいに囁かれた。
諸葛亮はふふ、と口元を隠して笑った。
「あなたにふさわしい高貴で美しい香りです」
周瑜は少し呆れて言った。
「香にも詳しいのですね」
「ええ。自分でも調合したり致しますよ。香りには人を癒す力があるのです。特にあなたのような方を脳裏に描きながらそれに合った香りを作り出すのはなかなか楽しい時間ですよ」
諸葛亮はそう言ってくすくすと笑う。
周瑜は肩をすぼめて、やれやれ、といった感じで踵を返した。
「では私は軍議がありますのでこれで失礼いたします」
「いってらっしゃい都督殿」
去り際に徐盛が諸葛亮を一睨みして去っていった。
「牙城はなかなかに落とせそうにないとみえる。ならば手妻を使うのも一手か」
諸葛亮は彼らを見送りながら呟いた。
(了)
微香・改定版、終わりました。
序章と終章を追加したほか、あちこち加筆しています。
もうほんと誤字脱字が多くて申し訳ない・・(汗)