諸葛亮が周瑜に色目を使っていることは知っている。
その真意がどこにあるのかはわからなかったが。
船で、夏口へ行くというので諸葛亮の軟禁がとけた。
その彼と、陣舎の前で徐盛は出くわした。
先に声を掛けてきたのは諸葛亮の方であった。
「・・たしか、徐、文嚮どのといわれましたね」
「はい。何かご用でしょうか」
「いいえ。別にそういうわけではありません。あなたはいつも周都督と一緒におられるようですので少しお聞きしたいことがありまして」
「・・・・都督のことで、でしょうか」
「ええ」
諸葛亮という男、どう見ても文官である。
葛巾を被り、手にはいつもの羽扇を持っている。
なぜ、このような男が使者なのであろう。
徐盛にとって、この諸葛亮という男は別段美男子でもなければ英雄でもない。しかしその凡庸さからは想像もできないくらいの弁舌をつい先ほども城のなかで披露したばかりなのだ。
「あなたは見たところ、武官で従者ではありませんね。なぜ周都督にいつも付き添っているのです?」
「・・・・付き添っているわけではありません。周都督のご命令をいつも真っ先に聞けるようにしているだけですが」
「ふうん」
意味ありげなことを訊く。
「何か?」
「・・・・・いえ。周都督のつけていらっしゃる香は何かご存じですか?」
「さあ。某は全くそういったものには疎いもので」
「そうですか。それにしても都督は美しいですね。あのような方が陣中にあって孫軍は華やかでよろしいです」
「軍に華やかもなにも関係ありません」
「ふふふふ。そうでしょうか?あの方がそこにいるだけで、百輪の艶華よりも目をひかれますがね。心配ではありませんか?」諸葛亮は羽扇を口元にあてて言った。
「・・・・何がですか?」
「周都督のことが、です。あなたはご存じなのでしょう?あの人のことを」
「・・・・おっしゃる意味がよくわかりませんが」
「ああ〜、あのような美しい方が我が妻になってくださったらどんなに良いでしょう」
諸葛亮はうっとりするような目つきで徐盛を見た。
徐盛は途端に不快になった。
「・・・・・ご用がなければ某はこれにて」
徐盛はとっととこの場を去りたかった。
「あ、お待ちください」
「まだ、何か?」徐盛は露骨に嫌な顔をした。
「そんな顔をなさらないでください。いくら恋敵だからって」
諸葛亮は平然として言った。
徐盛はふと、気付いた。
(この男、俺を謀ろうとしている。その手にはひっかかるものか)
「・・・・・」
徐盛は無表情を装った。
いつも無口である彼にとっては別段難しいことではなかった。
諸葛亮は表情を動かさぬ徐盛をじっと見つめた。
そして、ふっ・・・と口元を緩めた。
「ああ、堅い。あなたは油断のならない人ですね。周都督のまわりというのはどうしてこう、忠義の塊のような方ばかりなのでしょう」
羽扇で口元を隠し、くすくすと笑う。
徐盛は諸葛亮を正面から見据え、真面目に言った。
「…妙な勘ぐりはお命を縮めますぞ。 ましてや都督は呉の兵の尊敬と畏敬の念を一身に受けられるお方なれば、あなたの不遜な発言でいらぬ騒動を起こす事もありえます。どうぞご注意を」
「おお、恐い…」
諸葛亮は妙に芝居じみた台詞を言った。
徐盛は気にせず「失礼する」と言ってその場を去ろうとした。
その背に、諸葛亮の言葉が投げかけられた。
「徐文嚮殿。私はあの方に惚れているのです。あなたが心配するようなことにはなりませんよ」
徐盛はその足で孫権のいる館に向かった。
周瑜が呼び出されているのだ。
その館の前で呂蒙がうろうろしているのが見えて、徐盛は苦笑した。
そうしているうちに周瑜が館から出てきた。
妙に、晴れ晴れとした表情をしている。
「公瑾どの」
先に声をかけたのは呂蒙だった。
「子明か」
「殿とのお話は終わりましたか」
「・・・・ええ。大丈夫。子明が心配するようなことは何もないよ。文嚮も、いるのでしょう?」
急に、名を呼ばれて、徐盛は少し驚いたが、塀の脇からすぐに姿を現した。
呂蒙はびっくりしてこちらを振り返った。
「なんだ、おまえもいたのか」
「申し訳ありません」
徐盛は呂蒙に頭を下げた。
「二人とも私を心配していてくれたんだね。ありがとう」
周瑜は笑顔を二人に向けた。
久しぶりのこんな笑顔だ。
徐盛は幾分嬉しそうに周瑜を見た。
「殿のお話って、何だったのです?」
呂蒙の問いに周瑜は笑って答えた。
孫権が周瑜が女であることを知っていたことを聞いた。
徐盛は多少驚きはしたが、孫権はそういったことを承知で人を信じることのできる大将だと思っていた。
「二人とも、私のところへ来るか?酒くらいなら用意させる」
呂蒙はしばらく考えてから、遠慮します、と言った。
「そうか、残念だ・・・文嚮は?」
「私はあなたをお守りするのが役目でございますれば」
「ではいらっしゃい。珍しく今日は気分が良いのだよ。うまい酒が飲みたいのだ」
「は。おおせのままに」
徐盛は呂蒙に会釈をし、風が運んでくる周瑜の香りを感じながら後に続いた。
来ないのかと思っていたが、後ろから呂蒙の足音が聞こえた。
周瑜の館につくと、小喬が待っていた。
「まあ、呂子明様、文嚮様!おひさしゅうございます」
「酒肴を用意しておくれ。私の部屋にいるから」
「はい」
小喬はそういって奥に行ってしまった。
周瑜の部屋で三人、腰を降ろし、小喬が用意した酒と食べ物を味わいながら話をした。
夜もふけ、したたかに飲んだ三人はかなり酔いがまわっていた。
小喬が酒の瓶を持ってやってきた。
「ああ、すまぬ。もう酒は結構だ」
徐盛は完全に横になって伸びている呂蒙と、案につっぷしている周瑜を指差した。
「まあ…ご主人がこのように酔いつぶれるなんて。本当に珍しいですわ…今日は本当にご機嫌でしたものね。まあ…呂子明様も。これでは今日はお帰りになれませんわね」
小喬はくすくす、と笑って言った。
徐盛は飲んではいたが、前後不覚になるほどではなかった。
「公瑾殿の寝所は何処か?某がお連れ申す」
「えっ、ああ、それは助かりますわ。でも呂子明様は…」
「申し訳ないが、ここに寝かせておいて戴けぬか」
「はい。それではこちらへ…」
小喬に案内されて徐盛は周瑜を抱き上げて寝所へと歩いて行った。
「それでは私は、呂子明様になにか掛けるものをご用意してまいりますわ」
そういって、下がった。
徐盛は周瑜を寝台に降ろした。
その間しばらく、眠る周瑜の顔を見ていた。
そのとき、徐盛の脳裏に諸葛亮の言葉が蘇ってきた。
(あのような美しい方が我が妻になってくださったらどんなに良いでしょう)
徐盛はちっ、と舌打ちをした。
「…あのようなたわけた文官ごときに、誰が渡すものか…あなたは必ず私がお守りしてみせる」
そう呟いた。
そのとき、周瑜の目がふと、開いた。
「…文嚮…か。すまぬ…な。また…おまえに手間をかけさせた…」
それだけ言って、その双眸は再び閉じられた。
「……いいえ。もっと、私を頼ってください。それこそが…私の本望です」
徐盛はそっと周瑜の枕元を離れると、一礼して部屋を出て行った。
(了)