想い出の人


 

周瑜が死んだ。
胸の病だったという。

その報せを荊州で聞いたとき、甘寧は漠然とした予感が当たってしまったことを知り、呆然とした。
曹操との烏林での決戦で、彼の麾下で戦って勝利した。
夷陵で助けて貰いもした。
・・・なにより孫呉での自分の道を示してくれた恩人でもあった。

・・・まだ、何も返せていない。
なにひとつ、あの人に自分は恩を返していない。
なのに、あの人は逝ってしまった。
もうこの世にいなくなってしまったのだ。

甘寧はこの時、荊州を占領する関羽と対峙していた。
関羽の侵攻を何度かここで食い止めた。
すきあらば抜いて、荊州を取り戻す。それが今の甘寧の任務だった。
それは成功して、今関羽は荊州南部から動けない状態にある。
だが、膠着状態のまま甘寧は周瑜の悲報とともに、その論功行賞のために呉へと戻されていた。

この前、呉に来てその姿を見せたのはいつだっただろうか。
随分痩せたな、という印象があった。
もともと痩身であった上、その色の白さが一層際だち、薄い唇がほんのりと桜色だったのを覚えている。

美しい、という言葉はこの人のためにある、そう思った。

一番最初に逢ったのは黄祖の元を飛び出して、呂蒙のところへ行ったときだった。
「俺の一存では通りにくいこともある。だがあの方のお力添えがあれば大丈夫だろう」
そう言って自分を周瑜の屋敷へと案内してくれた。

白い華を思わせる人だ、と思った。

整った顔立ちはヘタな女より美しい。
だが不思議と女っぽさはない。
ただ、可憐、という印象があった。
見とれていると呂蒙が笑って横からこづいた。

屋敷を出た後、呂蒙は「俺も初めてお会いしたときはそうだった」と言った。
それ以来、呂蒙とは打ち解ける仲になった。

「俺はあの人を尊敬している。俺ごときがあの人に追いつけるとは到底思えないが、少しでもあの人の荷が軽くなるよう、手伝えたらいいと思っている」
呂蒙はそう言って、その頃殿に勧められた学問を始めていた。恥ずかしいから誰にも内緒なのだと言っていた。
その呂蒙が、泣いていた。

程普や韓当、黄蓋といった宿将たちも必死で嗚咽をこらえていた。
なぜ、老いた自分達が生き残って若い前途ある周瑜のような天才を死なせたのだ、と線香が手向けられた祭壇に向かって怒鳴っていた。
それが、他の若い将兵らの涙を一層さそった。

その中に、ひとり気になる若者を見た。
まだ青年で、整った顔に唇を引き締めていた。

「伯言」
呂蒙がその男にそう声を掛けた。
まだ幼さの残る顔立ちは童顔とさえ言えた。
たしか、陸遜という者だった。葬儀の警備にあたっているようだった。
周瑜が生前目をかけていて、呂蒙の下につけた若者だった。
烏林のときにも校尉として従軍していたと思うが、甘寧は水軍、向こうは陸軍だったため会うことも殆どなかった。

こちらを向いたとき、目があった。
向こうは軽く会釈をしたが、甘寧は無視した。
なぜか、いらいらする。
なぜなのか、と考えてみた。
自分を仇とつけねらう凌統などは大泣きに泣いて、諫められながら陣舎へ戻ってしまっていた。
老将たちも一様に肩を落としている。
それが普通だ。こういうときは泣いてすっきりした方がよほどいい。
・・・なのに、彼だけが地に足をしっかりとつけてそこにいた。少しも動じる様子もなく。
それが甘寧の気に障った。

すべての策が振り出しに戻った。
益州を攻めることも、荊州を奪取することも、曹操と対峙することも。
それが悔しかった。
それほどの痛手だった。
夷陵での借りを、益州攻めで返したかった。周瑜の指揮の元で。
 

大都督の任には魯粛が就任した。
魯粛は周瑜とは親しくしていた友人でもあった。これまであまり口をきいたこともなかったが 戻ってきたついでに甘寧は魯粛に挨拶をしに行こうと決めた。
そこへ行く途中に呂蒙に会った。
「魯子敬殿のところへ行くのか?」
「・・ああ」
甘寧は呂蒙の隣にいる柳のようにしなやかな体つきの青年を見た。
背も高く、色の白い美貌の青年武官。陸遜だった。
「・・・おまえたちもか?」
「ああ・・こいつを紹介しておこうと思ってな」
呂蒙が隣の若者を振りかえる。
「伯言、甘興覇だ。知っているだろう?」
「はい。もちろんです」
「興覇、これは陸遜という。帳下右部督を勤めている。烏林の戦いのときに会っているはずだ」
甘寧は気のないふりでそれを聞いていた。
「ああ・・・」
陸遜はその甘寧の前に出て、礼をした。
「陸伯言と申します。烏林では章威校尉として従軍しておりました」
「ああ。で?子明、この若造に何をさせようってんだ?」
「うん、こいつを推薦しようと思ってな」
「推薦?」
「俺の副官として同行させる。こいつはなかなかすごい奴なんだよ」
「ふうん」
甘寧は陸遜をじっと見た。
やっぱりよくわからない奴だと思った。


「・・あの、甘興覇殿」
呼び止められて振り向くと、陸遜がいた。
「なんだ」
甘寧は自分が強面なのを知っていて、わざと眼を細めてすごんで見せた。
「・・・あなたと話がしてみたくて」
「俺には話すことなんかない。子明はどうした」
「子敬殿とお話が長くなっているようなので先に失礼してまいりました・・あの、私が何か気に障ることをしましたでしょうか」
「別に。何で?」
「・・・なにか、私を気に入らないように見えます」
「ほとんど初対面の奴にはたいていそうだ。俺は」
「・・・・それならいいのですが」
陸遜は少し遠慮がちに言った。
「呂子明殿は何かと私を気にかけてくださるのですが、私は今まで大きな戦を指揮したこともありませんし、子明殿の副官が務まるのかどうなのか、とても不安に思っているのです」
「ふん。おまえも武官なら情けねえことを言うんじゃねえよ。だれだって最初はそういうもんだ」
「・・・しかし」
「おまえがダメなら兵が死ぬだけだ。何万って数の兵の命を預かってる奴がビビってんじゃねえ。嫌ならやめちまえ」
「・・・そうはいきません。私だって武将です。この国を守る義務があります」
「なら泣き言を言うな」
そう言ってから甘寧は少し考えて強い口調で言った。
「あのな・・・なんで俺にそんなことを言うんだ。俺はおまえの親父じゃねえ」
「すいません・・・どうしてなのか私にもよくはわかりません」
そう言ってうつむく陸遜を見て、甘寧はため息をついた。
「正直に言うとな。俺はおまえのこと気にいらねえ。なんでかっつーと落ち着きすぎてっからだ」
「落ち着きすぎ・・ですか?」
「周都督の葬儀のときにおまえを見た。おまえだけ泣いていなかった」
陸遜は意外なことを言われた、という表情をした。
「・・・・それが気に入らないとおっしゃる?」
「率直に言うとそうだ」
「冷たいと、そうおっしゃるのでしょうか?」
甘寧は頭を掻いた。
「・・・おまえ、周公瑾殿が亡くなったってことをどう思ってんだ」
「どうって・・・・大変な痛手だと思っています。ですが、悲しんでばかりもいられないでしょう」
「・・・冷静だな。正論を言うなよ。だから可愛げがないってんだ。公績の方がよっぽどらしいぜ」
「・・・・」
陸遜は眼を伏せて首を振った。
「どうやら、私を気に入っていただけないようだ」
「俺に気に入られてどうしようってんだ、馬鹿」
馬鹿、と言われて、陸遜はムッとした。
「あなたに馬鹿呼ばわりされる覚えはありません。あなたは今や孫軍の有力な武将の一人です。気に入ってもらおうとすることがいけませんか?」
「ふん。いいとこの坊ちゃんらしい発言だな」
甘寧は露骨に嫌な顔をした。
「あなた方が皆で周公瑾殿を惜しむ気持ちはわかりますよ?でもあの方と比べられる方はたまったもんじゃありませんよ!でも、だれかがやらなければならないんです!」
少し興奮したように言った。
それをぽかん、とした顔で甘寧は見ていた。
「・・・何言ってんだ・・おまえ。だれもそんなこと言ってないだろ・・・周公瑾殿と比べるだなんて、誰が言った?」
はっと我に返ったように陸遜はたちまち真っ赤になった。
「すみません・・・!」
「はは〜ん・・・さてはそれが本音か。おまえ、殿の幕僚の文官どもにいろいろと吹き込まれたんだな?」
甘寧は顎に手をやってじろじろと陸遜を見た。
「なるほどねえ・・・・おまえは悲しむよりも先に公瑾殿の死を重荷に感じていたってワケか」
甘寧はうつむき加減の陸遜に向かってくっくっ、と笑った。
陸遜は顔を伏せたまま、唇を噛んでいた。
「子明が推薦したがる理由がわかった。おまえはやっぱり他の奴らとは違うな」
顔をあげた陸遜は甘寧を正面から見た。
「だがな、思い上がるなよ、伯言とやら。おまえが公瑾殿と比べられるなんて図々しいことは考えるな。そういうことは自分の力で戦果をあげてから言え」
「・・・はい」
「おまえとおんなじことを、あいつも感じているんだ。なにも一人で重荷を背負うことはないんだぞ」
「あいつって・・・?」
陸遜は甘寧の言葉に首をかしげた。
ちょうどそのとき、陸遜の後ろに呂蒙が歩いてくるのが見えた。

「お、なんだ待っていたのか、伯言」
「子明殿」
陸遜は呂蒙を振り向いた。
「・・・あ、もしかして・・・?」
陸遜の視線を受けて甘寧は歯を見せて笑った。
つられて陸遜も笑った。
「なんだよ、二人とも・・・なんで笑ってる?俺の顔になにかついてるか?」
呂蒙は戸惑いがちにそう言った。
「ああ、ついてるとも。まぬけな顔がな」
甘寧は大声で笑った。
「なんだと!このやろう!」
呂蒙は甘寧の首を羽交い絞めにした。
「いててて!冗談だって!おまえがもう阿蒙じゃないってことは知ってるって!」

陸遜はその様子を笑って見ていた。
じゃれあっていた二人は、ひとしきり笑いあってから言葉を交わした。
「子明、久しぶりに酒でもやらねえか?」
「ああ、いいな」
「そっちの坊やも来な。酒の呑み方を教えてやるぜ」
「・・はい、是非」
甘寧は苦笑しながら二人を交互に見た。
「公瑾殿のことでも語りながら、な」
二人が少しだけ苦い顔になったのを甘寧は面白そうに見ながら、あえてそれを無視して歩き出した。
 


(終)