(5)終章
都へつくまであと数日かかる。
徐盛は将兵用のサロンで弓の手入れをしていた。
この船旅で徐盛は周瑜の体の疲れを癒すことができそうだ、と思った。
それにしても気になるのは、孫瑜であった。
「・・・徐文嚮、ちょっといいか」
孫瑜に呼ばれ、徐盛は孫瑜の私室へ同行した。
「何か御用でしょうか」
「ああ・・・周将軍のことなんだが・・・」
「将軍が何か?」
「・・・あのことなんだが、他に知っている者は?」
「・・・・・・」
「何かあったときの為に、知っておきたいんだ」
「・・・某と、呂蒙殿、呂範殿、それから甘寧殿です」
「それだけか?」
「・・・あとは、殿・・・主公です」
「!」
孫瑜は驚きを隠せなかった。
「・・・殿は、ご存知なのか」
「そのようです」
「・・・そうか」
孫瑜はしばらく考えていたが、急に口を開いた。
「君は、どう思った?」
「何をでしょうか」
「・・・その、あの方が女性だと知って・・・」
「・・・ありえないことだと思いました」
「それだけか?」
「心からお守りしようと思いました」
「・・・そうだね。私もそう思ったよ」
「孫将軍は」
「ん?」
「周将軍に対し、どのようなお心持ちでいらっしゃいますか」
もう、とっくにわかっていることを徐盛は切り出した。
「私はあの方をお慕い申し上げている」
徐盛は孫瑜を嫌いではなかったが、やはり抱き続けてきた思いを、この際ぶつけることにした。
「・・・おそれながら、周将軍は・・・先代の殿、討逆将軍の想われ人でございました。相愛だったと、某は思っております。その将軍にそのようなあからさまに想いをぶつけるのはいかがかと思うのですが」
「わかっているよ、徐文嚮。あの方は苛烈な一面もお持ちだが、実に可憐な面もおありだ。たぶん、先代の殿を思うあまりに他の男を近づけないのだろうと、私は思うのだ。だから私の気持ちをお伝えしたところでどうにかなるものではないと、わかっているのだよ。だけど、お伝えせずにはいられなかった」
孫瑜は、はぁ、とひとつ嘆息をついた。
「そうしないと無用に狼狽えてしまう性格なのだよ、私は」
「・・・」
徐盛は少々呆れた心持ちで彼を見た。
「そうなったら、将軍が変に思うだろう?そんなことで信用を失うなど、私には耐えられないことなんだ。だったら最初からわかって貰っていた方がいいだろう?」
「ひとつ、よろしいですか、将軍」
「ん?」
「周将軍はこれまでも女性であることを隠して戦場におられます。我々はあの方をお守りして今日まできました。ですがそのようなことで狼狽えるような将軍が、あの方の秘密を守れる自信がおありなのでしょうか」
徐盛は歯に衣きせぬ物言いをした。
さすがの孫瑜も、それには少しムッとしたようだった。
「・・・言いにくいことを実に的確に言うね、君は」
「申し訳ございません」
徐盛は頭を下げたが、その態度ほどに心根はへりくだってはいなかった。
「私は口にしたことは守る。それとこれとは別だよ、徐文嚮。ただ、あの方と二人きりになったときには・・あまり自信がないということを言っているんだ」
「・・・ですぎた口をききまして、申し訳有りません」
「いや・・・君の気持ちもわかる。君は本当に主人思いの良い臣下だ」
「・・・・・」徐盛は頭を下げながら目を伏せた。
孫瑜はフフ、と笑った。
「・・・なにか?」
「いや、何でもない。任務の邪魔をして悪かったね。もう行きたまえ」
「は。では失礼致します」
徐盛が出ていった室で、孫瑜はそっと溜息をついた。
「そうだなあ・・・自分のお気に入りの人に近づく者がいたら、それがもし自分より立場が上の者だったとしたら、面白くはないな」
彼には彼なりの論がある。
(それが己が懸想している女であれば、なおさらだ)
孫瑜は目を瞑った。
なぜ、はじめにあの人と会ったのが自分ではなかったのだろう。
今更思ってみても詮無いことであるが、思わずにはいられない。
孫策ではなく、自分であったなら。
戦に連れ出すこともなく、妻にしていただろう。
そして今頃は子供にも恵まれ・・・。
・・・・・。
・・・・・・・・。
ふいに思い至った。
もし、そうなっていたら、今、この孫呉ははたして存在しえただろうか。
そう考えると、かの人はなんと得難い人物であっただろうか。
孫策と周瑜がこの江東で出会い、恋に落ちた。
そして孫呉の基盤を築いた。
かの人は常勝の将軍としていまでも軍を率いる。
恋人が亡くなって、それでも遺志を継ぎ戦場に立つ。
とても自分のような凡庸な男の手におえる人ではない。
それはわかっていた。
自分ではだめなのだ。
はぁ、とまたひとつ嘆息をつく。
そんな男達の気持ちをよそに、周瑜は自室で案卓の上に地図を広げて見入っていた。
その一部を指でなぞる。
荊州。
今も劉備の軍とのにらみ合いが続いている。
まんまと荊州の牧の職につき、公安に軍をおいたままである。
周瑜が南郡を攻略していた間、曹操軍は合肥に進行してきたという。
このとき、何を思ったか孫権自らが出陣したという。
周瑜はおぼえず、口の端に笑みを浮かべた。
(曹操め、陽動にでたか)
ぐずぐずしていては、曹操がまたぞろやってくるかもしれぬ。
烏林での敗北は著しく彼の名誉を傷つけただろう。その挽回の機会を狙ってすでに何度も小競り合いがなされている。
今はまだ力を蓄えているところなのであろう。
本当は今が攻め時なのかもしれない。
だが、肝心の荊州には劉備がいるし、大勝したとはいえ、やはり兵の数には圧倒的な差がある。
ー正面から戦うにしても、共闘せねば五分に持ち込むこともままならない。
そこまで考えて、ふ、と苦笑する。
いつもなにかを考えていて、それが常に戦に結びついてしまう。
いいのか悪いのか、それがいつのまにか自分の癖になってしまっている。
昔ならこうまで戦漬けの人生を歩むなどとは考えられなかっただろう。
それも、孫策と出会ってしまったからに他ならない。
もし、出会わなかったら、どうなっていただろう。
最近、たまにそのように思いをはせることがある。
自分も年を取ったせいだろうか、と思う。
小姓が入ってきてそれらの思考は霧散した。
一服入れて、将校サロンへ顔を出すと、皆礼を取る。
孫瑜が部下となにやら談笑をしていたところであった。
部下は馬普という。
古典や古い兵法について趣が深い男である、という。
武官でもない者を同行させていることについて、孫瑜はこれからの人間は、武ばかりでなく、学問も必要でしょう、と語った。
この馬普という男を教官にして、旗下の武将や武官たちに学問を教えようというのである。
「ちょうど、駐屯地を牛渚に移しましたので、そちらへ同行させるつもりなのです」
周瑜はこれにはいたく感心した。
戦ばかりに明け暮れている自分にとって、目から鱗が落ちる思いであった。
こういう国の支え方もあるのだ。
戦で兵を死なせるばかりの将よりも、よほど有意義ではないか。
「とてもすばらしいお考えです。良い人材を育成するということはひいては国のためですからね」
「ええ。他にもそういった優秀な人材を探させて登用しようと思っております」
同じ太守という立場にいても、やっていることはまるで違うのだな、と周瑜は思った。
たしかに、戦ばかりでは国は疲弊してしまう。
だが、次の世代が育ち、彼らがまた国のために尽くせば国は持ち直すことになろう。
自分のような者がいれば孫瑜のようなものもいる。
まだまだ、この国も乱れているとはいえ捨てたものではないな、とも思う。
なごやかなサロンの雰囲気も悪くない。
暖かな空気が、体を包む気がする。
いましばらく、この流れに体を任せたいと思うのであった。
(了)