風の記憶
「おまえの指、細いのな」
孫策がふいに、書き物をしている周瑜の手を自分の手と比較して言った。
「やっぱり女なんだな」
顎に手をあてて感心したかのように頷いている。
「今更何を言うかと思えば」
「な、な。指。見せて」
周瑜はわくわくしているかのような表情の孫策を一瞥した。
「今忙しいんです。私が今遊んでいるように見えますか?」
少し厳しい口調で言った。
「ちぇ。いいじゃないか少しくらい筆を置いたって」
「この書の写しをやってしまいたいんです」
「ふーん」
「ふーん、じゃありませんよ。伯符は何をやっていたんです?」
「俺はさっきまで弓を作っていたんだけど」
「じゃあまだその続きをしていてください」
「肝心の竹がなくなっちまったんだ」
「少し馬を駆けさせて取りにいけばよいでしょう?」
「それがさ・・・馬は権に乗馬の練習用に貸し出してるんだ」
「・・・じゃあせめて少し静かにしていてください」
「見ててもいいか?」
「どうぞ」
周瑜は筆を走らせながら返事をした。
書写している間孫策は静かに周瑜を見ていた。
「・・・・おまえ、化粧とかしないの?」
「しませんよ」
「すごい美女になると思うけど」
「本物の美女は化粧などしなくても綺麗なものです」
「じゃあおまえは本物の美女ってわけだ」
「・・・・」
少しからかうような孫策の言葉を軽く無視する。
周瑜の傍らで胡座をかき、その膝についた肘で頬杖をつきながら、彼はニヤニヤしていた。
「・・・・今度は何ですか?」
「いや、別に」
なにやら周瑜の顔を見てはニヤニヤしている。
ふいに、周瑜が筆を置いた。
そして孫策の方に向かって言った。
「気が散るので今日はここまでにします」
「へへ」
「・・・・」
周瑜は孫策を一瞥すると立ち上がった。
「あれ、どこへいくんだ?」
「着替えを」
「どこかへ出かけるのか?」
孫策へ、周瑜はにこり、と微笑みかけた。
「遠駆けしませんか?私の青鹿毛で一緒に」
孫策は嬉しそうに頷いて立ち上がった。
そして、周瑜の馬に二人で乗り、裏山の方へと駆けていく。
周瑜が前に乗り、孫策が後ろに乗る。
なぜか後ろに乗った孫策が手綱を握っている。
15のこの年、孫策の方が既に体躯は大きい。
孫策は、前に騎乗する周瑜の体をすっぽりと包み込むように両腕を伸ばして同じ手綱を掴む。
少し前までは、同じくらいだった背丈も、もう追い抜かれてしまった。
息がかかるほどに密着し、周瑜はこれまで意識したことのなかった感情を抱いていた。
それが何なのかは、まだわかっていないのだが。
「なあ、公瑾。おまえの家の事情はわかってるんだがな、やっぱり、それはどうかと俺は思うんだ」
「何の話ですか」
「おまえが男として育てられてるってことが不自然だって言ってるんだ」
「ああ・・・。それはもういいんですよ」
「おまえ、そのように他人事みたいに言うもんじゃないぞ」
「私は男、ですから。伯符もそのように接してくださると嬉しいです」
「うーん、そうだけど・・・・」
「なにか?」
「おまえが綺麗すぎるからいけないんだ」
「いけないんだ、と言われましても・・・」
「おまえを見た後、他の誰を見ても綺麗だとは思えなくなった。おまえのせいだぞ」
「伯符の母上はとてもお綺麗でいらっしゃると思いますが」
「母上は別だ。あの父が惚れたくらいだからな」
周瑜はクスクスと笑った。
「伯符のお父上のような殿方に望まれるのが女性としての最高の喜びでしょう」
「おまえは?」
「私は男ですから」
振り向きもせずそう言う。
将来、おまえを嫁にもらいたい、などとは言えない孫策であった。
村を見下ろせる丘の上までやってきて、二人は馬を降りた。
「伯符は、お父上にも負けないような偉丈夫になるのでしょうね」
「ああ、そうなりたい。だがな、いくら武勇を積んだところでそれだけでは足りない、と最近思うようになった。家には父上を慕ってたくさんの者が出入りしているだろう?あれを見て俺は、いくら一人で頑張ったって周りにだれかが支えてくれなければ何も出来ない、ってことを思ったんだ」
これを聞いて、周瑜はにこやかに笑った。
「虎の子は虎・・・いえ、伯符は麒麟児といったところでしょうか」
「その呼び名は気に入った」
「江東の麒麟児、ですね」
「おまえは美周郎か」
多少、皮肉を込めて孫策は言った。
美周郎、とは「美しい周家の若様」の意だ。
周瑜はじろ、と孫策を見て言った。
「伯符は私が女であることを厭うていらっしゃるようですね」
「そ、そんなことはない」
「このまえの出兵の時、伯符は私におっしゃっいました。男だろうが女だろうが関係ない、と」
「ああ、言った」
「・・・・でも、心の内ではやっぱり、残念だと思っていらっしゃるんでしょう?」
風が、周瑜のほつれた髪をなびかせる。
その髪が頬にあたり、それを細い指で押さえようとする。
(残念・・・残念なのか?違う)
「違う」
今度は声に出して言った。
「確かにおまえの素性を聞いて驚いたさ。だけどそれは今まで男として接してきたからであって、急に・・・おまえが女だということを意識し始めたから・・・だ」
「意識、とは何でしょうか」
するどいところへツッコミがきた、と思った。
「・・・・つまり、だな」
孫策は多少戸惑いながら、それを行動に移した。
彼は、隣にいる周瑜の手を取り、その手の持ち主の美しい瞳を見つめた。
「今まではこうしても別にどうということはなかった」
「今は・・・?」
周瑜が冷静に聞きかえす。
「今は・・・なんだか胸が熱くなる。こうしていると、手が汗ばんでくるくらいだ」
「なぜ・・・?」
「それは・・・」
孫策は漆黒の双眸から目を逸らせた。
「俺にもわからん」
孫策は、周瑜の手を握ったままでいた。
「・・・おまえのことを想うといつもこうなる」
「伯・・・」
「よく、わからん。おまえはおまえで、自分は男だというし。俺はどうしていいのか、わからない」
周瑜は少し悲しそうな顔をした。
「私は・・・やはりお側にいない方がいいのでしょうか」
「だめだ。それは」
「伯符は半妖、というのをご存知ですか?」
「人と妖怪の半分ずつを持つという怪物のことか」
「ええ・・・。それは妖怪のみならず、男か女かわからぬ者のことも指す言葉です」
「・・・・」
「そのような者のことを、気持ちが悪くはないですか?」
「何が」
「私のことです」
「ばかな!そんなこと、思ったこともない」
「・・・伯符は・・・わからなかったではありませんか、私が女だと」
「それは・・・」
綺麗な少年だ、とは思っていた。
だが、それだけだ。あの時までは。
「俺が、未熟だったからだ」
「私のことを、断金の友と思ってくださったのに。それを私は密かに裏切っていたのですよ」
「それはおまえの意図することではなかっただろうが」
「もちろん、そうです」
孫策は周瑜の手をぐい、と引き寄せた。
周瑜の漆黒の瞳に映る自分がいる。
それがわかるくらい顔を近づけた。
「おまえと別れるなど俺は今まで一度も考えたことはない。おまえが女で残念だったなどとも思ってはいない。俺はおまえの知謀をかっている。それは男とか女とか関係ないところの話しだろう。俺が父の跡をついで兵をあげるときはおまえが隣にいる。俺はそのつもりだ」
「伯符・・・」
「俺に、何度も同じことを言わせるな」
瞳を見つめたまま、孫策の顔が近づいてくる。
唇に、温かい感触が一瞬、訪れた。
「・・・・・!」
何が起こったのか、あまりに一瞬のことで、周瑜は呆然としていた。
それらすべてが風のように周瑜の腕をすり抜けていく。
すべてが風の悪戯だったかのように、その余韻まで奪っていくように感じた。
「行くぞ」
既に歩きだしていた孫策が背後から声を掛ける。
孫策は馬を岩場のところまで引いて、岩を足場にして乗馬する。
「ほら」
孫策が馬上から手を差し伸べる。
その手を借りて周瑜も馬上の人となる。
また、孫策の前に座って、彼の腕に抱かれるような形になる。
孫策は手綱を持ちながら周瑜の耳元に口を当てて囁く。
「俺の前では無理をしなくていい。女に戻って息を抜いたっていいんだぞ」
それを聞いたとき、周瑜は泣きたくなった。
普通の女として、孫策に出会っていればどんなに楽だっただろう。
もしそれが叶うならば、江東の虎に出会った孫策の母のように、すべてを捨ててもついていくのに。
「でもそれでは・・・」
「公私を使い分ければいいんだろ。公にはおまえは男で、それ以外では素に戻ればいい」
「・・・質問をしてもいいですか?」
「おう」
「伯符は・・どちらの私がいいのですか?」
「男か女か、ってことか?・・・難しいことを聞くんだな」
周瑜はクス、と笑った。
「そうだな・・・半分ずつ、かな」
「半分ずつ、ですか」
「ああ。さっきも言ったが・・・おまえを女と意識したときのあの感情、俺は結構好きなんだ。それから、戦術や軍略を語るおまえも。だから半分ずつ、だ」
孫策は周瑜の肩越しに笑った。
周瑜は密かな胸の高鳴りを気取られぬように必死であった。
耳にあたる吐息。
背中に感じる鼓動。
こんなに惹かれている。
言葉にすれば、全てが嘘になりそうで、周瑜はぐっと唇を噛んだ。
孫策が声を掛けて、馬を走らせる。
風が心地良い。
ふっと気をぬくと、体が孫策の胸に倒れ込む。
「寄りかかっていてもいいぞ」
男らしい声でそう言う。
さっきまでの子供っぽいところといい、本当にこの人はいろいろな面を見せる、と半ば感心している周瑜であった。
いつまでもこうしていたい。
この風の記憶を永遠に留めておきたい、そう思った。
(了)