終章



「それで、周将軍にはお変わりはないか?」
兜を脱いで脇に抱えながら、孫瑜は迎えに出た呂蒙に尋ねた。
「ええ。体調も悪くはないようです」
南郡城の回廊を、呂蒙と共に早足で歩く。

孫瑜は字を仲異と言い、孫策の叔父である孫静の次男である。早い話が、孫権の従兄弟である。
呉都から周瑜と一緒に戻ってきていたが、すぐさま丹陽へと出かけていた。
階級は奮威将軍である。
現在は丹陽の太守としてその統制力を発揮している。
周瑜は一つ年下の孫瑜とは、気が合ってよく話をしていた。
その影響もあってか、武の孫家の者には珍しく、音楽や書物などを好み、詩歌なども口ずさむ。

やがて広間に案内された孫瑜は、台座に腰掛けている周瑜と相まみえた。
「・・・・・」
しばし、言葉を失った。

以前よりも少し痩せていた。
だがその分、壮絶なまでに美しい。
もはやそれ以外に形容しようがなかった。

「孫奮威将軍、よく戻られた」
よく響く声。
この声がまた歌うところを聴きたい、と密かに孫瑜は思った。

「周将軍にもお変わりなく」
「将軍も長旅でお疲れであろう。今宵はゆるりと休まれるがよい」
「かたじけなく存じます」
孫瑜は一礼をして、顔を上げた。
「・・・堅苦しい挨拶はここまでにしましょうか。仲異殿」
周瑜は笑顔を見せた。
孫瑜もそれに破顔した。
美しい。
意図せず、頬が紅潮してくるのが自分でもわかる。
少年の日に初めて会ったときのように。
ずっと憧れてきた人だった。

「お元気そうで、安心しました」
「病が重い、と呉都では噂が立っていたそうですね」
周瑜はくすり、と笑った。

「あなたが見てどうかな?私は。そのように病弱に見えますか?」
「・・少し、痩せられたようにお見受けしますが、重い病を患っておられるようには見えません」
「ああ・・・どうも食が細くなってしまってね。ここでは江東のように美味い魚を食べられないからかな」
広間には徐盛と、呂蒙、陸遜らがいた。
笑って会話を交わしているが、事実周瑜はあまり食事を取っていない。
徐盛にはそれが何より気がかりだった。

「諸葛孔明らは公安にいるようですね。荊州を借りたまま、返すつもりもないようです」
聞きたくない名前が孫瑜の口から出て、周瑜はかすかに眉をひそめた。
「劉備軍など眼中にあらず。私が注目しているのは中原の覇者のみです」
「曹操ですか。烏林での大敗に懲りず、合肥にまた押し寄せてこぜりあっているようですね」
「しばらくは曹操自ら出向くようなことにはならないだろう。それが機というものだ」
「攻め上るのですか?」
「いえ、一旦は北と南で均衡を保つことが重要です」
「天下二分の計ですか」
「そう。そのために東呉はこれより北ではなく南にも勢力を伸ばすべきなのです」
「しかし・・・劉備軍が曹操についたら多少やっかいなことになりはしませんか」
「それはありえない。漢王室復興を旗印に掲げている奴が帝を傀儡にしている曹操に膝を屈すると思いますか?」
孫瑜は大きく頷いた。
「それで、そのためにどうすればよいと公瑾殿はお考えですか?」
「考えていることはあります。それが実現するかどうかはやってみないとわからないでしょうね」

陸遜はその場にいて、一言も漏らさないように一生懸命聞いていた。
隣に座る呂蒙も同じだ。

その後、酒が振る舞われた。

「そういえば、陳子烈が周将軍のお加減を随分気にしていました。私がここへ行くというので是非容態を確かめてきて欲しい、と言っていました」
孫瑜は酒を飲むと饒舌になる。
「子烈か、しばらく会っていないな・・・」
昔の、あの朴訥とした、顔を赤らめて大きな背を縮めながら自分の前に立っていた青年のことを思いだした。
今は独立部隊を与えられ、都護を務めていたが戦ごとに前線で活躍し、孫権に認められている。
「本当に、我が軍には周将軍を慕う者が多いですね。特に若い者は」
「私ではなく私の後ろにいる殿の人徳です。彼らは私を通して殿を見ていることに気付かないだけです」
その言葉に孫瑜は笑った。
「公瑾殿は本当によく出来た御仁だ。そのようなあなただからこそなのでしょう」
「仲異殿、からかわないでください」
周瑜は冗談まじりにそう笑い飛ばした。
孫瑜も笑ったが、「本当のことですよ」と言ってはばからない。



まわりの喧騒の中で陸遜は孫瑜をじっと見つめた。
端正な容貌だ、と思う。孫権の従兄弟ではあるが孫権には似ていない。
周瑜に気に入られているということは孫策に多少は似ているのかもしれない。
少し視線をずらすと周瑜と目があった。
周瑜は酒を飲みながら、目で微笑んだ。
(・・・?何だろう・・・)
陸遜は多少緊張しながらその目を見つめ返した。
「何か、私の顔についておりますか?」
陸遜がそう切り出すと、周瑜は微笑して言った。
「いや、昔のことを思い出していただけだ」
「昔のこと・・・ですか?私にはわかりかねますが」
陸遜にはピンと来なかった。
自分が周瑜とこんなふうに話すのはここへきてから初めてだったのだ。だから自分を見て昔を思い出すことなどあり得ない。
だが周瑜が何を思い出していたのかはあえて訊かなかった。

一族の半分を殺された、仇であった孫策はもういない。
それと同時に孫家への恨みももう薄れた。
だが周瑜が昔を思い出すときにはやはり今はもういないその男の名が出てくるのだろう。
陸遜は周瑜の口から、その男の名を聞きたくなかった。
周瑜は孫瑜と楽しげに話をしていた。それが、孫策と共にいる時の周瑜を想像させて、なんとなく嫌な気分になる。

(・・・イヤだな、どうかしている)
陸遜は自分の今の気持ちに理由を見つけられなかった。

(一種の妬きもち、というのかな、これも)
陸遜は自嘲した。
隣をそっと見た。
呂蒙は部下たちとニコニコと笑っている。
(こういう人がいるから、私は・・・)
思わずつられて笑ってしまいそうになる。
難しい顔をしているであろう自分がひどく場違いな気がして、少し恥ずかしくなった。

「伯言」
突然字を呼ばれて、はっとする。
「は、はいっ!」
慌てて周瑜を見る。
周瑜は微笑んでいた。
「・・・おまえには蘭の香りのするような友がいるかね?」
「・・・?は・・・はい・・?」
陸遜は言われた意味をよく飲み込めなかった。
呂蒙に至っては
「俺の周りは汗くさい無骨者ばかりですよ」
などと言って笑う始末だった。
陸遜は少し考えて、それが易経の一説であることを思い出した。
二人心を同じくすればその利、金を断つ。同心の言は、その香り蘭の如し、と続く一説だ。
陸遜は周瑜に対して失礼だとは思ったが、この言葉に疑問を抱かざるを得なかった。
「それを言うのなら断金、ではありませんか」
陸遜の返事に周瑜は更に微笑み返した。
「あまり繋がりが硬すぎると、片方がいなくなったときに残された方はつらいだろう?」
「・・・・」
陸遜は言葉を継げなかった。
周瑜は身をもってそれを証明していたからだ。
その脇に控えるようにして酒の器を持ちながら座していた徐盛は険しい表情で陸遜を見つめていた。




ささやかな宴の後、周瑜は徐盛を伴って部屋へ戻る回廊を歩いていた。
「・・・文嚮。そろそろおまえも独り立ちしたほうがいいね」
突然の申し出に、徐盛は驚いた。
「何を突然・・・あなたをお守りするのが某のお役目でございます」
「おまえは武将として、もっと手柄を立てるべきだ」
「手柄が何ほどのものでしょう。某にはあなたより大切なものはありません」
周瑜は苦笑する。
「おまえはあの頃からちっとも変わっていないね。それでは出世が遅れるよ」
「構いません」
その返事からは何の感情も読みとることはできなかった。
「おまえには武将としての才がある。私の為にその才を咲かせるのを遅らせたくはない」
周瑜は徐盛を振り返って見た。
徐盛は無言で首を横に振った。
周瑜はふっ、と嘆息をひとつつくと、今度は少し厳しい口調で言った。
「・・・それから、今のようなことは決して言ってはいけない。おまえの忠誠は孫家にあるはずなのだからね」
「わかっております」
「それならいい」

徐盛は少し躊躇して、口を開いた。
「陸伯言、あの者に目をおかけになりますか」
「そうだね。見所のある若者だと思うよ。おまえは嫌いか?」
「そういう訳ではありません。なにやら含みのある言い方をされておったようですので少し気になっただけです」
周瑜はくすくす、と笑った。
「おまえでもそういうことを気にするんだね」
徐盛は少しだけ頬を赤らめて口をつぐんでしまった。
「あれはいい武将になるだろうが、若い分、口の利き方を知らぬ。目上の者には反発されるだろうな。おまえも少しばかり大目に見てやれ」
「・・・・できうるかぎりそう致します」
自分の考えを周瑜に見透かされていた。徐盛は陸遜が周瑜に対していくら酒の席とはいえあのように意見すること自体気に入らなかったのだ。
今更ながら、懐の深い人だと思い、己の未熟を恥じた。



ふと、天上に丸い月が見えた。
「・・・漢中でも同じ月をみているだろうか」
周瑜は呟いた。
青白い月の光に照らし出された表情は穏やかだった。
徐盛は謎かけのようなその言葉の意味を理解できなかった。
問いかけようと思ったが、なにやら物憂げに考え込んでいる周瑜の邪魔をする気になれなかった。
そして、同じ月を見上げた。
すぐ隣にあってもあの月ほどに遠い存在を想った。

しかし、この後彼の一途な想いとは裏腹に過酷な運命が待ち受けていることは天上の蒼月ですらまだ知らなかった。





(了)