(18)密談


周峻、字を子厳という青年はこの年25になる。
叔父をつてに、孫家に仕えるようになってまだ日が浅いが、その性格は清廉で容姿も並み以上であった。
特筆すべき才があるわけではないが、要人の身内がそれなりの待遇をもって迎え入れられることはよくあることである。
そして孫軍はその傾向が特に強い。
ましてや周峻の場合は特別であった。

彼の叔父というのは現在孫軍において最高の軍人である周瑜なのである。

周峻は周瑜の亡くなった兄の息子である。
周瑜が孫策と知り合った頃に、まだ幼い彼は未亡人となった彼の母親とともに盧江の周本家に引き取られていた。
それ故、周瑜とは成人するまで会う機会もなかったが、先年河北の曹操が軍を率いて南下してくるというので、居を揚州中部へ移した際、周峻は孫軍に志願してきたのだった。
だが周峻が軍に入った時も、周瑜はハ陽にいて、その報せを受けただけで直接会ってはいない。
従軍する際、周瑜に連絡をして推挙してもらった形だったので周峻は初めて周瑜の邸に挨拶に行ったのだが、その秀麗な姿に感銘を受けたものだ。
彼は大叔父の周忠から周瑜の素性を聞いていたからだ。
そんな事情を知っていても、誰にそのことを告げることもなく、ただ周瑜の戦歴に対して感心するばかりであったというその性格こそが、彼の美徳であったといえる。

その周峻が、孫権直々に呼びつけられたものだから、すっかり仰天してしまった。
自分がなにか失態をしでかしたかどうか、己の行動を振り返ってみたが、どうにも心当たりがない。

更に彼を驚かせたのは、いつもの広間の謁見室ではなく、孫権の私室に呼びつけられたことだった。

部屋に通されて人払いもされており、何事かと周峻はおそるおそる頭をあげた。

台座には孫権が座っていた。

「わ、私めにどのような御用でしょうか」
「そなた、今は督であったな」
「は、はい」
「では新たな仕事を与える。主護都尉として周瑜の護衛を務めよ」
「は…、わ、私が、でございますか」
「うむ。周瑜が病で伏せっているのは知っているな?」
「はい」
「それで、ここを出て洞庭湖の方で療養することになったのだ。病の身を一人送るには心もとないのでな。護衛をつけて身の回りの世話をさせようと思うのだが、子瑜に誰がいいか尋ねたら、おぬしの名が出てきたのでな」
周峻は、以前周瑜の副官に徐盛という者がいたことを思い出したが、彼は別の仕事と役職を与えられて都を離れていったと聞いている。

いかに周瑜の縁者とはいえ、突然の出世である。

「おぬしは周瑜の甥であろう」
「はい」
「なにか、知っておるか」
「…は?」
「身内しか知らぬことを、だ」
「…いえ、何も」
孫権は周峻をじっと見た。
彼は目を伏せたまま顔をあげようとしなかった。
周峻は、孫権の真意を計れなかったが、迫られたからといって秘密をしゃべってしまうような迂闊な男ではなかった。
だが、そうは言ってもまだ未熟な若者である。
やはり狼狽する様子が孫権には見て取れた。
「そうか」
そう言う孫権の目が少し笑っているように見えた。

「儂は知っておるぞ」
「えっ…?」
「おぬしが知っている以上のことも知っておる。儂の方がおぬしより長く一緒にいる故な」
「…主公…」
「儂はあれの体のことを知っても、今までと変わらず接してきた。おぬしもあれに会ったのならわかるであろう、男であろうとなかろうと、あの個性を損なうことにはならないのだと」
周峻は驚きを隠せなかった。
「わ、私には…何も…」
周峻は口ごもった。
「士官する上でおぬしを連れてきた周家の大叔父に口止めでもされているのだろうが、儂の前だけならばそんな必要はない。このことは儂しか知らぬことだからな」
正確にいえば、自分の他に数名の臣下が知っていることになるのだが、そんなことをここでいちいち説明する必要を孫権は感じなかった。
周峻は叩頭して言った。
「おそれいりました。主公のおっしゃるとおりでございます。ですが私は叔父を尊敬しております。どうかそのことを私の口から話すことばかりはお許しください。叔父の身の上について、私が知っていることはありません。なにしろ、つい先年お会いできたばかりなのです」
その返答は孫権を満足させるものだった。
「うむ。おぬしが信用に足る者だとわかった。やはり適任であろう」
「ははっ」


「それで、おぬしに頼みたいことがある」
「なんでございましょう」
「療養地での周瑜の様子を報告してほしい」
「…?それは構いませんが」
「あやつ、病状も何も言ってこないのでな。こんなに心配しておるというのに」
「なるほど、わかりました」
孫権の真意が別にあることなど、周峻は知らなかった。

「どんなことでも報告しろ。誰が訪ねてきたとか、届いた文の差出人などもだ。良いな?必ず儂に直接届くようにせよ」
「…」
まるで間者のようだな、と思った周峻は思い切って訊ねた。
「叔父は、何か疑われている事があるのでしょうか」
「いや、そうではない。逆だ。周瑜を守るためだ」
「守る…」
周峻にはその意味がまだよくわかっていなかったが、孫権の様子から、悪意を持ってのことではないように思えた。
刺客への警戒だろうか、と自分なりに納得し、周峻は素直に承諾した。

孫権が、あえて周峻を起用した理由は、彼が周瑜の甥である、というただその一点においてであった。孫策の生前よりあれほど傍にいた徐盛ですら、今となってはもう信用できなくなっていたからである。
疑心暗鬼、という状況に、孫権は追い詰められていた。
自分がこれほど嫉妬深いとは気づいていなかった。
それならば周瑜自身に問い詰めてみればよいのだろうが、それも怖い。
周瑜の口から出てくる男の名を聞くのが、怖い。
その男の名を孫権が身近に知っていたとしたら、どうするだろう。

(俺は、その男を怒りにまかせて斬ってしまうだろう)
そう思うからだ。

あれほど望んだ女を、横から奪うような真似をされたら誰だってそうするだろう。
だが、そうなったとき、周瑜が悲しむようなことになれば、己の所業を後悔するのではないか-
己の感情のままに行動することは慎むべきではないか。
自分はもう、孫呉の主なのだ。
だが、理性では抑えられないものもあるのだ。

周峻が退出していき、入れ替わりに張昭が入ってきたのだが、
孫権はそんな妄想に囚われ、話しかける張昭の声も上の空で聞いていた。




一方、呂蒙は甘寧の営舎に呼び出されていた。
「何だ、あらたまって話って」
「まあ、座ってくれ。酒でも飲むか?」
甘寧は卓を挟んで向い合せに二つ置かれた胡床を指して呂蒙を促した。
「いや、遠慮しておく。酔って帰ると母親がうるさいんでな」
「くっ、おまえ子供ができてすっかり親父になっちまったなあ」
「そ、そうか?」
「ああ、なんてーか、所帯じみてきた」
「うーん…」
真面目に悩む呂蒙を甘寧は笑い飛ばした。
「ちっとくらいつきあえや」
甘寧は酒壺を持ってきて用意していた二つの器に注いだ。
「じゃあ、ちょっとだけなら…」
「フッ、いいじゃねえか。つきあいも大事だぜ?」
呂蒙は甘寧ほどではないが、ほどほどには飲む。
だが、元来真面目な性格のせいか、酒に飲まれたことはあまりない。
「おまえ、尋陽の県令だろ。いつ戻るんだ?」
甘寧の言うとおり、呂蒙は今柴桑からほど近い尋陽県の役人をいいつかっている。
南郡での功により、軍人としては偏将軍という肩書をもらっていた。
「この件が片付いてからでも遅くはないさ」
「そうか、俺もだ」
一方の甘寧は雑号将軍であり、郡都尉として武昌に赴くことになっていた。

「おまえ、徐顧、ってヤツ知ってるか?」
甘寧の問いに、呂蒙は片眉をピクリ、とあげた。
「役は副従事、だったかな」
「…知っているが、それがどうかしたか?」呂蒙はいぶかしげに訊いた。
「そいつがどうも、魯子敬を闇討ちしたらしい」
「…そうか」
甘寧は呂蒙の態度に違和感を覚えた。
「おまえ、知ってたのか?」
呂蒙は無言で頷いた。
「ケッ…!なんだ、いつから警邏の仕事についたんだ?」
「そういうわけじゃない。成り行きで、そうなっただけだ」
「ふぅん」
「おまえこそ、なんでそれを知っている?」
「わかった、それじゃあ、お互いの手の内を見せようぜ。俺もちゃんと話すから、おまえも全部話せよ」
「ああ」

甘寧と呂蒙はお互いの情報を交換しあった。

「ふん、なるほどな」
「…奴ら、おまえを協力者にしたがっているんだな」
「まあ、あの軍議に出てる奴なら、誰だって俺と魯子敬が対立してるって思うしな」
「魯子敬殿の敵は味方、というわけか」
「そういうこった。で、おまえのもらった竹簡てのに、そいつの名があったんだな?」
「…ああ」
「繋がったじゃねえか」
「…だが、魯子敬殿は、事を荒立てたくないそうなんだ。犯人探しなどしないでくれ、と陳武に言ったそうだ」
「ふん、とんだ忠義者ってわけだな」
「だが、この事態、捨て置くわけにもいくまい。こんなことがまかり通ってしまえば、軍議で自由に物が言えないということになる」
「特に兵たちは単純だからな。先導するものがいれば簡単に靡くんだ」
「……先導した者だけを罰しろ、ってことか?」
「そう言ってるつもりだ」
「なんとか殿のお耳に入る前に処理したいのだが…」
「殿はもう知ってるんだと思うぜ」
「え?」
呂蒙は意外そうに甘寧を見た。
「なんだ、お前、まだ知らないのか?」
「何を…?」
「魯子敬が豫章郡の太守に任命された」
甘寧の言葉に、呂蒙は目を見開いた。
「…!」
「豫章と長沙を分割するって話が出ててその取りまとめをさせるんだとさ」
「…なんでそれが魯子敬殿に」
「他に適当な文官はいっぱいいるのにな」
甘寧はニヤニヤして言った。
「そうか…殿が魯子敬殿の一件を知ったからか」
「そう考えるのが普通だろ?とりあえずほとぼりが冷めるまではどっか行っといてもらった方がいいってことさ」
あるいは、周瑜がそう進言したのかもしれない、と呂蒙は思った。
「だからもう、下手にこそこそしないほうがいい。おまえまで疑われるぞ」
「え…」
「こんなふうに誰かを陥れたり裏切ったりなんざ、どこのお城でもあることさ。俺が黄祖んとこにいたときなんか、もっとひどかったぜ。毎日誰かが告げ口して誰かが処断されてた」
「おまえも?」
「ああ。嫌な目に合った。俺もおかしな噂を流されて部下がどんどんいなくなっちまったことがある。思い出すのも胸糞悪いぜ」
「そうか…」
「ま、おまえに関しちゃ悪い噂なんぞ米粒ほども聞いたことはないがな」
「俺は弁がたたんから余計なことを言わないだけだ」
「俺は余計なことを言いまくってる、ってわけか」
甘寧は酒を啜りながら苦笑した。
「あ、いやそういうことではなくて、だな…」
おろおろした呂蒙の表情が可笑しくて、甘寧は吹き出した。
「ハハッ、まあ、いいってことよ」
「す、すまん」
謝る呂蒙をじっと見つめて、甘寧はぽつり、と言った。
「もっと楽に生きろよ。じゃねえと早死にするぜ」
「ああ…」
呂蒙は甘寧の視線を受け止めて、酒を呷った。

「それで、どうする?」
改めて、甘寧が問う。
「こうなった以上、すべて殿にお話する」
「ふん、いらぬ心労をかけさせないんじゃなかったのか?」
「しかし、殿の知るところとなった以上、殿のご判断を仰がねばならんだろう」
「やれやれ、一国の君主ってのも大変だな。俺は御免だぜ」
「興覇、茶化さないでくれ」
「わかっちゃいるがな、あいつら自身に罪を認めさせることが先決だろ」
「それはもちろんだ」
「だったらその任務、陳武に任せるんだな」
「…むろん、陳武には知らせるつもりだ」
「そっから先は奴の仕事だろ。俺たちが口出しするこたぁない」
「…だが、魯子敬殿は俺にあの竹簡を託された。だからこの一件、最後まで見届けたいんだ」
「そうは言うがな、その魯子敬はここを離れるわけだろ?あの御人にとってはもうそれで終わったことになってんじゃないのか」
呂蒙は甘寧を睨みつけた。
「そうじゃない、俺の気がすまないんだよ!」
「フン」
甘寧は肩を竦めて鼻を鳴らした。
「やっと言ったな、本音を。だいたいおまえは素直じゃない。まだるっこしいんだよ」
甘寧は持っていた器を置いて、立ち上がった。
「おまえがそうしたいってんなら協力する。魯子敬のためじゃないぜ?」
「なんだ、おまえ…そんな理由が必要だったのか?」
「大事なことだろ?」
「フッ…素直じゃないのはどっちだ」
少し、心が軽くなったのか、呂蒙ははじめよりもずっと酒の味を旨いと感じた。
このところ、周瑜や魯粛のことでずっと重い気持ちでいたからだ。





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