(21)妹姫
孫権に荊州北部を借りた劉備軍は、江陵へと本拠を移そうと計画していた。
襄陽を落として手に入れたは良かったが、その北、新野へ曹軍がたびたび侵攻してくるのであった。
北の守りを関羽・張飛に任せ、一旦劉備たちを安全な地へと落ち着かせたい、そんな思いが諸葛亮にはあったのだろう。
そのためには孫権軍と事を構えてはならない。
これは絶対条件であった。
そのために孫権の妹との婚姻を結び、同盟を強固なものにしたはずであった。
だがここへきて、孫権の態度が硬化している。
荊州を貸し与えたことへの反発が内部ではかなり強いらしく、そういった意見に孫権が圧されているというのである。
そもそも、なぜそんなことになったのかと言えば、荊州の牧であった劉表の没後、その子劉gが後を継いだものの、赤壁の戦いの後は劉備の元に保護されていた形だったのだが、つい先だってその劉gが病のために亡くなったのが原因である。
劉備側としては、後継のない荊州の牧を継ぐのは劉表に後を任せられた自分である、と主張するのは当然のことだ。
だが孫権は認めない。
戦で荊州を勝ち取ったのは自分たちなのだというのが彼らの主張である。
両者の主張をだれも審判するものはいないのだから、仕方がない。
審判すべき漢王朝はもはや曹操の傀儡であり、当の曹操はその戦で負けたのであるから。
「やれやれ、やはり担ぎ出された主というものは惰弱であるということかな」
「そういえば魯子敬殿はどうしたのかな。近頃便りをきかぬが」
「さて、彼も孫権のお守やらでいろいろと忙しいのでしょう」
劉備の側近の文官たちは、そんな孫権の態度を揶揄しては勝手なことを吹聴していた。
孫軍の最近の事情を知らない劉備軍にいてはそれも仕方のないことであった。
とはいえ、このままではまずい、と諸葛亮は思う。
いつぞやの曹操との開戦についての問答のように、今回はあの周瑜の役をする者がいないのだ。
頼みの綱の魯粛からは何も言ってこない。
それをどうとらえるか、ではあるが、諸葛亮は魯粛が孫軍の文官たちの中にあっては、周瑜ほどに信を得ていないらしいことは、赤壁の時以来感じてはいた。
北の守りは関羽たちに任せておいて問題はないだろうということで、諸葛亮は孫軍へ単身乗り込もうと主に申し出た。
「では護衛に趙雲を連れて行くがいい」
そう言って劉備は送り出してくれた。
それに、彼にはもうひとつ気にかかることもあった。
南郡にいた周瑜が病を得て都で療養しているという話を耳にしたのである。
その病とやらが、己の身内が引き起こした南郡でのことが原因なのだとしたら、責任を感じずにはいられない。
彼には薬師としての知識もあるから、病を診てできれば治療に力を貸したいとも思っていた。
当の周瑜は嫌がるだろうが。
秀麗な眉目をひそめて怪訝な顔で自分を見上げる周瑜の顔を思い出して苦笑する。
「軍師殿」
隣で趙雲が声を掛けたので、彼は夢想からやっと覚めた。
「陸路を取って、陸口で長江を渡ります。そこから江夏をぬければ早いかと」
趙雲は孫権のいる柴桑までの道のりを思案していた。
だが、諸葛亮は彼の言葉を遮った。
「そのことに関してですが、魯子敬殿から連絡がありました。自軍を引き上げるのに江陵へ来るようですよ」
「軍を引き上げる?」
「ええ。なんでも豫章太守をいいつかったとか」
「…そうなんですか」
「ええ、ですから帰りに彼の船団に乗せていただくことにしましょう」
「なるほど、それは良い考えですね」
「船なら食糧もたくさん持って行けますしね。そのように準備をしておいてください。2,3日中にはこちらへ到着するでしょうから」
「承知しました」
趙雲が踵を返して行こうとする脊に、諸葛亮は声をかけた。
「上庸のホウ士元から連絡はありましたか?」
趙雲はくるり、と振り向いて答えた。
「ああ、はい。劉g殿が亡くなったのであちらの仕事と兵をまとめて戻ってくるようだと殿がおっしゃっていました」
「そうですか、それはなにより」
「それでは」
今度こそ趙雲は行ってしまった。
諸葛亮は、ホウ統を劉表の子である劉gの元に送っていたのだ。
劉gは劉備によって荊州牧に推されたのだったが人柄は悪くはないのだがどうも精神的にもろいところがあり、酒と女に溺れる傾向があって、実質酒の飲み過ぎが原因で亡くなったようなものだ。
それで、仕事もすべてホウ統が行っていたのだが、彼は劉gを諫めるようなことはせず、やりたいようにさせていた。
諸葛亮はその評判を聞き、一度ならずホウ統に書簡にて注意を促したことがあるのだが、ホウ統は「やる気がないのだから仕方がない」とだけ言い放った。
父の死後跡目争いもあり、劉gの気持ちもわからないでもなかったが、劉の名を継ぐ者としての意地をみせて欲しかった、というのが本音だ。
だが、ホウ統ほどの男が考え無しに行動することはない。
結果としては劉表の跡目を継ぐ大義名分が劉備のもとに転がってきたわけだ。
だが、それが孫権との仲を硬化させる原因になることまで予想はしていたのだろうか。
とまれ、ホウ統は戻ってくるのだ、これで劉備の元を離れても安心できる。
諸葛亮は江陵で魯粛が来るのを待つことにした。
魯粛が登城したのはあの闇討ち事件から二月経ってからのことであった。
顔の痣もすっかりなくなり、痛めた足腰もなんとか回復した。
魯粛は療養中、孫権からの使者がきて豫章行きを告げられた後、陳武が彼の元を訪れ、事の仔細を話して聞かせてもらっていた。
自分はこの間、何もせず寝ていただけだというのに、周りはずいぶんと動いてくれたようだ。
やはり、呂蒙にあの竹簡を託したのは間違いではなかった、と思った。
魯粛は孫権に目通りを願い、このたびのことを謝罪した。
孫権はすべて了解していた、とばかりに魯粛の頭を上げさせた。
「すべてもう片付いたことだ。この上はおぬしが余計な詮索をされぬよう、身辺に気をつけるが良い」
「恐れ入ります」
「…ときに魯粛」
「はい」
「周瑜から、おぬしを自分の後継に、との申し出があった」
思いがけない言葉を聞いて、魯粛はきょとん、として孫権を見た。
「…は、いやしかし、それは」
「もう決まったことだ。おぬしが豫章郡より帰還した後は、荊州へ行け。奮武校尉に任じる。そして周瑜の兵と所領4県を預かれ」
「と、殿、しかしそれでは周公瑾殿は…」
「周瑜は療養のため巴丘へ発った。もうこちらへは戻らぬだろうと言っていた」
「なんと…!」
それほどに病が篤いとは、知らなかった。
孫権は周瑜からの書簡の内容をかいつまんで伝えた。
「そのうち公瑾から申し送り状が届くであろう。おぬしの才を見込んで周瑜のたっての願いだ」
それを聞いて、魯粛は俯き、眼頭に感じた熱いものを隠すようにぎゅっと眼を閉じた。
そして姿勢を正し、うやうやしく伏した。
「不肖の身ながら、拝命つかまつります。身命を賭してお役目を全う致す所存でございます」
それから、魯粛は江陵へ兵を移動させるために向かうことを報告した。
「移動させた兵は荊州に置くのであろう?」
「はい。陸口に駐屯させるつもりです」
「うむ、そうするだろうと公瑾も言っておった。ついては江夏に守備兵を置いた方がよかろうともな」
「ははあ、なるほど」
「南郡はひきつづき程普に任せるが、江夏には黄蓋をと考えておる」
「それでよろしいと思います」
「劉備の動きはどうだ?何か報告は入っているか?」
「先ほど諸葛亮より知らせが来まして、江陵へ本拠を移したいと申し出がありました」
「何、江陵へだと」
孫権の目がぎらり、と光った。
「新野に曹軍が迫っているそうで、関・張の二人がかりで防衛にあたっているのだそうです」
「まさか、そこに手を貸せと言うのではあるまいな」
「さすがにそこまで面の皮は厚くはないでしょう。ま、別の手でなにか言ってくるやもしれませんが」
「あの諸葛亮とかいう男の口八丁手八丁に乗せられねばよいがな」
孫権は、諸葛亮が赤壁の開戦のおり、呉へ来て文官たちを次々に論破したことを言っているのだ。
「今度はあの時とは状況が違います」
魯粛は苦笑して言った。
「それと」
孫権は少し口ごもって訊いた。
「…妹はどうしているか、聞いてはいないか」
「さすがにそれは。ですが江陵へ参ります際にきいておきましょう。おそらくは劉玄徳と行動をともにされているはずですから」
「う、うむ…頼む」
孫権は少し照れたように見えた。
やはり、妹のことが心配なのだ。
その、妹である仁姫は劉備の陣にいた。
男勝りの彼女には武装した侍女がついている。
どこへいくにも武装し、腰に弓を携えている。
それで弓腰姫、などとと呼ばれるようになったのであるが、暇さえあれば武術や遠乗りなど嗜んでいる。
張飛などは最初それを目にした時言ったものだ。
「兄と立場を交換したほうがよかったんじゃねえか?」
もちろん、彼女がいないところでの話だが、兄の孫権が優柔不断でおよそ武人らしくない、という先入観からの発言である。
こんな話が仁姫の耳に入れば、彼女の弓の矢先は間違いなく張飛に向けられたことであろう。
劉備の妻という立場なのだが、彼女が孫呉の主妹ということもあって、周囲はかなりの気の遣いようであった。
そして年の差があるとはいえ、劉備は彼女にとても優しい。
兄のため、劉備側に潜入していろいろ情報を盗んでやろう、という意気込みできたものの、この軍の緊張感のなさに正直拍子抜けしてしまったほどだ。
あまりに孫軍と違う。
軍といっても主力はどうやら北の戦場に行っているためか、今この陣を守る兵たちはおそらくは民兵あがりなのだろう、皆和気あいあいとしている。
これも劉備という人の人柄ゆえなのだろうか。
しかしその分、孫軍の情報などは一切入ってこない。
彼女は侍女たちを伴って弓の練習をしたり狩りをしたり、とにかくじっとしているのを嫌った。
劉備の側近の文官たちには「もっと后らしく」と意見されたりすることもあったが、まるで意に介さなかった。
そしてそんな彼女の行動を劉備も黙認していた。
そんな男所帯の中で、唯一彼女が癒しを得られたのは、劉備の子、阿斗であった。
まだ3歳になったばかりであちこち歩いては転んだりしているのだが、にこにこと愛想がいい。
阿斗と遊んでいると時間が経つのが早い。
劉備はそんな彼女と息子を見て微笑ましいと思っていた。
彼女の方も、優しくておおらかな劉備を好意的に思っていた。
だが、劉備の傍にあって、唯一心を許せない存在があった。
阿斗を寝かしつけて、自分の部屋に戻ろうと侍女を引き連れて陣内を歩いていると、背後から声をかけるものがあった。
「孫夫人、こちらにおいででしたか」
その声の主が誰だかとっくにわかっていて、彼女は振り向かずわざと返事をしない。
「我々の本拠を江陵へ移すことになりましたので、引越の準備をお願いします」
「引越?」
思わず振り向いて返事をしてしまう。
彼女の前には長身の、羽扇をもつ軍師の姿があった。
「はい、そうです」
「…お兄様に報告はしたわけ?」
「もちろんです」
「曹操が攻めてくるの?」
「はい。ですからあなたの兄上の近くにいって守っていただくのです」
「ずいぶん恥知らずなことを言うのね」
仁姫はこの諸葛亮が気に入らない。
「生き残ることに恥も外聞もございませんよ」
仁姫はじろり、と諸葛亮を睨みつけた。
「…呆れた。孫軍を傭兵かなにかと思っているの?」
「とんでもない。我々と孫呉は同盟を結んでいるのですから、助け合うことが大事だと言っているだけですよ」
「助け合う…ねえ」
「とにかく、殿は妻であるあなたの安全を第一に考えておいでです。江陵に移るのもそのためです」
「…わかったわ」
「よろしくお願いします」
諸葛亮は一礼して去って行った。
「…フン、嫌味な男!」
初めて会ったときから、何もかも見透かしているような目で彼女を見ていた。
劉備の元へきて最初、わざと彼の前ではおとなしやかに振舞って油断させ、いつか寝首をかいてやろうかと思っていた。
そんな彼女に諸葛亮はこう言った。
「我が君は女性には優しい方ですが、命までは差し上げられません。あなたも我が君の奥方になられるのでしたら、そのことだけはお忘れなきよう」
そしてこう続けた。
「だが、我が君のために命を投げ出そうという者がこの軍には多い。あなたが思っているよりもずっと、我が君のお命は重いのです」
まるで自分の心を読まれているようで、怖くなった。
そう、諸葛亮は最初から仁姫のことを疑っていたのだ。そして釘をさした。
それ以来、劉備の前で芝居をするのをやめた。
素のままの、勝気で男勝りな仁姫を晒すようになった。
猫を被り続けても、疲れるだけで効果はないと悟ったのだ。
劉備はそれでも受け入れてくれた。
それがとても居心地が良かった。
唯一つ、諸葛亮がいることを除けば。
それにしても、兄は今頃どうしているだろう。
この軍にいては、情報はまったく入ってこない。
江陵へいけば、何かわかるだろうか。
いらいらしている彼女の着物の裾をぐいぐい、と引っ張る者がいた。
足元をみると、幼子が彼女の膝にしがみついている。
「…阿斗」
劉備の子である阿斗は、彼女になついていた。
カタコトで遊ぼうと語りかけてくる。
その愛しさに彼女は思わず笑顔になり、幼児を抱き締めた。
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