(23)懐客
黄 月瑛はあの諸葛亮の師を父に持つという。
それほど長く一緒にいたわけではないが、自分を助けてくれた恩人でもある娘だ。忘れるわけがない。
「お元気でしたか」
「はい」
月瑛は以前会ったときとそれほど変わってはいなかったが、髪をすっきりとまとめて結いあげていたので、いくぶん大人びて見えた。年の頃は小喬とさほど変わらぬだろう。
「私を逃がしたせいで責められたりはしなかったかと、心配でした」
「ええ、そのようなことはございませんでした。それよりもお体のお加減はいかがなのですか?」
「…私が病の療養のためにここへきたことは孔明殿から?」
「はい。夫は現在江陵におります。魯子敬様から公瑾様のことをお聞きしたので、私にお見舞いにいくように命じたのです」
「夫、と申されたか」
「ああ、はい。実はあのあと私の父との話で、そうなりまして」
「そうですか、それはよかった」
個人的に周瑜は諸葛亮を嫌ってはいるが、月瑛が彼に好意を持っていることを知っていたのでここは素直に祝辞を送った。
周峻は孫権への報告と、小喬の様子を見に行かせるため、呉へ戻っていて丁度不在であった。
なかなかに、よい時に来てくれたものだ、と周瑜は思った。
「せっかく遠いところを来てくださったのだ、ゆっくりして行かれるが良い」
「ありがとうございます。実は夫から、公瑾様のお加減次第では看病するようにと仰せつかっておりました」
「…なんと」
相変わらずよくわからぬ男だ、と周瑜は思った。
そして、もうひとつあることに気付いた。
「…もしやあなたも医術か薬師の心得が?」
「はい。薬草を採りに行って煎じるのは私の役目でした。今日もいくつか持参しておりますゆえ、後ほど水場を使わせていただければと」
「そうですか、それはなかなか心強い。どうぞ自由になさってください」
月瑛は頭を下げた。
「あの、公瑾様、お見かけしたところ、顔色も良さそうですが、医師は病状についてなんとおっしゃっておられるのでしょうか?」
「ああ、それはね」
周瑜は自らの腹部を指して
「この子が産まれたら治る病だよ」
と言うと、
月瑛の眼がみるみる大きく見開かれた。
どう対応していいのか迷っているようで、彼女は口をぱくぱくさせて何か言おうとしている。
よほど驚いたようだ。
(ああ、そうかー)
彼女が狼狽している理由をひとつ思いついた。
「安心おし。あなたの夫君はまったく関係がないのだからね」
周瑜はやさしい口調で月瑛に言った。
「あ、いえ、そんな、私…」
月瑛は少し頬を紅潮させながらやっと言葉を話した。
「す、すいません、取り乱してしまいました」
彼女が頭を垂れると、周瑜はクスクスと笑った。
「いや、驚いて当然だ。このことはこの邸にいるものしか知らない秘密だからね」
「そ、そうですわね。ですが、悪い病ではないことがわかって安心いたしました」
「悪阻がひどくてね、食も細くなる一方で、一時期は本当に具合が悪かったのだけども」
月瑛は改めて周瑜を見つめる。
そう言われてみれば以前より痩せて、肌の色も青白い。だがその美貌になんら遜色はなく、むしろ肌の白さの分、唇の紅さが益々艶っぽく感じる。
「今は親戚の娘も来てくれて、二人して妊娠の苦労話ばかりしているよ」
そう笑う周瑜の顔は朗らかだ。
その笑顔に月瑛はふっと安心感を覚えた。
「夫が聞いたらさぞ驚きますでしょうね」
「そうだろうね」
「あの方のことだからお相手についていろいろと邪推をしかねませんわ」
周瑜はクスクスと笑った。
「ではいろいろと悩んでいただこうか」
「夫はともかく、私はそのようなことはいたしませんのでご安心なさってくださいまし」
「それは助かる」
「せっかく参りましたので、滋養薬など煎じてまいりましょう」
「ああ、ありがとう」
部屋の格子窓から庭を見ながら、ゆったりと椅子に腰かけている周瑜を見ながら、月瑛は溜息をついた。
やはり、美しい人だ、と。
自分の夫になった男が密かに思いを寄せる麗人。
このような浮世離れした美貌を目のあたりにすると、不安にもなるものだ。
夫は自分をどう思って妻にしたのだろうかと。
そんな月瑛の心が顔に出たのだろうか、周瑜はやわらかく彼女に微笑んだ。
「孔明殿はどのような夫君であろうか?」
「あ…はい、あの…今まで通りにあまりかわったこともありません」
「そうか、自由にさせてもらっているのだね」
「はい」
月瑛は自分の腕にかけていた手提げ袋の中から小さな箱を取り出した。
「その袋や箱もあなたが?」
「え?あ、はい。この袋は麻を編んで、箱は木の破片を削って作りました」
箱の蓋をあけると干した木の実が入っていた。
「どうぞおひとつ」
周瑜はそれを受け取って一粒口に入れた。
「杏ですか」
「はい。なかなか美味しいでしょう?」
「ええ。保存食になる。いろいろと手先が器用なのですね。うらやましいことだ」
「他に取り柄もありませんから」
「なにをおっしゃるのか。充分な才能ですよ」
「そ、そうでしょうか」
「ええ。あなたの夫君もそういうところを好ましいと思ったのでしょう。もっとも私にとってはいけ好かない男ではありますが」
「まあ」
月瑛はころころと笑った。
「私にも昔、命をかけるほどに好いた男がいてね。ついに結ばれることはなかったが」
「まあ…公瑾様のような方にもそのようなことがおありなのですね」
「このようななりだしね。普通の殿方など相手にならない」
「そうでございましょうね。どこぞの殿方なぞ公瑾様の足元にも及びませんわ」
月瑛は深く頷いた。
周瑜は笑いながら話を続けた。
「せっかくその方が嫁にもらってくださるというのに私も意固地になって、ずっと断り続けていたのだよ」
「…どうしてですの?好いた殿方でしたでしょうに」
「どうしてだろうね?そうこうしているうちにその方は死んでしまった」
「まあ…お気の毒に」
「いろいろと後悔して、いっそ自分も死んでしまおうかなどと思ったこともあったのだけれど」
「そうですわね、お気持ちはわかりますわ」
「そんなおろかなことはしてはいけない、と夢枕に立って言うので、仕方なく生きることにした」
月瑛は周瑜をまじまじ、と見つめた。
「…今のお話は本当のことですの?」
「ええ」
「私ずっと不思議に思っていたのですけど」
「うん?」
「公瑾様は普通の女らしく殿方の妻として暮らしたいと思われたことはございませんの?」
「普通の女というものが私にはわからないんだよ。物心ついたらもうこうなってたからね。ああ、そうか…」
周瑜は急になにか納得したかのように笑いだした。
「好いた男に出会ってしまったからこうなったんだ。そもそも、出会わなければあなたの言う通りの普通の女として生きてたんだろうね。でも…」
「でも?」
「そんな私は私ではないね」
この人は話術に長けている、と月瑛は思った。
おそらくはどのような相手であっても話を合わせられ、知らぬ間に話の主導権を握られているのだろう。
なにげない話し方ひとつにも相手に乗せられないよう細心の注意が必要だ。
だが、今日の月瑛にとってはそのような気遣いも必要なかった。
「公瑾様はもう公主様のもとへはお戻りになりませんの?」
「ええ。それはもうお暇をもらってきましたから」
「そのお子をこの地でお育てになるのですね」
「そうなるだろうね」
「でも…公瑾様、それで悔いはございませんの?」
「ないといえば嘘になるけど、心の整理はつけたつもりだよ」
「…ご立派だと思います」
「なんだかね、妙な心地なのだよ」
周瑜はまた微笑んだ。
「妙な?」
「なんというのかな、あんなに悩んでいた自分がなんだったのだろう、と思えるくらいに今は達観している、というべきか…」
「落ち着いていらっしゃるのですね」
「そうだね。欲が抜けたのかな?今はただ、自然のままに生きているよ」
「仙人のようなことおっしゃいますのね」
月瑛もクスリ、と笑った。
「悩みすぎていろいろとつきてしまっただけかもしれないけどね」
「私の父も時々そのようなことを申しますわ。世俗には悩ましいことが多すぎるので悩むのをやめたのだと」
「お父上は仙人ですか」
「そう思います。普通の人間では夫の師になどなれませんから」
「それは納得ですね」
そう言って二人は笑い合った。
月瑛は別れ際、子供が生まれた後にまた来たい、と言った。
周瑜は笑顔で是非に、と答えた。
そして小声で呟いた。
そのときにまだ命があれば、と。
建安十五年の暮れ、孫権のもとへ、周瑜の訃報が届けられた。