終章


「孟起殿、こちらにおいででしたか」

声をかけられて振り向いた男は、かつては錦馬超と謳われた男であった。
だが今やその顔には精気がなく覇気もなかった。
だらしなく椅子に腰かけながら格子窓から外を見ていたのだった。

「ああ。孔明殿の奥方か。俺に何用かな」
馬超を成都の館に訪ねたのは諸葛亮の妻、月瑛であった。

「病を得て漢中から療養のために益州においでになったと伺いましたので、孔明様からお見舞いにいくようにと」
「なるほど。よくよく気のまわるお方だな」

馬超は曹操に攻められ、逃げ延びて劉備の陣に入った。
劉備の入蜀の際には手柄も立てたが、このところは魏への防衛のために梁州にいたのだった。
だが、体調がすぐれないとの理由から、成都に戻ってきたのであった。

「あなたに会わせたい人がいるのです」
月瑛から思わぬ言葉を聞いた馬超はいぶかしげに彼女を睨みつけた。
「この俺に?今となっては天涯孤独の身の俺に、物好きなことよな」
馬超はぼやきながら椅子から立ち上がった。

「こちらへ」
月瑛に手招きされて部屋に入ってきたのは、まだあどけなさの残る少女だった。

馬超には少女に面識はない。
首をかしげながら「誰だ?」と問う。

「白蘭と申します。お初にお目にかかります、父上」

丁寧に礼をとってそう自己紹介された馬超の目に、驚きの色が浮かぶ。
父上と言ったのか、自分を?

「なんだと…?父と呼んだか、俺を」

馬超は少女の前に進み出て両肩をつかみ、その容貌を見つめた。
漆黒の目と髪、白い肌。
そしてなにより目を惹くその美しさ。

馬超はハッとした。

遠い昔に会ったきりの、あの女の面影がそこにあった。

忘れていた。
南方へ出向いた折に出会った、美しい人。
腕に抱いて、何度もつれて帰りたいと願った。
だが逢瀬はその数日だけだった。

「おまえは、まさか…!呉の…」

「はい、父上。私の母は呉の周公瑾です」

「おお…!なんと…!それはまことか!?」
馬超は少女の顔をまじまじと見、そして月瑛を見て説明を求めた。
物に動じることの少ない彼であったが、明らかに目を白黒させて狼狽していた。

その様子を、月瑛がある程度予想していたのだろう、口元に笑みをうかべ、頷いた。
「公瑾様のおっしゃるとおりでございましたね」
「ほ、本当に俺の、娘…なのか!」

「はい。公瑾様は残念ながらお亡くなりになりましたがその遺言書により、私も事実を知り、驚きました。そして、この子が自分の力で物事を考えられるようになったときに、どうするのか自分で決めさせるように、とのことでした」
月瑛は淡々と答えた。
「…しかし、解せぬ。それは俺が劉備殿の元へ来る前のことではないのか?公瑾殿は俺がここへくるのを知っていたとでもいうのか」
周瑜が亡くなった、という話は馬超も聞いていた。しかし、それも何年も前の話だ。
よもやその娘がこうして生きてここにいようとは夢にも思わなかったのだが。

「げにおそろしきはあの方の知謀でございます。あの方がご出産なさったのは孟起殿、あなたが潼関で曹操と戦う直前のことでした。その時点で、あなたが曹操に敗走したならば、劉備殿のところへ招かれるだろう、と申されておりました。逆に考えれば曹操のもとへなど行くはずがありませんから、そう考えるのは不自然なことではありませんわ」
「まるで預言者だな…」
「そうですね。私もそのときは本気にはしておりませんでした。この娘の父親があなたであるということも、今の今まで信じてはおりませんでしたから」
「…まあ、そうだろうな。あのとき会ったのは本当にただの偶然だったのだ」
「ですから、この子はあの方の死後、親戚の家で育てられていたのです。産んだことすら秘匿されて…」
月瑛は目を伏せて、苦しそうな表情をした。

その月瑛に目をやって、白蘭が話を続けた。
「私は、母の顔を知りません。私と同年に産まれた子がいるのですが、ずっとその子の母が自分の母だと思って参りました。私の面倒も同じようにみてくれましたが、なにかにつけ、私の方がうまく物事をこなせることに気付いた時、私の居場所はそこにはなくなっていました」
白蘭は淡々と語っていたが、つらかったのだろう。この年頃の少女にしては大人びているのはそのせいなのかと思われた。

「そして私が10歳になった折、養父から母の遺言書を渡されたのです。そこには私の出自と父上の名が記されておりました。それでもし、父に会うのであれば、月瑛様を頼るように、とあったのですが…」
「関雲長殿の死で呉との関係が悪くなったからな…」
すぐに娘が会いに来れなかった理由を、馬超はそう語った。

「ですが、私はどうしても父上にお会いしたかったのです」
白蘭はまっすぐに馬超の目をみて言った。
ものおじしない、芯の強さを感じさせる眼差しは周瑜に生き写しであった。
このような出来の良い娘が一人、旅に出るのはさぞ反対されたことだろう。あるいは誰かが送り届けたのか。

「白蘭、というのか」
「はい」
「よくぞ会いにきてくれた。ここまでやってくるのは大変だっただろう?」
「昔、母の部下だったという方の手助けでなんとか月瑛様にお会いすることができました」
「…そうか」
周瑜の部下、というと馬超が思い出すのはあの番犬のような男だった。
なるほど、と馬超は得心がいった。


「お会いしとうございました、父上」

馬超は、白蘭を抱きしめた。
一族郎党、曹操に根絶やしにされたと思っていた。
もはや天涯孤独なのだと。

抱きしめ返す細い、小さな腕のぬくもりが、馬超に忘れていた人恋しさを思い出させた。

もう一人ではないのだ。

馬超は周瑜に、天に感謝した。



「父上、病を得たというのは誠でございますか?」
「あ、ああ。だが、おまえが来たのだ、元気にならねばな」
さきほどまでの覇気のなさが嘘のように、馬超は頬を紅潮させていた。

「母を亡くしておまえも苦労したのではないか?」
「幸い、面倒をみてくださるお方がおりましたので、たいした苦労などしておりません」
「そうか」
「私などより、お身内を亡くされた父上の方がよほどお可哀想です」
「…」

なんと良くできた娘なのだろう、と馬超は思った。
これまでの自分の子供の誰よりも利口で美しかった。

「ですがご安心ください、父上。これからは私が父上を支えます」
白蘭は端正な顔に笑みをたたえた。
少女にはにつかわぬ、妖艶ともいえる表情であった。
そんなところも母親に似たのだろう。
「呉には帰らぬのか?」
「はい、もとより呉を出た時からそのつもりでした」
娘の言葉に、馬超は心から嬉しく思った。

「母からいただいた名を名乗る時が、やっと参りました」
「?おまえの名は白蘭だろう…?」
「それも私の名ではありますが」
白蘭は自分の懐から短剣を取り出し、馬超の目の前に差し出した。


「今日から私は馬承、字を子継と名乗ります」

馬超も月瑛も、呆気にとられていた。

「女の白蘭はいなくなり、これからは父上の息子馬承として跡目を継ぎたく存じます」

凛とした佇まい、美しい貌。
その姿は、彼らの脳裏に輝星のようなあの麗人を思い起こさせた。

「私も、母のように生きたいのです」



「血は争えぬ、か」
馬超はひとり、そう呟いて笑った。






記録によれば、馬超はその翌年亡くなったとされているが、それも定かではない。
馬超の跡を継いだのは息子の馬承であるとされている。
だが馬承が女であったという記述はない。

彼女がその後、周瑜のような運命を辿ったかどうかはまた別の話である。





(了)