(3)献策
それからしばらくして柴桑に孫権が軍を率いて戻ってきた。
幾人もの臣下が集まり、孫権の無事の帰還を喜んだ。
孫権にしてみれば、戦果の得られない戦いだっただけにそう喜んでもいられない。
孫権は休む間もなく政務に追われた。
魯粛は早速、登城して劉備との同盟の強化を進言した。
周瑜は少し間をおいて登城した。
「主公、ご無沙汰しておりました」
「公瑾、体のほうは大丈夫なのか」
「はい、ご心配をお掛けいたしまして申し訳ありません」
「いや、それならば良いが。南郡には程普を太守に任命した故、しばらくは都に留まってゆっくりしていけ」
「お心遣い、いたみいります」
「・・・先日魯粛が来て、劉備との同盟を進言してきおったぞ」
「存じております。主公がお戻りになる前に、その話を上申する旨伺いました」
「・・・おまえは反対なのだろう?」
「あの男の温厚そうな物腰に惑わされてはいけません。彼は自分の抱える民を言い訳にして、我々を利用するためにやってきたのですから」
「おまえはそういうと思った」
孫権は苦笑した。
「主公には劉備という者は、どのように映っておられるのでしょうか」
「俺にはよくわからん。人が良いように見えるが、ああいう腹が読めぬ男が一番厄介ではあるな」
「おっしゃるとおりです、さすがは主公、よい心の目をお持ちです」
「世辞を言っている場合か。ではおまえはどうするというのか?」
「はい、ではこの周瑜めの策をお聞きください」
「うむ」
周瑜は孫権の前に進み出て、持参してきた地図を広げた。
「まずは益州を手に入れます。かの地には暗愚と専ら評判の劉璋が州牧としております故、彼の参謀らに密使を送れば容易く入蜀できるでしょう。
そしてさらに漢中へと軍を進めて、張魯を攻め、涼州の馬超と同盟を結んで、許都への備えとし、江陵に軍を取って返し襄陽を攻め落とします。この後、襄陽を根拠地として曹操を攻めます」
孫権は、周瑜の白い指が地図を指しながら動くさまを、感嘆してみていた。
「・・・なんと壮大な策だな。しかし、そうなると漢中が重要になるな。誰を置くつもりだ?」
「孫仲異殿を。この話は既にさせていただいております」
孫権はじっと周瑜の白い貌を見た。
要となるであろう地に孫瑜を置く、というその意味を、孫権は悟っていた。
この策が成功すれば、周瑜の武勲はとてつもないものになる。
孫権の周りにいる文官たちは、その力を恐れ、謀反の可能性を示唆するやもしれぬ。
そうなったとき、周瑜の近辺にだれかを付けて見張らせようということになるだろう。
そしてその役は、孫家の者が最も相応しい。
周瑜はそんなことまでをも考えて人を配置しているのだろう。
本当に、よくまわる頭だ、と孫権は苦笑するしかない。
「・・・ふむ。しかし、馬超というのは異民族の血が入っているというが・・・同盟などできるものなのか?」
「はい。その辺りのことはお任せを。一計を案じております故」
孫権は改めて周瑜を見た。
口元に不敵な笑みを浮かべている。
この美しい顔の奥で、どのような鬼謀をめぐらせているのだろうか、と孫権は思った。
「しかし、今の話を聞く限りでは、劉備はおまえの眼中にはないということか」
「益州へ入る際に蹴散らしてしまおうと思っております。邪魔ですから」
周瑜はそう辛らつなことを言った。
「しかし、そううまくいくものか」
「劉備の元には、民は多いですが実戦に耐えられる兵はいいところ1万程度、いくら個人の武勇があったとて数万の大軍とでは勝負になりません」
「ふむ。おまえがやるというからにはやれるのだろう」
「主公に天下を取っていただくための策とお考えください」
周瑜の顔からは、何の表情も読み取ることはできなかった。
孫権は顎に手をやって、しばらく何事か考えた後、立ち上がった。
「・・・よし、わかった。おまえの策を是としよう。準備に何がどのくらい必要か」
「はっ!ありがたく存じます。募兵と糧食、それと馬を揃えねばなりません。また、遠征の最中の都の備えとして合肥、歴陽、広陵にも守備軍を置く必要がありましょう。後ほどまとめた書状をお持ちいたします」
「さすがだな。・・・そうだ、今の話の中で合肥に軍を置くという話があったが、先ごろの戦の折、周辺を見てきた。濡須口に砦を作ろうと思うがどうか」
「さすがは主公。それは必要な砦となりましょう。私などの浅知恵などを擁するよりもずっと堅実でいらっしゃる」
「それとな、実は前から考えていたことなのだが・・・都をもっと北へ移そうと思う」
「ほう。それは・・・してどのあたりをお考えなのでしょう?」
「秣稜あたりを考えている」
「良いお考えかと存じます」
そう言った後に、周瑜は微かに笑った。
「何が可笑しい?」
「いえ、主公こそ劉備など眼中にないのではないかと思いまして」
周瑜が言うのは、荊州に近い柴桑から曹操の勢力下の徐州に近い秣稜へ遷都することの意味である。
「俺は利害を考えただけだぞ。曹操はこの呉を狙っているが、当面劉備は荊州のことはさておき、呉に侵略してくる意思はないと思うからだ」
「主公のお考えは常に正しゅうございます。ですがこと荊州に関しては別でございます」
「うむ。今現在、荊州は劉備を入れて3つの勢力が混在していることになるな」
「魯子敬は、この3つの勢力のうち2つが結びつけば残りの1つを追い出すことができると考えているのでしょう。しかし、結局のところ我らにとっては相手が曹操から劉備に変わるだけで何の得にもなりはしません」
「長期的な策ではないと申すのだな」
「はい。それで数年は持つでしょう。しかし、その数年のうちに劉備は西へ勢力を伸ばし力を蓄えるでしょう。曹操を追い出した後、荊州を我が物としようと我らと戦うことになるのは目に見えております」
「ふむ」
「その前に先に西を手に入れることが肝要です。こうなると時間が勝負になってまいります」
「こちらの動きを劉備に気取らせぬようになんとか時間を稼ぐ方法があればよいのだが」
孫権がそう呟いたとき、周瑜の脳裏には呂範の言葉がよぎったが、それは彼の言を待てば良いことだと思って何も言わなかった。
「周将軍」
外朝で周瑜に声を掛けたのは甘寧であった。
話がある、というので、外庭の東屋へと足を向けた。
「先だっては合肥へ出陣していたそうだったな」
「ええ。大した戦果もなく、あえて言うなら無駄な出兵だったかもしれません」
甘寧は少しくさった言い方をした。
「無駄でもあるまい。長江を渡られたら背後を突かれたかもしれんのだからな」
「そりゃ魯子敬殿の解釈でしょうよ。あれは陽動にひっかかったんですよ」
周瑜はフ、と笑った。
「それより、聞きましたよ、上申した策とやらを」
「そうか」
「やっぱり、あなたは俺の見込んだとおりの人だ。実は俺も同じことを考えてました。さすがに馬超と同盟ってとこまでは考え付きませんでしたがね」
「ほう。それを殿に上申したのかね?」
「ええ、そうしたら殿は、周将軍の策と合致しているから、といって話をしてくれました」
「なるほど」
「俺は曹操に対する基盤をきっちりしときたいと思ってたんで、そのためには天下を3つに別ける必要はなく、天下は2つに別けるべきだと思ってます」
周瑜は感心して頷いた。
「おまえが益州攻めに関する具体的な策をもっているのなら聞かせてくれないか?」
「ええ、そのために来ました。俺は益州の巴郡出身なんであのあたりの地形は把握してますから」
「そうか、それは心強いな」
甘寧は自分の策を述べた。
「まずは江州を通って成都へ入り、劉璋を捕え、巴蜀を取ります。成都を補給路として漢中に上り張魯を攻めるのです」
「・・・その張魯攻めだが、ひとつだけ心配がある」
「曹操の軍と鉢合わせするかもしれないってことですかい?」
「・・・わかっているなら話は早い。成都攻めに時間を掛けすぎると、逆に漢中を曹操に奪われる可能性がある」
「それは俺も考えています。そうなればなったで涼州の馬超と同盟し、擁州を挟撃すればよいのではありませんか」
「なるほど。どちらに転んでもよいということか。さすがだな」
「あくまで馬超と同盟できれば、の話ですがね。馬超が曹操についちまったらおしまいでさ」
「・・・それはない。馬超は曹操にはつかない」
甘寧はいぶかしげに周瑜を見た。
「・・・そう考える確かな理由があるんですかい?」
「まあ、ね。詳しいことは話せないが」
「ふぅん。ま、あなたが言うのなら間違いはないんでしょうね」
それから甘寧は今の戦力について彼なりの分析した結果を語りだした。
「・・・とにかく山越討伐ってやつが厄介ですぜ」
「そうだな。だがこれをほおって置けば柱を虫に食われた屋敷のように内から崩れるであろう」
「俺が危惧してんのはその山越のリーダーに曹操のヤツが干渉することなんです」
「・・・ありうる話だな」
その後も、甘寧は兵法についての話を周瑜から聞きたがったり、二人の話は、つきることがないかと思われるほどに続いた。
「ところで、もうお体はよろしいので?」
「ああ、もう平気だ。これから行軍だからね、体力をつけねばと思っている」
「・・・先陣は俺に任せてあなたは江陵でお待ちになってくれませんか」
「興覇、私の体を心配してくれる気持ちは嬉しいが、こればかりは譲れないよ。それに馬超には私自身が会う必要がある」
「なら、成都を落とした後にでも」
周瑜は苦笑して甘寧を制した。
「私に、兵を戦わせておいて後方でふんぞり返っている司令官になれというのか」
「・・・わかっています。あなたは諸葛亮なんぞとは違うってことは」
「ならもう何も言うな」
「・・・俺はあなたが心配なんです。あなたはいつだって人知れず無理をする。今度の行軍はかなりの長丁場になりますぜ。益州は霧がよくでるくらい寒くて湿気の多い土地です。体が持つんですか」
「・・・万一、行軍中に私が倒れたら、その地に置いてゆけば良い」
それを聞いて、甘寧は立ち上がった。
「そんなこと、できるわけがない!」
「興覇、興覇、落ち着け。もしもの話だ」
「もしもの話でも、駄目です!・・・俺に、そんなことを考えさせないでください」
「・・・悪かった」
「万一、あなたが行軍中に病にでも倒れられたらそこで軍を引きます」
「興覇・・・」
「何があってもあなたの体が第一だ。もし劉備が先に益州をとるってんなら取らせてやればいい。あとで奪い返せばいいだけだ」
甘寧は真剣な表情だった。
周瑜はその甘寧をじっと見上げていた。