微香〜異説話〜


建安五年、春。
その報せを持って来た使者は急ぎ呉都へ戻るよう周瑜に要請した。
周瑜には信じられなかった。
一体、何が孫策の身に起こったのか。

「討逆将軍孫策、重傷」

暗殺・・!?

周瑜の脳裏を走った。
昨年来、呉都で起こった争いや揉め事のことは聞いていた。
孫策は狩に出かけている最中に賊の襲撃に会い、毒矢を左の頬に受けたという。

「重傷・・?あの伯符様が・・・嘘だ、信じられない」
孫策の子を産んだ周瑜ではあったが難産であったことも影響して、体調は最悪だった。
すぐに出立する、という周瑜を抑えるのに小喬も世話係の者たちも必死だった。
「およしになって下さい!今、この体で長旅などなさったら、旦那様のお命の方が危ないです!」
「放せ…!行かねば。伯符様のもとへ…」

小喬が悲鳴を上げる。
周瑜はよろけながらも前へ、前へ歩こうとする。
しかし、結局そのまま倒れて気を失ってしまった。
徐盛が周瑜を抱き上げて部屋の牀台に横たえる。
周瑜はうわごとのように、孫策の名を呼びつづけていた。

周瑜は徐盛の進言を受け入れ、大軍を率いて呉へと戻った。
平然を装いながら。

焦る気持ちを抑えつつ、呉城へと入る。

「あっ!・・・・公瑾殿!」
急ぎ足で回廊を歩く周瑜の前に呂蒙が現れた。
「子明。伯符さまは!?」
「・・・それが、どなたもお会いになれないのです」
「・・・公瑾が来た、とお伝えしてくれ」
「はい」
周瑜は、それほどに具合が悪いのかと内心心配で仕方がなかった。
こうして待っているのも本当は辛い。

しばらくして呂蒙が戻ってくると、
「お会いになるそうです。お部屋へどうぞ」と言って周瑜を案内した。
部屋に案内されて一人で中に入るとそこは薄暗く、灯り取りの炎が部屋の中に点々と灯っていた。

「・・・・伯符さま。周瑜、戻りましてございます。傷のお加減はいかがでしょうか」

孫策は部屋の中央の案に片肘をつき、片膝を立てて座っていた。
周瑜はその前に座した。

矢は左頬に当たったと聞いていた。
孫策の顔の片側は布で覆われていて頭にかけて包帯を巻いていた。
「・・・よう」
孫策は座ったまま周瑜を見た。
「見ての通り、命は拾ったが無様な姿を晒しておる」
「・・・それはようございました。お命にかかわる負傷と伺っておりましたので、肝を冷やしておりました」
周瑜は孫策の姿を見て安堵し、努めて平静にそう言った。
だが。
「何が良いものか!」
孫策は吐いて捨てるように言った。
「公瑾・・・これを見てもまだ、そう言えるのか!」
孫策は自ら顔の包帯を解き、傷口を晒した。
孫策の片方の頬には大きくえぐれたような矢尻の傷跡があった。
毒が塗ってあったのだろう、その傷から瞼までがまだ痛々しく腫れていた。
周瑜はそれを見て、思わず目を伏せた。
「おまえも、仕える主がこのように醜い顔であるのは嫌だろう?」
孫策は自嘲するように言った。
周瑜はそれを聞いて、孫策が傷の深さに相当参っているのだと思った。

「そのようなこと、本気でお考えですか」
激昂する孫策とは対照的に冷静に応えた。
「綺麗な顔をしているおまえにはわからん」
孫策はきつい口調で言った。
孫策の言いように、周瑜は少しだけ腹がたった。
顔がなんだと?
孫策が死ぬかも知れないと聞いて、自分がどれだけ心配したのか、わかっていないのだろうか。

「そのような傷、時が経てば薄くなり消えてなくなりましょう。それよりも醜いのはそのような事を申される伯符様の心根でございます」

周瑜は膝に置いた拳をいつの間にか握りしめていた。
「私が、どのような思いで巴丘からここへ戻って参ったとお思いですか・・・!」
いつになく周瑜の声が大きくなり、言葉の最後は泣き声に近かった。

「・・・・公瑾」
孫策が一度、字を呼んだ。
周瑜は膝に置いた自分の拳を睨んだまま返答しない。

「公瑾」
もう一度呼ぶ。
周瑜は俯いたまま顔を背けた。

三度目に呼ばれたとき、顔を上げるといつの間にか孫策が間近に立っていた。
周瑜の目の前で腰を下ろし、周瑜の眼前に己の顔を近づけた。

「・・・この顔が怖ろしくはないか?美しいおまえにそぐわないのではないか?」

間近で見るとまだその傷は生々しく痛々しい。
だが周瑜は目をそらすことなくその顔に手を差し伸べた。
「・・・伯符さまの姿貌はこの程度の傷くらいでは少しも損なわれたとは思いません。曹操の従兄弟の夏侯惇などは隻眼で盲夏侯などと呼ばれておりますが、ついぞそのような恨み言を申したことがあるとは聞いたこともございません。かの者に比べられるとはお思いになりませぬか」
慰めるだけでなく、周瑜の言い方は多少棘もあった。

実に周瑜らしい、と孫策はふ、と笑って思った。
「・・・おまえが手当してくれ。ずっと、俺の傍にいて俺の力になってくれ」
「私は医師ではありません。名医を捜して連れて参りますゆえ・・・」
「嫌だ。おまえがやれ」
「伯符さま・・・」
周瑜は困ったような表情になった。
「・・・俺が生死の境を彷徨ったのは本当だ。つい、先日まで床に伏しておった。本当に、権と子布を呼んで遺言を残そうと思っていたところであった」
「・・・・・」
「病に臥している最中、夢に幾度となく出てきたのは、亡き父でもなく弟たちでもなく・・たった一人の人物だった」
孫策はじっと周瑜を見つめた。
「おまえだ」
周瑜は何も言わなかった。
自分も同じだったからだ。
「幾夜も幾夜もおまえの微笑みと白い肌が俺を誘っては置き去りにする夢を見た」
孫策は周瑜の手を取って握りしめた。

「・・・俺は後悔したくない。おまえを娶らずに死に急ぎ辺土の闇の中でおまえを想って泣き暮らすのは嫌だ」
強く握られた手から震えが伝わった。
「俺の妻になれ」

一瞬、息が詰まった。
「伯符さま、それは・・・」
「嫌だ、と前におまえは言ったな。女であるより俺の参謀でありたいと」
「・・・・」
周瑜は目を伏せ頷いた。
「近いうち、俺は呉を取って国を建てる。そして王になる。そうしたらおまえを正室に迎える」
「しかし、伯符さまには・・・」
「大喬はよくできた女だ。きっとわかってくれる。あれはおまえが正室になるのならば身を引くであろう」
周瑜は孫策に握られた手をふりほどけずにいた。
「俺がおまえを傍に置く限り、こたびのようにおまえに子が出来て行軍に参加できぬこともあるであろう。そうなってもおまえは参軍のままでいられると思うのか」
孫策の言うことは尤もだった。
今回の出産のことで、周瑜自身もそれは考えなかったわけではない。

「・・・それともこんな顔の男では嫌か?」

孫策はずるい、と周瑜は思う。
こんな言われ方をされては、断れないではないか。
周瑜は首を横に振って、孫策を見つめた。
「・・・存外、伯符さまも策士であられますね。この私を策にはめるとは」
傷のことを気にするような振る舞いも、自分を騙すために一芝居打ったのではないかと思う周瑜であった。
孫策は軽く笑って見せた。
「なに、おまえほどではないさ」

「・・・・で、返事は?」
孫策は周瑜の手を取ったまま急に真面目な声で言った。
周瑜は一呼吸おいてから、口を開いた。
「・・・・伯符さまが王におなりになったら・・・」
「ん?」
「伯符さまが、呉王におなりになられた暁には、どうか私を妻にお迎えいただきとうございます」
「そうか!受けてくれるのだな!?」
「・・・はい。謹んで」

孫策の表情は一変してぱっと晴れ渡り、掴んでいた周瑜の手を引き寄せてその身体を抱いた。
「ならば一層、江東・江南の平定のため精を出すとしよう」
「それまでは、伯符さまの参軍としてお側に置いてくださいませ」
「ああ、どこへ行くにも必ず一緒に連れて行ってやる。俺のために策を立て、戦勝に導け」
「はい、必ず」
孫策は周瑜の身体を離し、肩に手を置いた。
「おまえを娶るまでは、俺はなにがあっても死ねぬな。こうなれば曹操だろうが誰だろうが負けるわけにはいかなくなった」
孫策はそう言ってははは、と声をたてて笑う。
「伯符さまは必ず、お勝ちになります」
周瑜は笑ってはいなかった。
孫策はすぐに面を引き締め、その周瑜に相対した。
「そうだとも。俺は勝つ。勝って中原の覇王となる。そして・・・」
まっすぐに二人の双眸が交錯する。
「王の隣の玉座にはおまえがいるんだ」
 
 
 
 
 
 

(了)
 
 
 

「微香」(11)の異説編です。
もし孫策が死なず、周瑜が孫策の求婚を受け入れていたら?という内容のリクエストでした。
普通の状況だとおそらく周瑜は求婚を受け入れたりはしなかったでしょうから、あえて伯符さまには
お顔に傷をつけさせていただきました。
「伯符さまの顔に傷を付けないで!」とお嘆きの方、申し訳有りません(汗)
周瑜も申しておりますとおり、傷がついたくらいでは伯符さまのかっこよさは変わりませんのでご安心ください。