江東情話〜後編〜



背中が焼け付くように熱い。

(・・・俺はどうしたんだったか?)

意識がうっすらと戻り掛けたところで、その背中の激痛に、強引に目を醒まさざるをえなかった。

床に寝かされていた。

(・・・そうか、俺は・・・・。)

あの砦から逃げるときに、背中に矢を受けたのだった。

(まだ、命があったか)

うつぶせで寝かされている自分の視界の端に、秀麗な顔が映った。

「公瑾・・・」
思わず声が出た。
「良かった、気が付いたんですね」

周瑜の声は安堵に満ちていた。

祖茂は目だけを動かして、周瑜を見た。
綺麗な顔には傷一つなかった。
内心、祖茂はそれだけで満足した。

泣きそうな顔の周瑜に言葉をかけてやるうち、気が付いた。

(・・・・俺は)

周瑜の息が耳にかかる。

(俺は、公瑾が・・・・)

華奢な手が祖茂の脇につかれた。

(好きだ)

ただひとつのぼんやりとした疑問が祖茂の思考を助長する。
それを振り払って、こう言った。

「若君と覇道を共に歩む者になってくれ・・・」
祖茂が言うと、周瑜はその意味を捉えかねていたようだった。

ふいに周瑜が顔を寄せてきた。
その言葉の意味を尋ねようとしたのかもしれなかった。
だが祖茂はほとんど反射的に身体を起こして近づいてくる周瑜の肩を抱き寄せ、そして−。

柔らかい唇だった。
何もかもが、まるで上質の布で織り上げたようななめらかさを持っていた。
甘い。
これが少女のものでなくて一体なんだというのだろう。

そんなことを考えながら、祖茂はその唇を名残惜しそうに離した。

「・・・・ごめん。こんなこと、するつもりじゃなかったんだが・・怒ったかい?」

自分の唇を指で押さえ、沈黙したまま首を横に振る仕草が、なんとも可愛らしい。
まるで初々しい少女のようだ。

「・・・・なんでかな・・・・わからないんだけど、君の顔が傍にあったからつい、そうせずにいられなくなった」
祖茂は微笑んだ。
周瑜の頬が赤く染まるのがわかった。

形の良い唇を指でそっとなぞりながら、周瑜は尋ねた。

「・・・・大栄は・・・なぜ私を護ろうとなさったのです・・・?」

(それは俺が、君を好きで、護りたいと思ったからだ。)
祖茂は目でそう語った。
だが言葉にしてはこう言った。
「・・・・・君にもしものことがあったら、俺が若に殺されるかもしれなかったから」
心なしか、周瑜の表情ががっかりしたように見えた。
「俺は・・・何をやっているんだろうな・・・?こんなんだから、殿に嫁の来手がないと言われるんだ」
その顔を曇らせたくなくて、軽口を叩いてみたつもりだった。

「男の君に・・・こんな気持ちになるなんて」
祖茂は心底ではそう思っていなかった。

そのとき、周瑜が少し苦しそうに自分の喉を押さえた。
・・・・何かを言おうとしているのだろうか。
そんな風に見えた。

何を言おうとしたんだい?

そう聞こうとした時、孫策の声と足音が聞こえた。
どこかで見ていたのだろうか、今のやりとりを。

そしてこの孫策の態度。

「行っておいで」
祖茂はそう言って二人を送り出した。

くすぶっていたそれまでの疑問が確信に近いものに変わった。
 

だから、とうとう言ってしまった。

「俺はね、君が女でも全然驚かないし、他言するつもりもないんだよ。だから隠さなくていい」

周瑜は祖茂の予想した通り驚いていた。
そして否定しなかった。

「俺の嫁になるかい?」
微笑しながらだが、そう言った。
それは祖茂の本心だったかもしれない。

周瑜が面白いほど狼狽えている。
いつも表情を押し殺すようにしている、この白面の美貌が。

その唇にもう一度触れたいと思った。
「冗談だよ」
(冗談なんかではない)
「君には若君の方がお似合いだよ」
(このまま奪ってしまいたい)

・・・・・・・
だが。
その思考は刺客によって破られてしまった。

・・・・・・・

薄れていく意識の中、綺麗な周瑜の身体が刺客の返り血で汚されているのを見た。
これからも孫策と一緒に血に染まっていくのだろう。
 
 

(綺麗な、公瑾。

君はこれからもそうやって力を抜くこともできずに生きていくんだね。

できれば俺が・・・・・。

・・・俺が君を元の姿に戻してあげたかったけれど。

君はもっと高みを目指していくのだろう。

俺にももっとやるべきことがある。

それは君への想いを抑えながらできることなんかじゃないはずだ。

だから・・・・。

これでさようならだ。

さようならだ。

さようなら)

・・・・・・。
 
 
 
 

「おい、大栄!」

急に呼びかけられて、我に返った。
目が、醒めた。

薄ぼんやりする視界が、はっきりと映ってくる。

「なんだ、だらしがないな。これしきのことでもう酔ったのか」

酒の入った器をもったまま、己の肩を揺する男は、たしかに呉景だった。

「ああ・・・すまん」
「どうした?大丈夫か?」
「酒のまわりが早いようだ。今夜はもう休むよ」
「そうか。俺も明日出立するんでな、ちょうどいい。これでお開きにしようか」
「殿と、か。江夏へ行くんだったか」
「ああ。荊州だな。黄祖とかいう小者をまずは血祭りにあげてくるよ」
「・・・がんばってこいよ。死ぬなよな」
「ああ。おまえの分まで、な」
祖茂は呉景にふっ、と笑いかけた。
「俺はあれから殿の為になにも働いていない・・・情けないな」
「まあ、焦るな。おまえはついこの前まで死の淵にいたんだからな」
「・・・・」
 

「そういえばおまえ、また公瑾のこと、言ってたな」
「ん?」
「酔うと必ずあいつの名が出てくる。そんなにお気に入りだったか」
呉景は含み笑いを浮かべて言った。
「・・・ああ。そうだな」
「嫁にでもするつもりか?」
呉景は笑いながら言った。
あきらかに冗談なのだ。
だが、それは祖茂にとっては複雑な問題のはずであった。
それを唇を噛むことで殺し、笑顔を作って応えた。
「ああ、あんな別嬪の嫁が欲しいよ、俺は」
「くっ。諦めろ。ありゃ男だ」
「残念だな。まったく。とことん俺は女に縁がない」
祖茂の背中で笑いが起こった。
「面白すぎるぞ、おまえ」
「勝手に言ってろ」
爆笑する呉景を残して、その場を立った。
 
 

別れてから一年になる。

もう随分会っていないような気がする。
会いたい・・・。
あの年頃ならば一年会わねば驚くほど変わっているだろう。
あの美しさはどれほど極まっているだろうか。
 

(俺も案外女々しいな)
祖茂は苦笑する。
 

(俺の運命は殿の元に)
腰に帯びた剣に手をやる。
 

(殿の恩義に報いることが、俺の使命)
たとえ五体が離れようと、殿の元に帰る。
 

祖茂は筆と硯を取り出して、書をしたためた。
普段、あまりしないことだったが、孫堅に仕えるようになってからは必要なことだと教わった。
周瑜宛に書簡を書こうと思ったが、やめた。
その代わりなんとなく、走り書きのようなものを書いた。

「我ながらなんと下手くそなんだ」
祖茂は自分自身でも呆れていた。
だが捨てることはせず、自分の持ち物のなかに丸めてほおりこんでおいた。
 
 
 
 

砦の上から、祖茂は早馬が駆けてくるのを見た。
孫堅の戦勝の知らせだろう、と祖茂は思った。
それにしても随分慌てている。

「・・・風が強いな、今日は」

祖茂は使者に会うために、広間へと向かった。
 
 
 
 
 
 
 
 

(終)