嫉妬



その日、孫策は上機嫌で屋敷に戻り、宴が開かれる予定の広間に脚を運んだ。
そこでは宴の準備をすすめる下働きの男や女中たちがあくせく働いていた。
そこを横切ろうとすると、呂蒙が声をかけてきた。
「主上、立派な鹿ですね」
「おお、子明か、そうだろう、今日はなかなかいい猟場だったぞ。おまえもくればよかったのにな」
「どれ、その獲物を厨房に持って行きましょう」
孫策の肩に担がれていた鹿を呂蒙は重そうに受け取った。
「公瑾はどこだ?」
「今お客人の相手をされております」
「客?」
孫策は少し意外な顔をした。
「なんでも旧い友人だとかで。たまたま近くを通ったので寄ったとか」
「・…どんなやつだ?」
「背の高い、がっしりした男でした」
「若いのか」
「主上とおなじくらいでしょうか」

気になる。
孫策は周瑜の客とやらがどんな男で、なんの用事できているのかが気になって仕方が無かった。
 

彼に与えられた本営の屋敷の部屋は奥の、雅やかな庭に面した場所で二つ隣には周瑜の部屋がある。
気になったので彼は自分の部屋の前を通りすぎて周瑜の部屋の前まで来た。
談笑する声がかすかに聞き取れる。
なんだか盗み聞きしているようで、いたたまれなくなり自分の部屋に戻ろうとした。
ちょうどその時、周瑜の部屋の扉が開き、二人が出てきた。
孫策は慌てて自分の部屋に入った。
格子を少しあけてその様子を見た。
周瑜ともう一人の男は庭に出て行った。

周瑜、字を公瑾。
その白皙の面はつややかな紅い唇をいやおうにも引き立たせている。
まるで、紅を塗っているようだ。
そして黒く澄んだ瞳、切れ長の目。
ほとんどといっていいほど毎日顔をつきあわせているというのに、彼の目を見つめるたびなぜだかどきり、とさせられる。
呂蒙などは未だに周瑜に正面から見つめられると真っ赤になってしどろもどろになってしまう。
 

孫策の部屋からも周瑜たちのでている庭が見渡せる。
格子の隙間から、思いも寄らない光景が飛びこんできた。

庭の真中にある桃の木の前に立ち、
見知らぬ男が、周瑜の肩を抱いて、なにやら耳元で囁いている。
それに周瑜がくすり、と笑みをたたえる。

しばらくその光景をみていた孫策だったが、いつまでもその男が周瑜の肩を抱いたまま 離そうとしないのを見て、不愉快になった。
自分自身、なぜそうなったのか自覚もなかったが。
そしてあろうことか、その男は周瑜を抱き寄せ、髪を撫で始めた。
瞬間、かっとなった孫策は格子を閉め、その光景を見ないようにした。
だが。
庭からは笑い声が聞こえる。

孫策はイライラしはじめた。
「公瑾のやつ・・・一体どういうつもりなんだ、あんな男を屋敷にあげるなんて」

やっぱり気になる。
ふたたび格子をあけた。が。そこにはもうだれもいなかった。
孫策は部屋を出て周瑜を探した。
すると廊下を周瑜が一人で戻ってきた。
「あ、伯符さま、お戻りになっておられたのですか」
周瑜の呑気なものの言い方にかちん、ときた
孫策は駆け寄り、周瑜の腕をひっぱって自分の部屋に連れこんだ。

一方、わけがわからない周瑜は強い腕に引っ張られ、孫策の真意を量れずにいた。
「いったいなんだというのです?」
「わからないか?」
孫策は不機嫌そのものといったかんじで周瑜に向かう。
「わかりません」
「今の奴、だれなんだ」
「…?ああ、故郷にいたころの塾で一緒だった友人ですよ。たまたま近くを通りかかったので寄ってくれたのだそうです」
「あいつは、虫がすかん」
「伯符さま…?」
不思議そうに自分の目線より頭一つ分高いところにある孫策の顔を見上げた周瑜を
強引に抱き寄せる。
「おまえにこうしていいのは俺だけなんだ」
周瑜はようやく合点がいった。
「伯符さま、あれはそんなつもりではありません。髪に虫がついていたので取ってもらっただけ・・・」
「おまえはそうでも向こうはちがうだろう?」
「まさか」
「いいや、あいつはおまえを狙ってる。間違いない。俺に挑戦してんだ」
「彼はそんな男ではありません。伯符さまの思い過ごしでしょう」
「おまえ」
孫策は周瑜の首のうしろに手を入れ、その秀麗な顔を自分に近づけた。
「おまえはあんなやつを庇うのか」
「かばうもなにも、伯符様こそおかしいのではありませんか」
「公瑾!俺は!」
怒りに似た嫉妬の感情がはっきりと自覚できた。
嫉妬。
女の専売特許だと思っていた。
そう思うことが実はショックでもなんでもなかった。
自分は周瑜が好きなのだ。
それも独占欲をかき立てられるような、強い想いだった。
周瑜の綺麗な顔を見ると、余計に思い知らされる。
その顔を自分の胸に引き寄せ、周瑜を自分の懐に入れるように抱きしめた。
「伯符さま?」
「----公瑾、俺は…おまえが好きなんだ」
「伯…符さま・・」
「みっともないやきもちだと分かってはいる。だが、おまえが俺以外の奴と親しくしているのは 我慢がならないんだ」
周瑜はそっと孫策の背中に手を回した。
「誤解ですよ。私はいつも伯符さまのことしか頭にないのですから」
「本当か?」
二人は抱擁しながら言葉を交し合った。
「伯符さまは私を女のように扱いたいと仰せですか?」
「---おまえが女ならとっくに抱いている。だがおまえはそれ以上に俺にとっては大切な存在だ。
そんなふうには考えたことも無い」
孫策は周瑜の髪を片手で撫でながら言った。
「だが、女以上に愛せる相手もいる」
孫策はその顔を、切れ長で美しい目を見つめる。
「その目だ。その目で見つめられると俺は…」
孫策は周瑜の頬を片手で撫でる。
「おまえが妻帯しようが構わない。そういうもんだ。だが他の男におまえが膝を折ったりなれなれしく されているのが我慢ならないんだ」
そういって、孫策は周瑜の唇に自分の唇を重ねる。
周瑜は突然のことに驚いて目を大きく開いていたが、しばらくしてそっと目をつむった。
孫策の唇の感触が、不思議だった。
男同士で、ということを除けば相思相愛の者たちがしごく当たり前のことをしているにすぎないのだ。

長い口付けのあと、名残惜しいのかふたりとも抱擁しあったままだった。
「今後あいつがおまえの家を訪ねてきても泊めたりしてはならんぞ。いいか」
くす、と笑って周瑜はうなづいた。
それですっかり機嫌を直した孫策は、急に今日の狩りの様子を話し出した。
「それでその獲物は今宵の宴に供されるのでしょうね」
「ああ、子明が持って行った」
「それは楽しみですね」
孫策は周瑜の白い手首を握ったまま、離れて行こうとする周瑜を引きとめた。
「伯符さま、もう行かなくてはなりませんよ」
その周瑜の前に立ち、肩に手をおいた。
「なあ・・さっきのつづきをしないか?」
「ダメですよ、誰か来たらどうするんですか」
「俺はだれに見られても平気だぞ」
「私はいやなんです」
きっぱり拒絶されて孫策は少しむくれた。
「宴が終わってからなら」
「そうか。ならば宴の後におまえの屋敷にいく」
少しだけ機嫌をよくしたようだった。

呂蒙が呼びに来て、宴の広間に皆集まった。
酒瓶があけられ、孫策のしとめた鹿が出され、場はいよいよ盛り上がってきた。
孫策はほろ酔い、程普や黄蓋などの武将たちとの話に華が咲いていた。
周瑜は飲んでいるにもかかわらずその白皙の顔は少しも蒸気していなかった。
彼の周りには太史慈や呂蒙、呂範など若い武将たちが陣取っており、ようよう酔っているようだった。
皆の話に終始周瑜はにこやかに微笑んで聞き役に徹していた。
太史慈がふいに、周中郎将殿が酔ったところをみたことがない、と言い出した。
呂蒙たちも一様にうなづく。
「私だって酔うときくらいありますよ。それが顔に出ないだけです」
「公瑾殿が酔うとどのようになるのか興味がありますね」
「普通ですよ」
と静かに言って杯をあおる。
「酔わせてみたいですな」
呂範が周瑜に耳打ちするようにいう。
「こういっては何だが、ここにいる者は皆あなたが気にかかっているんですよ」
「・・・どういう意味です?」
「あなたがあまりにも綺麗だから、かな」
「それは男にとっての誉め言葉ではありませんよ」
「いや、でも公瑾どののように綺麗な人はめったにいませんよ!俺初めて会ったとき本当に驚きましたもん」
呂蒙がこの話に入ってくる。
「いやまったく同感ですな」太史慈や魯粛もうなづく。
「みかけがいいというのは大軍を指揮するものにとっては重要なことですぞ。敵にすら悪口を言われなくて すみますからな」
「公瑾どのは将兵にも絶大な人気がありますからな」
「それは伯符様のことでしょう」
「それはもちろんのことだ、主上とは比べられぬ。だがそれは置いての話だよ」

いよいよ酒が入って宴もそろそろお開きとなったころ、周瑜はまだ老将たちの相手をしている孫策に
辞する旨伝え、自分の屋敷に戻っていった。

その途中。

「周公瑾」
暗闇の中、後ろから声を掛けられる。
振り向くと、幕営の影から人影が現れる。
彼以外あたりに人影は無い。

「どうしたのです?こんなところで」
「君を待っていた。屋敷に伺おうかとも思ったんだが、宴が開かれていると言っていたので終わるのを見計らっていた」
その人物は幕営の明かりにうっすらと顔を照らし出されながら近づいてきた。

「私にまだ何かご用ですか?」
周瑜は少し警戒した。
「君はあの孫策という男をどう思っている?」
「…私にとっては義兄弟でかけがえのない方です」
「それだけか?」
「何が言いたいのです」
男は周瑜の手首をおもむろに掴み、後ろ手にねじりあげた。
「あうっ…な、何を!」
周瑜のうしろにまわり片手でその腕をねじりあげながらもう一方の手で彼の細い顎をとらえた。
「周公瑾、私と一緒に江夏に来い」
「…あなたは!」
「そうだ、はじめっからそのつもりだった」
男は自分の顔を周瑜のそれに近づけ、耳元でささやいた。
「君がこれほど美しくなっているとは思わなかったがな」

そのころ、孫策は宴の席を後にし、酔った身体を冷やそうと腰に帯剣したままの戎服姿で幕営の外を歩いていた。
(公瑾のやつ、俺がくるのを待っているかな)
ふと、昼間のことを思い出してひとり赤面する。
(俺だって自分自身びっくりしてるよ。けど、あいつの前に立つと、どういうわけか自分のものにしたいって思っちまうんだ)

少し歩いたところで、人の話声がした。
薄暗い灯火の中、目を凝らしてみる。
言い争っているようだ。しかもこの声は。
(公瑾か?相手は誰だ…?)

「あなたが文官というのは嘘ですね」
「なぜそんなことがわかる?」
「こう見えても私は武人です。その腕をこうもやすやすと捕らえる文官がいるでしょうか」
「いるさ。君のこの細い腕くらい」
「あなたの手には武官らしいたこがあります。それは刀剣を持つものの手でしょう」
男はため息をひとつつくと、周瑜の顔をのぞきこんだ。
「そんな君だから油断できないんだ。どうあっても江夏へつれていく」
「この私が黄祖の配下になるとでも?」
「安心しろ。君は黄祖に仕える必要はない。私が面倒みるから」
「どういう意味です?」
「わかっているだろう…私は君をひと目みたときから…」
そこまで言った時、男の首にうしろから剣先がつきつけられた。

「そこまでだ。公瑾をはなせ」
「う・・・だ、だれだ?」
一瞬緩められた腕を周瑜はさっと抜け出し、距離を取った。
「伯符さま!」
男は自分のうしろをとり、刀を突きつけている孫策を認めた。
「残念だったな。言え!おまえは何者だ。なぜ公瑾をねらう?」
「孫策…か」
「さっさと吐け。俺は気が長い方ではない」
「・・…」
「吐かぬつもりか。なら拷問にかけることになるぞ」
「私は江夏で参軍校尉をしている。公瑾を参軍として迎える為にここへ来た」
「なんだと・…!このひとさらいめ!」
「俺と来い、公瑾。褒賞は思いのままだぞ」
「だまれ!おまえの思惑は別にあるのだろう」
孫策は激哮し、刀の裏側で男の首のうしろを叩きつけた。
一撃で彼は膝をつき、倒れた。

さわぎを聞きつけた警備の将兵が何事かと掛け付ける。
「こいつをふんじばって、牢にいれておけ。明日尋問する」
将兵は倒れている賊をひきずって行った。

「ありがとうございました、伯符さま」
「俺のいったとおりだったろう。あいつは信用できない奴だと」
「はい。改めて伯符さまの人を見る眼力にはおそれいりました」
孫策はふふん、と鼻を鳴らし刀をしまう。
「おまえ、俺が来たから良かったようなものの、誰も通りかからなかったらどうしていた」
「さあ・…江夏に連れて行かれていたでしょうか」
「俺は真面目にいってるんだ」
「すみません」
周瑜はペコリと頭を下げた。
「ですが私も護身用に匕首を持っておりますのでそれでなんとかできると思っておりました」
「あいつを殺すつもりだったのか」
「いわれの無い侮辱をうけましたので」
孫策は顎に手をあててしばらく周瑜の顔を見ていた。
「あいつはおまえに何を言ったんだ?」
「言いたくありません」
「・・・・・」
冷たく、そう答えた。
こういう表情の時の周瑜は譲らない。
「わかった・・もう聞かん。だがあいつがおまえに言い寄っていたことくらいはわかるぞ」
周瑜は少し俯き加減で目を伏せた。
「せっかくの酒が台無しだ。おまえのとこで飲みなおす」
孫策はそういって周瑜の肩を抱く。
 

周瑜は自分の屋敷の部屋に孫策を座らせ、下女に酒をもってこさせた。
「宴の席でおまえに一番酒をすすめていたのは子敬だったか。おまえが酔ったところをみたい、と 子義も申しておったな」
「他の話は聞いていないくせに、なんだってそんなくだらないところだけ聞いているんですか」
「俺も見てみたい」
「・・・酔ってらっしゃいますね」
急にまえのめりになったと思うと、向かい側に座っている周瑜の両肩をがしっと掴んだ。
「俺はおまえに酔っているんだ」
周瑜は真顔でそんなことを言う孫策に微笑した。
「殺し文句ですね」
しばらく孫策は周瑜の顔を見ていた。
「・・・あいつはおまえを囲おうとしていたんだろう?女のように・・・ちがうか?」
驚いたように孫策を正面から見て、目をそらす。
「・・さすがは伯符さま」
周瑜は持っていた杯を置くと、孫策を見つめ返した。
「そのとおりです、彼は江夏に行っても黄祖に仕えさせるのではなく私の面倒を見ると、そう言ったのです」
「まるでおまえを嫁にもらうみたいな言い方だな」
あっけらかんという孫策をきっと睨みつける。
そしてまたため息をつく。
「・・・そうなんです。いたく傷つきましたよ。彼にとっての私はまるきり女としか見えていなかった」
「俺には女より綺麗にみえるがな」
「伯符さま・・・・!」すこしむっとして立ちあがりかける周瑜を抱き寄せた。
「俺はおまえのその綺麗な顔が好きだ。それを誉めて何が悪い?」
膝立ちになった周瑜は孫策の男らしい顔を見下ろした。
「だが、やつはわかっていない。おまえがその美しい顔の奥にするどい牙を持っていることを」
膝で立つ周瑜の腰を孫策は胡座をかいたまま抱き寄せる。
「おまえを囲うなんてもったいないことを言う。これほどの知恵者を」
周瑜は孫策の首にしがみつきたい衝動をぐっとこらえた。
「おまえを使いこなせるのは俺だけだ。俺のそばにいればいい」
「伯符さま」

周瑜は孫策の両肩に手を置き、正面少し上から彼を見つめる。
「もちろんです。置いてくださらねば行くところもございませんし」
孫策は豪快に笑った。
「さて、約束だ。昼間の続きをしよう…」
周瑜はひとつ、ため息をついて、仕方がない、という風に笑った。
 
 
 
 
(了)