珠火



それはまだ周瑜がハ陽にいた頃の事である。

ハ陽湖の近くに宿営地があり、周瑜はそこに寝泊まりしていた。
宿営地には将官以上の者が止まる宿があり、世話をする人間は副官かあるいは地元の者が
多かった。
周瑜はこのときは中護軍という位にあって、在位は短いが最高司令官に準ずる立場であったため、地元の立派な屋敷を借り受け住まっていた。

「美周郎のお顔をご覧になった?」
「ええ!もう夢中よ」
「あんな殿方がいらっしゃるなんて・・・夢みたい」
側仕えの若い女達は顔を合わせるたびにそんなことを言い合っていた。
物腰の柔らかい、育ちの良さそうな立ち居振る舞いも、彼女たちの評価を一層アップさせていた。
それ故に自然と周瑜の周りはいつも行き届いていた。
護衛番の徐盛にも夜食を運ぶなどサービス満点なのであった。
遊びにきた呂範もこれには感心していた。
「なんと手入れの行き届いた邸だ」
周瑜は苦笑せざるを得ない。
特に何かを言いつけてさせているわけではないのだが、下働きの彼、彼女らは美貌の主人に誉めてもらいたくて先を争って奉仕しようと必死なのであった。


そんな周瑜の仮住まいに、表向きは彼の妻となっているはずの小喬がやってきた。
「旦那様!」
バタバタと小走りにやってきた彼女は周瑜のお馴染みのお転婆娘であった。
こうみえても今年25才の女盛りであったが、その内面から弾けるような若さのためか、年齢よりもずっと若く見えた。
「やあ、よく来たね。循は元気か?」
「ええもう!今は良い先生について塾に通っていますわ」
「そうか」
その顔はまだまだ美しく溌剌としていた。
「なんだか・・・少しおやつれになったみたいですわ」
小喬は周瑜の横顔を見て心配そうに言った。
「そうかな?あまり変わらないけれど」
「・・・・少しお痩せになられたみたい・・・」
だが、その分肌の色が白く周瑜の顔は美しさを増していた。
だが彼女はそれを不吉なことと捉えたのだった。
「でも、私が来たからにはもう大丈夫ですわ!おいしいものをたくさん召し上がっていただきますからね」
「ふふ。楽しみにしているよ」
そうして彼女はなにやら注意深くきょろきょろ、と辺りを見回した。
その様子に、周瑜は吹き出した。
「徐文嚮なら厩にいると思うが?」
「・・あ、あら。そうでしたか・・」
彼女は気の抜けたような笑みを返した。
小喬にとってはいつも周瑜の傍にいる徐盛はライバルであった。
家に来るときなどはよく口げんかもしていたが、それがいい友人になりつつあったようである。
それを周瑜は良く思っていた。

屋敷には周瑜の世話をずっとしてきた者達が十数人いる。
彼らは周瑜の実家からずっとついてきた者達であり、なによりも主人を愛し敬っていた。
小喬は彼らとも仲が良い。
早速この仮住まいのことを彼らに聞きはじめた。
しかし、話を聞けば聞くほど徐盛の名が出てくるのであった。

「お呼びでしょうか奥方様」
小喬の元へ徐盛がやってきた。
「文嚮殿、聞きましたわよ。あなた、旦那様のお食事のお世話までなさっておられるそうじゃないの」
「・・はい」
「なのに、旦那様のあの痩せようはどういうことなの?」
「それは・・・」徐盛は口ごもってしまった。
「まさかあなたがお料理なさってるんじゃないでしょうね?」
「いや、それは」
「お毒味もあなたがなさってると伺ったわ」
「は・・・」
口を挟むゆとりもない。
とても、太刀打ちできる相手ではない、と徐盛は首を振った。
「料理は地元の料理人に運ばせております。某はお奨めいたしてはおるのですが・・・」
「そう・・・文嚮殿はご主人のお好きなものをご存知かしら?」
「焼いた、白身の魚に少量の塩をふって召し上がるのがお好きだとは伺っております」
「それと蒸し物もお好きだわ」
「は・・・」
「お元気になっていただくためには、美味しいものを食べていただくしか、ないでしょう?」
「はい」
「ではこれから市場までおつきあいくださいましね」
「えっ?」
「新鮮な食材を買い出しに行くのですわ」
「し、しかし・・某はお役目が・・」
「旦那様の了解はもう取ってありましてよ」
「・・・・」
徐盛は呆気に取られた。
いつもながら、この娘は手際が良い。
さすがに、あの方のお側にいるだけのことはある、と密かに思う徐盛であった。

結局、徐盛は小喬に従い、馬車をしつらえて村の市場までお供することとなった。

徐盛は大きな籠を持たされ、小喬の買ったものを次から次へと受取り、その籠の中に入れていった。
「塩漬けにしておけば持つわ」
といいながら魚介類もたくさん買い込んだ。
女の買い物に付き合うのは、これが初めてだった徐盛は、そのパワーに圧倒されていた。
(とても、あの方と同じ女性とは思えない)
しかし、世の中の女というものはこれが普通なのだろう。
籠を持ちながら、女性は小喬の後ろ姿を視て、ふっと思う。

(あの方の方が世離れしておられるのだな・・・)

「・・どの!徐文嚮殿ったら!」
甲高い女の声に名を呼ばれ、はっと我に返る。
「どうなされたの?」
「あ、いえ」
「ねえ、この反物、どうかしら」
「・・・・」
小喬はある商店の軒先にいた。
布をおいてある反物商であった。
「旦那様の外着を作って差し上げたいのだけれど」
「この色、良いと思わない?」
「良いと思います」
徐盛は素直に応えた。
「そう?やっぱりそうよね?」
小喬は嬉しそうに言った。
反物を買って、帰路についた。

帰りの馬車のなかで、前の馬を操る徐盛に小喬が声をかけた。
「ねえ文嚮殿」
「はい」
「聞いても良いかしら」
「何でござるか」
「あなた、旦那様のこと好きなんでしょ?」

徐盛は急な質問に、しばし沈黙した。

「好きって、家臣がご主人を好き、っていう意味じゃないわよ?」
「・・・どういうことでござるか」
「決まってるじゃない」
「某にはわかりかねますが」
「私には隠さなくったっていいのよ」
「・・・」
「女の私がいうのも変だけど、旦那様はあのとおり浮世離れした美貌ですもの。文嚮殿くらいお側にいれば好きにならないはずがないわ」
「・・・奥方様、あまりおしゃべりなさると舌を噛まれますぞ。このあたり道が悪うございます故」
「素直じゃないわね」
それきり小喬はムスッとして黙ってしまった。
それでもやはりじっとしていられないようで、すぐにしゃべり出した。
「じゃあ・・・」

徐盛はこの小喬のおしゃべりの相手が苦手だった。
まだこれ以上、何を聞かれるのやら。
「私の知らない間の旦那様のこと、聞かせて」
「は・・・」
「なんでもいいのよ。私、知りたいの。あの方のどんなことでも」
「そうですな・・・。ああ、中護軍殿がよく煎じて飲んでいらっしゃる薬包、あれが何か奥方様はご存知であられるか?」
「お薬・・?いいえ、知らないわ。旦那様が、お薬を?」
「・・・」
言わぬ方が良かったか。
徐盛は後悔した。
それまではしゃいでいた彼女が急に静かになってしまったからだ。
おそらく心配なのだろう。
「・・・あ、その話でござるが・・・先日お聞きしたところ、こうおっしゃられました」

『これは不老不死の薬なのだよ』

「不老不死ですって・・・?」
「冗談でござろう。以前おかかりになっておられた医術の張仲景先生から教わった滋養の薬ではなかろうかと、某は思うのですが」
「・・・徐福の伝説をまさか信じて・・」
「ああ・・・秦の始皇帝が欲する不老不死の秘薬を探しに出たという学者のことでしょう」
「そうよ。徐福というひとはその秘薬を探して東へ旅立ち、そして二度と帰らなかったというわ」
「あの方の冗談だと存じます。・・・・その徐福が何かお気にかかるのでござるか?」
「気にかかるのはあの方よ。不老不死だなんて、あの方は・・・お体に不安がおありなのかしら」
「なぜでござるか?」
「旦那様は・・・あの方は、軽々しくそのようなことを言う方ではないもの」
小喬は胸の前で両手を組んで祈るように言った。
「ああ・・・なんだかとても不安だわ。あの方が徐福のように東方へ行ってしまうとは思わないけれど」
「気になさりすぎだと思います」
「だといいのだけれど」
それきり、小喬は黙ってしまった。
徐盛は、こほん、とひとつ咳払いをすると、
「そういえば、先だって軍の者との酒の席で、あの方が久方ぶりに舞を披露されました」と話し出した。
「まあ・・・」
「飾り刀を持っての剣舞でございましたが、それは見事でございました」
「それは・・・私も見たかったわ。それでどのような舞を?」
小喬はわくわくしたように言った。
もともと女と話すことが苦手な徐盛は小喬からの矢継ぎ早の質問に苦労しながらも、その様子を事細かに話した。
「徐文嚮殿ばかり、そのような目の保養をなされてずるいわ」
小喬のこの科白に徐盛は珍しく声を立てて笑った。


「ほう。これはまた豪勢だね」
小喬が用意した夕餉を見た周瑜は感嘆の声をあげた。
「こちらの料理人などには負けませんことよ」
小喬はにこやかに笑って言った。
それでも周瑜は料理の半分を食べて箸を置いた。
小喬が心配そうに訊くと、
「いや、大変美味かった。もうこれ以上ないくらいいただいたよ」と少し申し訳なさそうに言った。
「旦那様はすっかり食が細くおなりなのですわね」
「酒をいただくとね、どうしても食べられなくなるのだよ」
「まあ、お酒がないと召し上がれませんの?」
「そういじめないでおくれ」
「お体に悪いですわ」
「わかってはいるのだけどね。体が受け付けないのだよ」
「わかりました。少しずつでも量を増やしていっていただければ良いのですわ」
小喬はそういってにこやかに微笑んで片づけを始めた。
周瑜の前には酒の瓶と器だけが残された。
「珠、少しここへきて座らないか」
「はい」
「義姉上はお元気か?」
「はい。私もよく姉のところへは行きますし、殿も何かと気に掛けてくださいます。私が旦那様の元へ来る際もいつもお姉さまに循を預かっていただいておりますし、循もお姉さまにはよく懐いていますわ」
「そうか、良かった」
「でも循は旦那様がいつもおられないので寂しがっておりますわ」
「そうだね・・・悪いとは思っているよ。だがこれもお勤めなのだし、ね」
「旦那様は働き過ぎですわ。少しくらいまとまったお休みをいただければよいのに」
「休み・・・か。そうだ、珠がこちらにいる間にハ陽湖を案内しよう」
「まあ、本当に?」
小喬は頬を赤らめて喜んだ。
「ああ、このあたりを一望できる高台がある。天気のいい日なら遠くまで眺めのいい景色が見られる」
「楽しみにしていますわ」


そういうわけで、その数日後のよく晴れた日の午後、周瑜は自分の馬に小喬を乗せ、高台への山道を歩いていった。
当然だが、お供の徐盛もついていったわけで。
せっかく周瑜と二人きりで出かけるというのに、お邪魔虫がくっついてきているので小喬は少し頬を膨らませていた。
徐盛にしてみれば周瑜の行くところについていくのは当然のことであり、別段なにか気を遣うということもなさげで、いつものように無表情のまま二人の後についていくのであった。

「さあ、ご覧」
案内された場所は、見晴らしの良い、高台になっていて、湖が一望できる。
「まぁっ・・・!なんて綺麗」
馬上からの眺めは更に良かった。
「良い眺めだろう。それに遠くの方の山々まで見える」
「ええ・・・とても素晴らしい眺めですわ」
湖には周瑜の指揮する水軍の船が幾艘も浮かんでいる。
「旦那様はいつもあそこでお仕事をなさっておいでですのね」
「ああ、そうだよ」
「すごい船の数・・・あれで戦をなさるの?」
「そうなるね」
周瑜は他人事のように言った。
「そうだ、先日徐文嚮殿と買い出しに行った際求めた綺麗な生地で、旦那様の袍を作り始めましたのよ」
「ほう、それは楽しみだね。どんな色なんだ?」
「綺麗な紫色の・・・それ以上は縫い上がってからのお楽しみですわ」
「わかったよ」周瑜はクスリ、と笑う。「それでは出来上がったら、殿への謁見の際に着ていこうかな」
「ま・・・!私、が、頑張りますわっ!」
小喬は頬を紅潮させて言った。

3人は切り株に木を削った板を渡しただけの簡易長椅子に腰掛けた。
小喬は弁当代わりに持ってきた草団子を二人に振る舞った。
徐盛は、草団子をほおばりながら、この二人の会話をなにげなく聞いていたが、事情を知らなければ仲の良い美男美女の夫婦のそれに他ならない、と思った。
形式上だが、妻である小喬と話す時の周瑜は実に優しげであった。
おしゃべりな小喬の話に静かに耳を傾け、時に頷き、意見を求められれば優しく答える。
これが女性にとっては理想の夫なのであろうか。
宿営地の下女たちが袖を引き合うのも道理である。
自分ならば辟易としてしまって、何を言われても上の空であっただろう。
徐盛にとって、女のおしゃべりにつきあうのは拷問以外の何ものでもない。

「徐文嚮殿は奥方はいらっしゃったかしら?」
唐突に矛先がこちらへ向いたので、あやうく草団子を喉に詰まらせるところだった。
「い、いえ。そのような甲斐性もございません故」
「あら、じゃあ邸でもお一人?なにかと不便ではありませんの?」
「通いの者がおりますので」
「ふぅん。奥方を貰おうとは思ってはいないの?」
「今のところは。あまり家にも帰っておりませんし」
「跡継ぎのことを考えたら、いつかは貰うのよね。どういう人が好みなのかしら?」
矢継ぎ早な質問に、徐盛は目を白黒させていた。
それをしばらく面白そうに見ていた周瑜だったが、いささか気の毒に思えてきた。
「珠。その辺にしておきなさい。文嚮が困っている」
苦笑しながら助け船を出してくれた周瑜に、徐盛は心から感謝した。

日が傾く前に3人は宿営地へ戻った。
小喬は夕餉の支度に厨房へ、徐盛は馬を連れて厩舎へ、そして周瑜は部屋へ戻った。
しばらく経って、周瑜の部屋へ下女が茶を運んできた。
「ああ、ありがとう。そこへ置いておくれ」
「あの、旦那様。灯籠に火をお入れいたしましょうか」
周瑜は案に置かれた書簡に目を通しながら「頼む」と返事をした。
下女は庭に出て、獣脂を垂らした布に火打ち石を打って付き木に点火した火を移そうとしていた。
「熱っ」
その声に、部屋の中にいた周瑜は立ち上がった。
戸を開けて庭に出ると、下女が付き木を取り落として、手を押さえていた。
「どうした。火傷したのか」
「は・・・はい、申し訳もございません」
「火はいいからこちらへいらっしゃい」
下女を呼んで敲に座らせ、火傷した指先に懐から出した軟膏を塗ってやる。
下女はすっかりポーッとなって周瑜に見とれてしまっていた。
「大した火傷ではないが、指先だから水仕事には少々痛むかもしれないね。よく冷やして、この軟膏を塗っておきなさい」
「は・・・・はい」

さて小喬である。
ちょうどお膳を持って廊下をこちらへ歩いてきたときに、たまたま目に入ったのがこれだった。
下女の指先に軟膏を塗っているとは思いもよらず、小喬からみれば、なにやら手を取り合っているように見えたのだ。
「・・・ま・・・まぁっ・・・」
かーっと頭に血が昇る。

私の旦那様が、他の女と。
わ た し の 旦 那 様 が!

小喬の姿を廊下の奥でみとめた下女は、軟膏を貰って足早に去っていった。
瞳の奥にめらめらと燃える何かを宿しているとも知らない周瑜は、やってきた小喬に声を掛けた。
「おや、今日は早いんだね。もう支度ができたのか」
「ええ・・・旦那様はここで何をなさっていらしたの・・・?」
抑揚を殺した低い声で小喬は尋ねた。
「灯籠に火をいれるのに、小間使いの女中が火傷してしまってね。薬を塗ってやっていたところだよ」
「へ、へえ・・・そうでしたの。お優しいことですこと」
小喬の口調が少しおかしかったので、周瑜は首をかしげた。
「どうかしたのか?」
「いーえ。なんでもございませんわ」
小喬は部屋にお膳を置いた。飯を入れた壺を取りにいってくる、といって再び部屋を出ていった。
「・・・・?」
周瑜は小喬の不興の原因がわからず、また首を傾げた。

唇を尖らせたまま、廊下を歩いていた。
部屋の角で、あやうく徐盛とぶつかりそうになった。
「・・・奥方様」
「徐文嚮殿・・・・ぅ」
徐盛を見上げて、小喬は顔をくしゃくしゃにした。
「・・・ど、どうされたのでござるか・・・」
彼女はうわーん、と声を上げて徐盛の胸に飛び込んできた。
徐盛は突然のことに、あたふたと、どうしていいものやら、対応に困った。
興奮している女ほどやっかいなものはない。
とにかく、落ち着かせなければ、と思い、彼女を引き剥がして肩をぽんぽん、と叩いてやった。
厨房の方へ廊下を歩きながら、小喬は事情を話した。
話を聞いても、徐盛にはなぜ小喬が泣く必要があるのか理解できなかった。
「・・・・火傷の薬を塗っていただけで、なぜそのように悲しまれるのですか」
「私の旦那様なのよ?他の女にまで優しくしてやることはないわ」
「はぁ・・・ですが怪我をしているのであれば・・・」
「徐文嚮殿でもおなじことをした?」
「・・・薬を持っていれば、渡したでしょう」
「そうよ・・・なにも手を取って塗ってやることなんかないのに」
「・・・・」
「ああいうの、八方美人ていうんだわ」
「中護軍殿は単にお優しいだけかと」
「女は自分だけに優しくしてくれないと嫌なのよ!」
急に怒鳴られてビクッとする徐盛の手に、飯の入った温かい壺が渡される。
「そういう・・・ものでござるか・・・」
「そうよ。あの女中、いまごろきっと夢見心地に違いないわ」
「・・・・」
「あんな光景みた後、私ったらじきに都へ戻らねばならないのよ?」
ははぁ、なるほど。やきもちというわけか。
徐盛は今頃になってやっと悟った。
「・・・心配なさる必要などないと存じますが」
「どうしてそう言い切れるの?」
会話しながら元来た道を歩いて戻る。
「中護軍殿の奥方様はあなたお一人のみですから」
「・・・・」
「この数日、中護軍殿は実に明るくなられました。それも奥方様のおかげかと」
「本当にそう思う?」
「某は嘘は申しませぬ」
小喬は少し、自信を取り戻したようであった。
「おそらく中護軍殿も何故奥方様が急にご不興になったのか、わからぬままでしょう。せっかく元気になられたのに、この上またいらぬ心配事を抱えてしまわれるのは某としては避けたいのですが」
「・・・そう・・・そうね・・・」
「某が思うに」
徐盛にしては珍しく饒舌であった。
「奥方様のいらっしゃらないところでもそうしているというのは、あの方に少しも裏表がないということではございませぬか。例えば人や人の官位などで態度を変える者はいくらでもおります。奥方様はそういった者たちをどうお思いですか」
「・・・わかったわ。あんなに素敵な旦那様を持っているのに私ったら、贅沢すぎるのね」
小喬はフフッ、と笑った。
「徐文嚮殿はいつもは無口なのに、旦那様のことになると口が達者になるのね」
「・・・・」
「でも、ありがとう」
徐盛は、小喬を少し見直した。
実際問題として、夫婦というものを彼女がどう考えているのかは、徐盛にはわかる由もないが、彼女が周瑜を慕っているのはよくわかる。
彼女はそれほど事態を深刻に捉えていない。
だから周瑜は以前とかわらぬまま、彼女とこうして接していられるのだろう。
この明るさと素直さが、彼女の美点であるのだ。
自分には、到底真似のできない芸当だ、と思う。


ぽつん、と置かれたお膳を前に、部屋に取り残された周瑜はしばらく呆然としていたが、やがて薄暗くなってきた部屋の中に気づき、先ほど女中が庭に置き忘れた火打ち石と付き木、獣脂の布を見て、火をつけようと思い立った。
火打ち石に火打ち鎌を打ち付け、石の表面においた木綿に点火した火を付き木に移らせる。
炎となった火を獣脂布へ付き木ごと放り込むと、メラメラと炎が燃え上がる。
周瑜はその炎を静かに見守っていた。
そしてふと、思った。
はて、いつも火はだれが持ってきてくれていたのだったろうか。

やがて先ほどの女中がやってきて、先ほどのことを謝りながら、その火を蝋燭に移し取って消していった。
家中の部屋に明かりが灯り始める時刻であった。

食事をもってきたとき、小喬はもういつも通りの彼女であった。
周瑜は何があったのか、あえて聞くことはしなかった。
だが、小喬は周瑜にこう言った。
「火なら厨房にくればいくらでもあります。わざわざ旦那様のお部屋の前で火打ちなどする必要なぞございませんわ」
なるほど、と周瑜は苦笑した。
「これみよがしに、旦那様の気を引こうとしていたんですのよ。それなのに旦那様ったら、お優しすぎます」
小喬が不機嫌だった理由はそれだったか。
自分はあの女中の計略にまんまとひっかかったわけだ。
小喬は女中のしたことを女中頭に密告するようなことはしなかったようだ。
ではどうするのだろうかと周瑜はきいてみた。
別に罪になることをしたわけではないので、叱って追い出すわけにもいかない。少しでも周瑜の傍で周瑜のために働きたいのであれば、それを利用した方がよいと考え、彼女と同じ年頃の女中たち数人を彼女と同じ役目に交代でつけるようにしたという。
彼女と同じ境遇の女中たちを置くことで、彼女の行動に制限をかけ、なおかつ競わせることができる。
これを聞いた周瑜はいたく感心した。
「私もまだまだ、だな。珠の方がよほど司令官に向いているのではないか?」
「あら、私など感情がすぐ顔にでてしまいますから謀には向きませんわ」
「そうかい?」
「私などに戦をさせましたら大変ですわよ。手より先に口が出ますわ」
周瑜は笑った。
「それは面白い、舌戦というやつだね。血を流さずに済むならそれに越したことはないね」


周瑜はこのときまだ知らなかった。
その、舌戦を得意とする使者が、もうじきこの孫呉の地に来ようとしていることを。



(了)