別れの予感



「おおい、ここだ」
男はホテルのラウンジのソファに座ったまま、入り口の方に向かって手をあげる。

入り口から、手をあげたその人を認めて足早にラウンジ内に入ってくる女は薄紅色のスーツを着ていた。

「すみません、遅れまして」
女はショルダーバックを肩からはずし、勧められた席に座った。

座った途端に、ウェイターが注文を聞きにきた。
「何か飲むかね?」
「あ、ではウーロン茶を」
「酒は?飲まないのかね?」
「ええ、まだ仕事が残っていますので」
「まだ戻って仕事をするつもりなのか」
「ええ」
「あいつは?」
「社長は来客中です」
「誰がきているんだ?」
「劉ヨウグループの劉基さんです」
「はっはあ・・・・」
男は頷きながらグラスに手をのばす。
ウーロン茶が運ばれてきて、前のテーブルに置く。

「ところで会長、私にお話って一体何でしょう?」
女は周瑜、東呉商事社長、孫策の秘書である。
会長、と呼ばれた男は孫策の父、孫堅である。
「ああ・・・・策と君は恋人同志なのは俺もわかっている」
「はあ・・・」
「わかっていていうんだがね。実は伯符に縁談が持ち上がっているんだ」
そう言って孫堅はグラスに入ったブランデーを一口飲んだ。
「・・・・!縁談・・・ですか」
周瑜は驚きを隠せない。

「相手は袁術グループの娘さんだ。まだ高校生ということなんだが、向こうが乗り気でな」
「・・・・袁術の」
「君の叔父さん、たしか袁術グループの会社の役員をしていたな」
「・・・はい」
「俺が何を言いたいのか、わかるね」
「・・・・・ええ、でも・・・」
周瑜は孫堅から目を離し、俯いた。
「・・・少し、考える時間をください」
「ああ、俺だって本当はこんなこと言いたくはないんだ。伯符は君にベタ惚れだし、あいつが言うことを聞くとは到底思えんのでな」
「会長は本当にこの縁談をまとめたいとお考えになってらっしゃるんですか」
「・・・伯符次第だな。だが、一応の形は整えておかんと袁術との関係が悪くなる。これはうちの会社にとっても喜ばしきことではない」
周瑜は孫堅の顔を見た。
夜のラウンジで照明は落とされているが、それでもはっきりと日焼けしているのがわかる。
「いますぐ完全に別れろと言っているわけではないんだ。ただ少し期間をおいて欲しい、ということなんだよ。わかるね?」
だが、その期間の間に孫策の縁談がまとまってしまったら、今度こそ別れなければならない、ということなのだ。
「・・・・会長のおっしゃることは尤もです。伯符さまは社長なのですもの」
「だがな・・・策の気持ち、俺にはわかるんだ。俺の妻も、結婚するとき親戚中に反対されて、半ば強引に略奪したようなもんなんだ」
孫堅は昔のことを思い出すような遠い目をして語った。
「君なしで、あいつは一体どうするんだろう、とね。あれは俺とよく似たところがある。情熱的で激情家だ」
私だってそうだ、とも周瑜は思ったが口にはしなかった。
孫策が他の女と結婚するのを黙ってみていられるわけがない。
「私・・・明日から休暇を取ろうと思います。たぶん、心の整理をするのに・・・できるかどうかもわかりませんが・・・すごく時間がかかると思いますので。会社に戻れるかどうかも、いまはまだ」
孫堅は目を細めて周瑜を見た。
「君にはできればずっと社にいてもらいたいんだが・・・無理だろうか?」
「・・・・そこまでの神経は持ち合わせておりません」
孫堅は深いため息をついた。
「すまん、公瑾。この縁談はもとはといえば劉表グループの総帥が持ってきた話なんだ。だからどうしても無下に断るわけにはいかんのだ」
「・・・承知しております」
周瑜は頷いて、ウーロン茶を一口のむと席を立って伝票に手をのばした。
「ああ、伝票はおいていきなさい」
「・・・ありがとうございます」

周瑜の後ろ姿を見送って、孫堅はふうっ、とため息をついた。
「可哀想なことをしちまったな・・・策に恨まれるだろうなあ・・・うう〜」
 
 
 

「あ、周瑜さん。お帰りなさい」
社長室に戻ると、呂蒙が受話器をもったまま振り向いた。
「子明くんこそ。残業なの?」
「はい。社長に呼ばれちゃって。劉基さんたちとちょっと食事がてら飲みに行こうって。それで店を予約してたんですよ。どこがいいかなあ・・・カラオケだと社長マイク離さなくなっちゃうからなあ・・・。周瑜さんも行かれますよね?」
「あ・・ごめん、私はまだ仕事があるから」
「そうなんスか?でも社長がきっとうるさいですよ」
「ごめん、悪いけど・・・私明日から休暇をもらうつもりだから」
「休暇?どこか行かれるんですか?」
「ええ・・・・」
周瑜は曖昧な返事をしてデスクの上の書類を取った。
「じゃあ、私は経営室の方のデスクにいるから」
「あ、はい」
 

社長室から2つ下のフロアにある経営戦略室。
周瑜が室長を務める部署である。
副室長の魯粛を呼んで、話をする。
「・・・しばらく休暇、と申しますと、どれくらいなのでしょうか?」
「・・・ちょっと未定なの。ごめんなさいね」
「・・しかし、室長がいないといろいろと決裁が」
「今日のうちに権限委譲届を出しておくから、しばらくは室長代行をお願い」
魯粛は周瑜を不審な目で見た。
「・・・長期旅行にでも行かれるんですか」
「ええ・・・まあ、そんなところよ」
「しかし急じゃないですか」
「ごめんなさい。どうしても、行かなくちゃいけなくなったの」
「・・・まあ、いいですが。私じゃきっと頼りないって、皆に言われますから早く戻ってきてくださいね」
周瑜はくす、と笑った。
 

周瑜はそうして自分の机の上で長期休暇の申請書を書いていた。
そこへ、孫策がやってきた。
「公瑾、明日から休むって?そんな話は今日まで一度もしていなかったじゃないか。何かあったのか?」
周瑜は自分の席に座ったままで孫策を見上げた。
そのままでしばらく孫策の男らしい顔を眺めていた。
「・・・公瑾?」
夢から覚めたように、周瑜は名前をよばれて我に返った。
「すみません。言い忘れていたんです。ちょっと実家に帰らなければならない用事ができまして・・・」
「そうなのか?いつまでだ?」
「・・・ほんの3,4日ですよ。ご心配なく」
周瑜は嘘をついた。
「・・・仕方がないな。連絡をいれてくれ、寂しいからな・・・早く帰って来いよ」
孫策はそう言って周瑜の手を握って去っていった。
その背を見ながら周瑜はぽつり、と呟いた。
「伯符さま・・・さようなら」
 
 

その次の日から、周瑜は会社に出てこなくなった。
3日経っても連絡がなかった。
そして4日目。
孫策は何度も自宅と携帯電話に連絡を入れたが、繋がらなかった。
周瑜の実家にも連絡してみたが、来ていない、ということであった。
「周瑜さん、旅行にいかれているんじゃないんですか」
孫策が社長室でそわそわしていると、魯粛がやってきてそう言う。
「旅行・・・?俺には実家に行くと言っていたぞ」
「実家から旅行に出かけたんじゃないんですか?」
魯粛はそう言うが、周瑜が孫策に黙って旅行にいくことなどあり得なかった。
「・・・・・」
なにか、あったのだ。
そこへ呂蒙が挨拶しながら入ってきた。
周瑜がどこへ行ったのか知っているか、と訊くと
「さあ・・・どこかへ行くようなことは言っていましたが・・・」
孫策はふと思いついて呂蒙に訊いてみた。
「なあ、公瑾が休む前の日、何かなかったか?誰かと話をしたとか・・・」
「何か、ですか?・・・う〜ん・・・そういえば、会長に呼び出されたとか言ってましたっけ」
呂蒙の言葉に孫策は反応した。

「・・・・そうか・・・そういうことか」
孫策は急に社長室を出ていった。
 
 

「父上!」
会長室の扉が破れるかと思うくらい乱暴に扉を開ける。
「なんだ、騒々しい」
孫堅は自分の机でお茶を飲んでいた。
「・・・・あのこと、どうして公瑾に話したんだ」
孫策は拳を握ったまま孫堅の正面に立って言った。
孫堅はちらり、と孫策の怒った顔を見た。
「俺は縁談なんか受ける気はないと言っただろう?!」
孫堅は黙ってお茶をすする。
「黙っていないで何とか言ったらどうなんだ!」

孫堅は静かに茶器を机に置いた。
「落ち着け、策」
「・・・・公瑾は行方不明だ」
「・・・・・」
「あいつに万が一のことがあったら、たとえ父上でも許さない」
孫策の唇は震えていた。
「公瑾は自分から姿を消したんだろう?それを追って素直に戻ってくると思うか?」
「父上がそうし向けたんじゃないか!」
「・・・・ま、そうだな。否定はせん。だが、公瑾の叔父が袁術のところの役員をやっておる以上、自分が原因で縁談を潰すわけにはいかんだろう」
「俺が縁談を断ると言っているんだ。公瑾は関係ないだろう!?」
「袁術は猜疑心の塊のような男だぞ。おまえの身辺くらいとっくに洗っているさ」
「くっ」
孫策は孫堅の前から身体を翻して出ていこうとした。
「どうするつもりだ!」
「決まってんだろ。探して迎えに行くんだ」
「・・・仕事をほっぽりだしてか」
「このまんまじゃ仕事なんか手に着かないんだよ!」
「・・・確かになあ・・・」
孫堅はのんびり言った。
その様子が孫策の神経を逆撫でした。
「とにかく!俺は袁術の娘なんかごめんだ!」
それだけ吐き捨てるように言うと、会長室を出ていった。
「・・・さあて・・・どうしたもんかなあ・・・とにかく一度袁術のところへいかねばな」
 
 
 
 

(終)