江夏の一夜


 
 

周瑜は休みを提出してから、数日、荊州をまわり江夏へと向かった。
洞庭湖へ来たのは何度目だろう。
少し大きめのボストンバッグを持って、湖の畔のホテルに泊まった。
しばらく帰らないつもりだった。

「こんなにゆっくりできたのは久々ね・・・」
そう独り言を言っていた時、背後から声を掛ける者がいた。

「周瑜さんじゃありませんか」

こんなところに知り合いはいないはずだ。

おそるおそる振り向くと、そこには見覚えのある背の高い男が立っていた。

いつか荊州行きの特急の中で出会った男。
たしか名を・・・

「私ですよ。覚えていらっしゃいませんか?諸葛亮です」

周瑜は思い出した。
蜀漢カンパニーの若きエリートだ。

「ああ、諸葛亮さん・・・あの時は失礼いたしました」
「いいえ。それよりお仕事ですか?お一人で?」
諸葛亮の質問に周瑜は苦笑した。
「いいえ、プライベートです。休暇を取っての一人旅です」
周瑜がそう言うと、諸葛亮は驚いた。
「一人旅?」
「ええ、少しのんびりしようと思って」
諸葛亮はじっと周瑜を見つめた。
「諸葛亮さんこそ、お仕事ですか?」
「ええ・・営業所の視察にまわっているんですよ」
「そうですか、お仕事がんばってくださいね」
そう言って、行こうとする。
「あの!」
唐突に声を張り上げた。
それに振り向く周瑜。
「よろしければ・・・このあと食事でもご一緒にいかがですか?ここでお会いできたのもなにかの縁でしょうし」
「でも・・・」
「気にしないでください。私も今日は一人で来ているんです。うち合わせが終わって次の約束まで時間が空いてしまうのでどうやって時間を潰そうかと思っていたところなんです。・・・それともどなたかとお約束でも?」
諸葛亮のこの誘導尋問のような質問に周瑜は苦笑いした。
「いえ・・・ではお言葉に甘えまして・・・」
「そうですか!それは嬉しい」
諸葛亮はにこやかに微笑んだ。
そしてエスコートするように手を差し出した。
 

諸葛亮はそのよくまわる頭でいろいろなことを考えていた。
周瑜が一人でこのような旅にでるなどということは、なにかしら理由があるはずだ。
そしてそれは恋人と噂される社長の孫策との間に亀裂が生じたことを表している。
(ここで手を出さないようでは男とはいえんな)
そう密かに思った。

高級フレンチレストランで軽くワインを開け、向かい合わせの席でお互いにグラスを傾ける。
「明日はどちらに?」
「・・・具体的には決めていません」
「・・・そうですか。では私にご案内させていただけませんか?」
この申し出に周瑜は驚いた。
「でも・・・お仕事の邪魔をしてしまいますわ」
「実は私、明日はオフなんです。もともと荊州の出身ですのでこのあたりは良く知っているんですよ」
「まあ、そうだったんですか」
諸葛亮の話術は巧みだった。
気がつくと周瑜は明日、諸葛亮と遊覧船に乗って観光する約束を交わしていた。
食事が済むと、諸葛亮は紅茶が美味しい店がある、といって周瑜を誘った。
通りに面した喫茶店だった。
周瑜は諸葛亮の前に座った。
そのとき、諸葛亮が周瑜の背後に目をやった。
「ちょっと失礼」
彼はそう言って席を立ち、入り口の方へ歩いていった。
そっと振り向くと、なにやら可愛らしい女性が立っていて、諸葛亮と話をしていた。
同じ会社の女の子なのだろう。スーツを着ているが、履いている靴はどう見ても室内履きだ。
なんだか、とてもビクビクしているように見える。
しばらくして諸葛亮が戻ってきた。
もう一度後ろを振り向くと、その女性はなんだか泣きそうな顔をしてこちらを見ていた。
「・・・・・?」
誰なんだろう?
周瑜は諸葛亮にそう訊ねると
「私の秘書です。まだまだ修行が足りませんがね」
と言って苦笑した。
秘書。
そう聞いて、孫策のことを思い出してしまう。

いけないいけない。
忘れる為に、旅に出たのに・・・。

周瑜はそう自分に言い聞かせた。
少し落ち込んできてしまったところへ、諸葛亮がこのあとの接客が終わったら、飲みにいきませんか、と誘ってきたのでついOKしてしまった。
どうせ、する事もないし・・ま、いいか。
そう思った。
一人になると、涙が出そうになるからだった。

その夜、別のホテルの最上階にあるラウンジで、夜景を眺めながら諸葛亮と二人でカクテルを飲んだ。
「・・・どうして、一人でご旅行なんかに出たんです?」
「・・・別に、単なる気分転換ですよ」
「・・・・本当に?」
「ええ」
「恋人と、何かあったんじゃないですか?」
「・・・」
周瑜はそれには答えず、視線を外して窓の外を見た。

諸葛亮はそれを見て、アタリだ、と思った。

夜も更けて、いくらか酔いがまわってきた。
周瑜がそろそろ帰ると言い出した。
「送っていきますよ」
「いえ、タクシーでホテルまで行ってしまいますから大丈夫です」
ラウンジから出て、エレベータに乗り込む。
「大丈夫ですか?酔いを醒ましてから帰られては?」
諸葛亮がそう言うと、周瑜は少しふらついて「大丈夫です」と言う。
しかし、彼は周瑜の肩をしっかりと抱きとめた。
その拍子に。
背の高い諸葛亮は体を折り曲げるようにして周瑜を抱きしめ、いきなり唇を重ねてきた。
「・・・・・!」
何が起こったのか。周瑜は今、自分の置かれている状況にパニックに陥った。
周瑜は諸葛亮の胸を拳で叩きつけた。
それでも諸葛亮は強い力で、周瑜を抱きしめたままだった。
顔を左右に振って、唇を離す。
「何をなさるんですっ!!恥知らずなっ!」
ちょうどそのとき、ロビーについたエレベータが開いた。
周瑜は渾身の力で諸葛亮を突き飛ばすと、エレベータから外へ走り出て行った。

「待って!待ってください、周瑜さん!」

周瑜はそのまま、玄関へと走って行った。
タクシー乗り場まで来た時、後ろから追いかけてきた諸葛亮に腕を掴まれた。
「放して!」
諸葛亮は、息を整えて両手で周瑜の肩を抱いて、向かった。
「すみませんでした。あんなことをしてしまったことは謝ります。でも、私はあなたが好きなのです」
諸葛亮は真剣な眼差しで周瑜を見つめた。
「・・・・そんなこと、急に言われても・・・・私、困ります」
周瑜は腕を振り解き、タクシーの一人で乗りこんだ。
そうして諸葛亮は一人取り残された。
額にかかる髪をかきあげながら、
「・・・・少し早まったかな。まあ、仕方が無い。したかったんだから・・・」
そう呟いて、諸葛亮は自分もタクシーに乗りこんだ。
 


周瑜はホテルについて、疲れた様に自分の部屋に戻る。

「・・・・・?」
部屋の廊下を歩きながら、前を見ると、自分の部屋の扉に寄りかかっている人影が見えた。
近寄って行くと、それは・・・

「公瑾・・・待っていた。探したんだぞ」

まぎれもなく、それは孫策その人であった。

「・・・・・!社長・・・どうしてここに・・・」
信じられない、といった表情だった。
「おまえと連絡が取れなくなって、随分探した。おまえが行きそうなところを片っ端から探して歩いた」
周瑜は唇を噛んで泣くのをこらえた。
「・・・おまえ、俺の縁談のこと、親父に聞いたんだろ?」
「・・・・」周瑜はうなづいた。
「どうして、俺になにも聞かずにいなくなったりしたんだ。俺がそんな縁談なんか受けるわけがないだろう?」
「・・・・・私・・・・」
孫策は周瑜に近づいた。
周瑜はそれを後ずさりしてかわそうとした。
「公瑾・・・?」
「伯符さま・・・帰ってください。もう、私に構わないで」
周瑜の拒む理由が、孫策にはわからなかった。
「どうしたっていうんだ。俺はおまえを迎えにきたんだぞ。一緒に帰ろう」
孫策が手を差し出した。
だが、周瑜はそれをも拒む。
「私のことは、どうか忘れてください」
「公瑾、どういうことだ」
「・・・・他に、好きな人がいるんです。だから・・!」
周瑜は孫策の脇を擦り抜けて部屋の扉をあけて中に入ってしまった。
「公瑾!」
孫策が扉の外で扉を叩く。
「他に好きなやつって誰だ!おい、公瑾!嘘をつくな!」
周瑜は扉を背に、すすり泣いていた。
「帰って!・・・お願い、帰ってください・・・!」
孫策はその声を扉ごしに聞いた。
「・・・・わかった。公瑾。今日はこれで帰るが・・・俺は、おまえをあきらめない。誰に何を言われようとも、だ」
周瑜はそれを泣きながら聞いていた。
そして
「おやすみ」
と言って足音は遠ざかって行った。




(終)