孫家の事情



 

その日、朝から孫家は大変なことになっていた。

「今日という今日はもうぜーっったい許せません!!実家に帰らせて貰いますっ!!」
孫家の台所を預かる母・呉夫人は頭から湯気が出るほど怒っていた。

「母上、落ち着いてください!!」
孫権は慌てて母親の傍に寄った。
弟達はおそれて部屋の隅っこでその様子を伺っていた。
「これが落ち着いていられますかっ!」
夫人は自分の部屋に入って、ボストンバックに荷物を詰めだした。

「母上、母上!もう一度父上とよおく話し合ってください!母上がいなくなったら僕たち飢え死にしますよ」
呉夫人はそう言って自分を健気にも止める次男をくるりと振り返り、
「あんたって、本当にいい子ねえ・・・でもね、あんたも男なんだから雄々しく生きていくのよ!」
と力強く言った。
孫権は困った顔をした。
「雄々しく、っていったってご飯がなければ生きていけませんよ。僕外食するの、嫌なんですから」
孫権は母親のダイナミックな料理に、時々呆れはするものの、いつもきちんと全部平らげるのだった。
「う〜ん・・・・じゃあ、公瑾に来てもらいなさい。あの子も料理上手だから」
「そんなことしたら兄上に叱られますよ」
「大丈夫、私が電話しとくから。こないと伯符との仲は許さない、とかなんとか言えばすっ飛んでくるわよ、きっと」
母親はそう言ってからから、と笑った。
孫権はそれを聞いて怖ろしくなった。
母は策士だ・・。
「とにかく、もう決めたの。あの人が謝りにくるまで帰りませんから」

ことの起こりは夕べ孫堅が酔って帰ってきたことからだった。
かなりまわっていて、出迎えた夫人が肩を貸して奥に連れて行ったとき、こともあろうに別の女の名を呼びながら夫人に抱きついてきたのだった。
それだけならまだしも、夫人はあることに気付いてしまった。
孫堅は酒の匂いだけではなく、シャンプーの匂いをさせていたのだ。
「・・・・どこの女とホテルに行ってたわけ・・・!?このろくでなしが!」
浮気発覚、というわけである。
その後も夫人はめざとく孫堅のシャツに口紅のあとを見つけたり(ご丁寧に染みヌキをした跡が伺えた)、胸ポケットの中から女の名刺を見つけたりした。
追求しようにも肝心の孫堅は酔っていてのらりくらりと攻撃をかわすのだった。
それが余計に彼女の怒りを買った。
今朝はまだ父は起きてこない。
孫権はそれがまだ救いだ、と思った。

「じゃあね!あんたたち、いい子にしてるのよ!」
それだけいうと玄関をピシャリと閉めて出ていった。
呉夫人はまだ幼い末の娘・尚香だけを連れてでていった。
これで孫家は本当に男だけの家になってしまった。
「ああ・・・行ってしまった・・」
孫権は哀しげにそれを見送った。
「兄上〜朝ご飯は?」
遠巻きにみていた弟たちが孫権の傍に寄ってくる。
母親がでていっても食事のことが優先されるのか・・・と孫権は弟たちを見てショックを受けた。
「食パンがあっただろう?それとバターとジャムで食べておいで」
孫権は弟たちにそう言うと弟たちはさっそく自分たちで食卓を漁り始めた。
竜巻の去った後のような静かな孫家の食卓であった。
「お弁当もなし、かあ・・・」
孫権はうなだれた。
そうはいっても彼には弁当を持ってくる女の子はたくさんいるので困ることはないのだが。
弟たちは給食があるので、問題は夕食だったりするのだ。
孫家くらいになれば家政婦の一人や二人くらいは雇っていて当然なのだが、呉夫人は「主婦仕事を他人に任せるなんてとんでもない!」と言ってすべての家事をこなしていた。
炊事にしても今時、男でも手料理くらいできるもの、というのが一般的ではあったが、呉夫人はなぜかそういうところは古風な女で、後かたづけくらいは手伝わせたものの、男には一切料理はさせなかった。
「料理人になるっていうのならいいけど、男は料理の上手な奥さんをもらえばいいの!奥さんの料理食べたさに家に帰りたくなるでしょう?」というのが彼女の持論であった。
だから、昔から家に遊びに来ていた周瑜が料理上手なのは当たり前といえた。
しかし孫権自身、母親が自分で言うほど料理が上手いとは思えなかったのだが。

「こうなったら早く父上に謝って貰って迎えにいっていただこう」
孫権はそう思ったが、学校へいく前には起きてはこなさそうだった。
 

そして夕方。
孫権が学校から戻ってくると、孫堅は家にいなかった。
「どこへ行ってしまったんだろう・・会社かな?」
あまり仕事中に電話をするのはどうか、と思ったが、孫権は兄に電話を入れた。
孫策は周瑜から聞いたらしく、母親が実家に帰ったことを知っていた。
母親はちゃんと周瑜に連絡してくれていたようだ。
だが父はいないという。
「公瑾が今夜そっちに泊まるから、部屋を用意しておいてやってくれ」
と孫策は電話口で言う。
「兄上も帰って来られるんですか?」
孫権の質問に、家を出てあまり実家に顔をださない孫策であったが
「当たり前だろ」と言う。
孫権は、兄と周瑜の仲が以前より進展していることを悟った。
「それにしても父上は一体・・・・」
電話を切ってから弟たちが戻ってきた。
周瑜が来ることを知って彼らは喜んだ。
以前孫策がまだ家にいたころはよくケーキを焼いたりして持ってきたものだ。
食欲魔人の彼らにはその記憶があって、周瑜はいつも歓迎されていたのだった。

夜7時すぎ、周瑜が買い物をして家にやってきた。
「あれ、兄上と一緒じゃないんですか?」
「ええ、まだ仕事があるので遅れてくるそうですよ」
「・・・父上と一緒だったりしないでしょうか・・・」
「さあ・・今日は会長はお見かけしていなかったですね」
「すみません、周瑜さん、ご迷惑をおかけして・・・でも助かります」
孫権はそう言って頭を下げた。
「いいんですよ。たくさんご飯作るの、好きですから。少し時間がかかるけど、待っていてくださいね」
 

その頃、周瑜を先に帰らせた孫策はうち合わせを一件終わらせていた。
会議室から出てきたところで、父に会った。
「・・・父上。どうしたんです」
「・・・・・戻ってきてくれないんだ・・・」
「・・・・母上の実家に行ってたのか・・?」
孫堅は少しよれたグレーのポロシャツに黒のチノパンという出で立ちだった。
「権が心配してたんだぜ?・・・で、母上は?」
「・・・・怒って会ってもくれん・・・」
孫策はうなだれて肩を落とす父の肩をぽん、と叩く。
「父上・・いいから、帰ろう。俺も一緒に行くから」

そんな落ち込んだ孫堅だったが、家に帰ってすぐに、孫策たちを呆れさせることになった。
周瑜の作った夕食が食卓せましと並んでいた。
「うわあ〜!すごいごちそう!」
孫朗はそう言い、孫翊は口をあんぐり開けたまま食卓を見ていた。
ピンクのエプロンをつけた周瑜はにっこりと笑って「さ、みんな手を洗ってきて」と言った。
孫堅と孫策は二人一緒に帰ってきて、孫権を安心させた。
「お帰りなさい。ご飯、できてますよ」
玄関に迎えに出たエプロン姿の周瑜を見て、孫堅は驚いた。
そして着替えを済ませるのに各々自室へ行き、ダイニングへと戻ってきた。
「美味そうだな」孫策は食卓にのぼっている料理の数々を見て感嘆した。
それぞれが自分の席について、皆で食事を始める。
孫家の食卓史上、尤もまっとうな夕飯だったかもしれない。
煮物、揚げ物、炒め物、和え物と皿が分けられていた。
コロッケやフライなどは山ほど皿に盛られ、野菜、肉と彩りも考えられた実に目にも美味しい食卓であった。
「公瑾は料理が上手いなあ」
孫堅も感心して言う。
彼の息子たちはまるで何日も絶食させられていた雛鳥のようにひたすら無口で食べ続けた。
周瑜はビールの栓を抜いて、孫堅と孫策のグラスに注いだ。
それですっかり舞い上がってしまったのか、孫堅は朝のことも忘れたかのように上機嫌になった。
「いや、いいなあ〜公瑾が嫁さんだったら毎日うちで飯を食うよ」
その言葉に孫権も孫策もカチン、と来た。
「母上が聞いたらまた怒りますよ」孫権は冷たく言った。
「そうだとも。だいたい公瑾は俺の嫁になるんだから父上は関係ないだろ」孫策もじろ、と横目で睨んだ。
「じゃあ、策、公瑾を俺に譲らんか?」
「馬鹿いってんじゃねえ!」孫策は父相手に強く言った。
「伯符さま、お食事中ですよ。そんなに大声をださないでください」
「すまん」
孫策は周瑜に叱られるとすぐに謝ってビールを呷った。
「父上、明日母上を迎えに行ってくださいね」
「権よ、今日父上は母上の実家にいって追い返されたそうだぞ」
孫策は父に代わって返事をした。
「では帰ってくれるまで毎日でも行ってくださいよ。周瑜さんだってそう毎日は来れないでしょうし」
孫堅は黙って、ううむ、と唸ったきり黙ってしまった。
黙々と食べていた孫翊が口にコロッケをほおばりながら
「公瑾さんが早く兄上と結婚してうちに住んでくれればいいのに」と言った。
孫策はそれを聞いて少しニヤニヤしたが、すぐに真面目な表情になって、
「翊、俺は結婚してもおまえ達と一緒に住むとは言ってないぞ。新婚なんだから同居したらやりにくいじゃないか」
と言った。
「ええ〜っ!そんなのひどい、兄上。公瑾さんを独り占めなんて!」
「あったりまえだろ。結婚したら俺のもんだ」
「うわ〜ん」
「伯符さま、子供相手に何言ってるんですか」周瑜が見るに見かねて釘を刺す。

やがて食事も終わり、食後のコーヒーを周瑜が煎れていると、孫策は父に向かって言う。
「とにかく、浮気がばれたんだからおとなしく謝るしかないだろ?母上だって早く帰ってきたいにきまってるんだから」
後かたづけを手伝っていた孫権と孫翊らはその会話にきき耳をたてて聞いていた。
「あれは浮気じゃないって・・・ジムに行って汗をかいたからシャワーを使っただけだって・・・」
「じゃあ、シャツの口紅は?」
孫権は今朝方母親からきいた証拠を確かめずにはいられなかった。
「あれは会社のエレベータで女の子が寄りかかってきたときのだな・・」
苦しい言い訳だな、とは思うが父なりに必死らしい。
孫堅は焦りながら周瑜が運んできたコーヒーをすする。
孫翊や孫匡らにはミルクティーを入れた。
そうして周瑜も席について一息いれ、ふいに口を開く。
「ねえ、会長。本当に浮気はしていらっしゃらないんですか?」
ストレートな質問に孫堅は驚いた。
その漆黒の双眸に見つめられると、孫堅はなんだか落ち着かなかった。
(い、いかん、息子の恋人にドキドキするなんて・・・)
気を取り直して「こほん」とひとつ咳払いをすると孫堅は言った。
「しておらん」
「なら、そのままのお気持ちを奥様にお伝えになればよろしいではありませんか」
「あいつは強情なんだ・・・」
孫堅がぽつりというと、その隣でコーヒーをミルクなしで飲んでいた孫権は冷たい口調で言った。
「浮気をしていなくてもそのような誤解を受けること自体、普段からの信用がないということではありませんか。母上を連れて戻るまで家には帰ってこないでください」
孫堅も孫策も周瑜も、一瞬冷たい風が食卓を吹き抜けるのを感じた。
「わかった・・・」
孫堅がさびしく返事をした。
 
 
 
 

(終)