彼女は呉都市内の高級マンションに住んでいる。
厳重なセキュリティが敷かれており、マンション内に入ろうとするときは壁のパネルに指をつける、いわゆる指紋照合セキュリティが採用されている。
「お帰りなさい、周瑜さん」
マンション入り口にはガードマンが立っており、周瑜に挨拶をする。
「ただいま、宋謙さん」
東呉商事の関連会社である東呉警備保障から派遣されてきているガードマンである。数ヶ月に一度人が変わっている。東呉商事のSPもここからの出向者が多い。
エレベータで10階まで上がる。
周瑜の部屋の前に、一人の少年が立っていた。
「あら・・・公績くん。どうしたの?」
凌統公績、隣に住む凌操の息子である。
東呉学園中等部に通う中学生であった。
3年前に母親を亡くしてからは父一人子一人の生活である。
そんな凌統を周瑜は結構気に掛けていて、たまに食事を作ってやったりしているのだった。
「周瑜さん、今度の日曜日、忙しい?」
公績は思い詰めた顔をしていた。
「いえ、別に今のところは・・・どうしたの?急に」
「日曜日、うちの中学体育祭なんだ」
「へえ、公績くんは何に出るの?」
「俺、100Mとリレーのアンカーなんだ」
「すごいね!公績くん、脚が速いんだ」
「・・・・うん!俺、今んとこガッコでも一番なんだ!・・・だけど、父さん、仕事でこれないんだ・・・」
周瑜は寂しそうな凌統を見て、ふと思い出した。
凌操は東呉商事の第二営業部の次長をしている。
たしか今度の日曜は会長や常務たちとゴルフだと言っていた。まあ、仕事といえなくもないが出世のためには断ることはできないだろう。
「わかった。じゃあ私がお弁当を作って応援に行ってあげる」
「本当!?」
凌統の顔が輝いた。
「ええ。公績くんの好きなタコさんウィンナーと海苔入りオムレツも作ってあげる」
「やった!絶対だよ!」
「ええ。指切りしようか」
周瑜は凌統と指切りして、別れた。
日曜に予定がないなんて我ながらさびしいな、と思うのだが急な仕事が入ることもよくあるために予定をあらかじめ入れないようにしているのも事実だ。
一人部屋に入ると、玄関の灯りが自動的につく。
時計を見ると8時。今日は少し早かったか。
鞄を置いて、着替えようとすると、電話が鳴った。
「はい、周瑜です・・」
「もう帰っていたのか」
電話の声は孫策だった。
「社長・・・ええ、今戻ってきました」
「食事に誘おうと思っていたんだが、急用が入って・・すまなかったな」
「いえ」
「埋め合わせと言ってはなんだが、今度の日曜に、どこかへ出かけないか」
今度の日曜・・・つい先ほど予定が入ったばかりだ。
「申し訳ありません、その日はちょっと予定がありまして」
「・・・なんだ、そうか・・・・」
電話の声も残念そうだ。
「じゃあ、その次は?あいているか?」
「はい」
「じゃあ、予約した。ではまた明日な」
そう言って切れた。
それで思い出した。
東呉学園中等部には孫策の弟の孫翊もいるではないか。
それに東呉学園の体育祭はたしか中等部と高等部合同だったはず。
ということは孫権もいるということになる。
凌統と敵どうしの組であれば非常に気まずいことになりはしないだろうか。
周瑜は少し考えたが、結局約束したことを守ろうと思い直した。
凌統の父・凌操が勤務する第二営業部は総勢10名の部署である。
となりあった第一営業部からはいつものようにガラの悪い怒声が聞こえてくる。
ムリもない、部長が甘寧では。
以前部長だった呂蒙は経営戦略室に異動になってしまったのだ。
あの頃は良かった。
呂蒙の人の良さで営業部同志も上手く行っていた。しかし・・・。
甘寧が部長になってから、たしかに成績は上がっていた。ほとんどその押しの強さで営業成績をトップにあげているのだ。
凌操は甘寧をジロリ、と睨みつけた。
「次長、どうしたんです?元気ないじゃないですか」
声をかけてきたのは部下の全jである。
「ああ・・・ま、いろいろとな」
凌操は深い溜息をついた。
凌操の第二営業部はいま、ホテルに納品されるグッズ一式を扱っている。ホテル業界最大手の劉表グループの傘下、黄祖リネンと激しい市場争いを繰り広げていた。
第一営業部の甘寧という男は実は黄祖リネンの親会社劉表グループからの転職者でもあったから、凌操は彼をよく思っていなかった。
それだけでも頭が痛いのに昨日、大事な一人息子の凌統と喧嘩してしまったのだ。
それも仕事のせいで。
そんなことをくよくよ思い悩んでいると、急に周りがそわそわし始めたことに気がついた。
まわりの部下たちが肘をこづきあってひそひそと話をし始めた。
「・・なんだ?」
「秘書の周瑜さんだ」
「おい!周瑜さんがきたぞ!しゃきっとしろ!」
「おお、俺のネクタイ曲がってないか?」
「鏡、鏡だれかもってない?」
現れたのは、社長の筆頭秘書、周瑜であった。
社長秘書が一人で営業部に現れること自体、珍しい。
いつも社長や専務たちと一緒で一般の社員と話をすることも少ない。高嶺の花なのだ。
それもあって、周瑜という人は社員の憧れの的でもあった。
ミニのタイトスカートからすんなりとのびた脚でもって凌操の傍まで歩いてきた。
淡いグリーンのスーツが目にまぶしい・・・。
「あっ・・・な、なにかご用でしょうか」
凌操はいささか緊張した面もちで立ち上がった。
「ちょっとこちらへ・・・少しお話があるんです」
凌操は、圧倒されながらも周瑜のあとについて廊下へ出ていった。
「な、なんだ!?周瑜さんが次長に話しって!?」
「まさか・・・凌操次長は独身だし・・」
「ええ!?うそだろ!」
そう、営業部は噂好きの集まりでもあった。
周りのうわさ話に花が咲いているころ、周瑜に呼び出された凌操は緊張しながら非常階段の入り口にたどり着いた。
「すみません、あそこでは少し話しづらかったもので」
「実は、今度の日曜日・・・・」
ここまでの話を興味津々で盗み聞きしていた者たちがいた。
営業部の若手たち、譚雄、李異たちである。
「今度の日曜、周瑜さんと次長がデートの約束してたって!?」
「そう!確かに聞こえたんだって!」
「まっさか〜〜!だって周瑜さんは社長とデキてるんじゃないのか?」
「わかんないぞ。ああみえて実は周瑜さん、年上好みだったりしてさ・・・」
全くもって無責任な噂だが、周瑜と別れたあとの凌操がやけに上機嫌で戻ってきたものだから、これはもう確信犯である。
当然だが、夕べ体育祭に行けないということで喧嘩した息子のことで、周瑜が行ってくれるということを聞いて凌操は安心したのである。
この噂は瞬く間に社内を飛び回った。
そして当然だが、社長である孫策の耳にも入ってきた。
この不愉快な噂に、孫策は周瑜を呼びつけた。
「お呼びでしょうか」
いつもと変わりのない周瑜に孫策は少しイライラした。
「あの、な。今度の日曜、約束があるっていっていただろう?約束って何だ?誰との約束なんだ?」
急にプライベートな質問をされて周瑜は驚いた。
「俺を断ってまでの大事な用っていうのを聞かせてくれないか」
孫策はあきらかに怒っている。
「・・・何を怒っていらっしゃるんですか・・・」
「とぼけるな」
「はあ?」
「俺以外の男と、デートするんだと聞いた」
「・・・・??」
まあ、デートと言えなくもないか、などとのんきに周瑜は考えていた。
しかし、孫策がなにか誤解しているようなので、ここは素直に言うことにした。
「デートというか・・・凌操さんの息子さんと約束しているんですよ」
「は?凌操の息子?あいつの息子ってたしかまだ中学生くらいだろ?」
孫策は豆鉄砲をくらったような顔になった。
「ええ、今度の日曜、東呉学園の体育祭なんですって。凌操さんが会長とのゴルフで行けないと言うから替わりに行ってあげると約束したんです」
「・・・・凌操とじゃ、ないのか・・」
事実を聞いても、孫策は納得したようには見えなかった。
「はあ?」
周瑜は驚いた。いつの間にそんなことになっていたのだろう?
「なんだってそんな約束になったんだ?」
「・・・・公績くんは私になついてくれているので・・・」
孫策はムッとした。
中学生だって男には変わりない。
「じゃあ、俺も行く!」
「ええ?どうして社長が行くんですか!・・・あっ、仲謀くんの応援ですか」
「は?」
孫策はそういえばこの前一家で集まったとき弟がそんなことを言っていたのを思い出した。
ということは母親も当然くる・・・たぶん、ものすごい弁当を持って。
「や、やっぱりやめにしとく・・・」
「おや、薄情な兄上ですこと」
周瑜は意地悪そうに言った。
「ともかく、変な噂が流れているようですけど、嘘ですからね!それに」
「は・・・」
周瑜の勢いに気おされた孫策であった。
「私がだれとデートしようと勝手でしょう」
そういって周瑜は「失礼します」と言って部屋を出て行ってしまった。
あわれな孫策は周瑜を怒らせてしまった事を後悔した。
「それは困る・・・まってくれ!公瑾〜〜!誰ともデートなんかするなよ〜!」
そしてその頃、営業部の凌操は甘寧から執拗なイジメを受けていた。
さっきから凌操にまとわりついてずっと話しかけられているのだった。
「なあ〜どうやって口説いたんだよ?教えてくれよ〜な?な?」
トイレに立っても、エレベータに乗っても、色々な人間が周瑜とのことを聞いてくる。
ようやく自分が社内中の人間に誤解されていることに気づいたのだった。
「こ、これは・・たまらん!」
凌操は最上階に行って周瑜の姿を探した。
そこでもやはり凌操を見てヒソヒソと話す声が聞こえる。
「あら、凌操さん」
「ああっ!周瑜さん!何とかしてください・・・なんだか変な噂が流れてしまっていて、困っているんです!」
「ああ、知っていますよ。いいではありませんか、言わせておけば」
「は?」
いつになくそっけない周瑜はそういって通りすぎて行ってしまった。
そのすぐ後ろから社長が慌てて出てきたのを凌操は見た。
「あっ、これは社長・・・」
「お、凌操か!息子に日曜の体育祭がんばれって伝えておけよな!おい、公瑾・・・」
孫策はそう言うと周瑜を追って行った。
「・・・・?」
二人を見送る凌操の前に呂蒙が現れた。
「なんだ、嘘だったんですね、やっぱり」
「は・・・」
「おかしいと思ったんですよね。だってあの周瑜さんが浮気するなんて考えられないですもん」
「は?浮気?一体なんのことですか?」
「あれ?もしかしてご存知ないんですか?社長と周瑜さんのことですよ」
「・・・・・」
凌操は凌操で、それなりにショックであった。
噂になったことが嫌ではなかったということに今やっと気づいたのであった。
凌操は何も言わずに踵を返した。
「あれ?ちょっと、凌操さん?」
呂蒙の声を無視して自分の持ち場に戻った。
あいかわらずそこには甘寧がいた。
しつこく同じ質問を繰り返すので、凌操甘寧の顔を見て、「ふふん」と笑った。
その笑みを見て、営業部の連中は次長の底知れぬ魅力を悟り、畏敬の念を持った。
「次長・・・ステキだ・・・」
営業部員は皆憧れの眼差しで凌操を見た。
凌操はしばらく会社中で「シブイおじさん」とあがめられることとなった。
しかしまもなくそれは単なる噂だったと社内中に広がるのであり、凌操の生活もまた元に戻るのであった。
(終)