大騒ぎの社員旅行・デート編



朝靄の中、一人南蛮ビーチの砂浜で捜し物をしている男の姿があった。
「くそ〜・・・策のヤツ、自分だけいい思いをしおって・・・父がこんなに大変な目に会っているというのに」
ブツブツと文句を言いながらも砂浜を探す。
孫堅文台、東呉商事の会長を務める男である。
息子の孫策は昨日の午前中、恋人の周瑜を連れて部屋に帰ってきてからずっと部屋から出てきていなかった。
孫堅は一昨日の晩、なにがあったのかは知らない。ただ息子が恋人と朝帰りしたという事実だけを確認しているので彼としては「自分だけいい思いをしやがって」ということになるのである。


「あなた」

ふいに背後から声を掛けられて、孫堅は心臓が口から飛び出るくらい驚いた。
ゆっくり顔を90度転回させると、そこには愛する妻が立っていた。
「朝食前の散歩なのかしら?」
「あ・・・ああ。まあそんなところだ・・はは」
大切な指輪を無くして探しているだなどとどうして口にできようか。
「だったら一人で出かけることはないでしょ」
妻は口を尖らせた。
「や・・・だって君はまだ寝ていたし・・・だな」
孫堅はふいに吹き付けてきた潮風に言葉を遮られた。
「きゃ・・・」
突風と言っても良かったその風は妻の髪を乱す。
孫堅は咄嗟に彼女の前に立って風よけの役目を果たした。
妻は突然現れた防風壁を見上げた。
「大丈夫かい?」
「え・・・ええ」
彼女の夫は日焼けした顔に白い歯が映える好漢である。
年を取ったと言ってもそういうところは昔とちっとも変わらない、と妻は思った。

さざ波だけが聞こえる。
だがその沈黙は気まずいものではなかった。
うち寄せる波が二人を日常から解放していたことだけは確かだったようだ。

「ねえ・・・あなた。覚えている?昔・・・銭塘の浜辺で」
孫堅はぎくっ、とした。
「あ・・・ああ、もちろん」
「はじめて、あなたが私に告白したのよね」
孫堅はまたまたぎくっ、とした。
銭塘。
初めて告白した場所。
そして−

無くした指輪。

孫堅は心の中で深いため息をついた。
想い出の指輪はまだ孫堅の指には戻っていない。
無くしてしまっただなどと言ったらどんなに妻は怒って泣くだろう。
あげくに離婚だなどと言い出されたら、などと良くない方向へ考えが及び、彼はどんどん沈んでいった。
今想い出を語ると墓穴を掘りかねない。
だからあえて孫堅は黙っていた。
そんな彼の心情はおかまいなしに、彼の妻は想い出に浸ろうとしていた。

「私、家族の反対を押し切って、あなたと長沙へ行ったのよね・・駆け落ち同然で」
妻の言うように、孫堅はその当時のことを思い出した。
あの当時、孫堅は一介の学生で、父親が受け継いだ先祖代々の資産を元に長沙で事業を興こそうとしていた。
そんなとき彼女と知り合い、すっかり夢中になって結婚の約束をしたのだが、彼女の家の猛烈な反対にあった。
彼女は身ひとつで孫堅についてきた。
はじめは小さな船舶会社を足掛かりに江南に流通を拡大し、貿易事業に乗り出してそれが成功、本拠を呉に移して東呉商事の基礎を作った。
事業の成功は妻の実家を黙らせることとなり、ようやく結婚を認められる事になったとき、妻は妊娠していた。
だから実は孫堅は自分たちの正式な結婚式というものを挙げていなかった。
だから、彼らの結婚指輪は貧しい時代に孫堅が二人で買ったそれしかなかったのだ。

妻は肩からかけていた薄いストールの両端を胸元で結んだ。
そして空いた両腕を孫堅の右腕に絡ませた。
「あの頃のあなた、とても貧乏だったわよね。まだ学生で、毎日バイトで忙しくて・・・それでも会いに来てくれて」
孫堅は珍しく妻がこういう行動に出たことに少々驚いていた。
いつもなら孫堅の方が妻の手を握ろうものなら「子供じゃあるまいし!」と、手厳しくつっぱねられていたものだ。
「・・・どうしたんだい?奥さん。なんだか今朝はいつもと違うね」
すると妻はにっこりと微笑んだ。
「あなたがあまりにも一生懸命だったから」
「・・・・は?」
「本当はね、こっぴどく怒って、平手の2,3発お見舞いしてやろうかと思ったのよ」
孫堅は背筋が寒くなった。
妻はニヤリと笑って自分のワンピースのポケットから何かを取り出して孫堅の目の前に掲げた。
「これ」
「あっ・・・・!!!」
その手にあるものは、孫堅がここ数日ずっと探していた目的のものに酷似していた。

「・・・あなたの指輪」

孫堅の目は大きく開き、それに釘付けになった。
「・・・な・・・な・・・!」
焦りのあまり口をぱくぱくさせてしまう。
動悸が激しくなって頭に血が上る。
「そ・・・それっ・・!」
「最初の夜にここへ来たとき、あなた落としたことにまったく気付いていなかったのよ。いったいいつ気付くのかと思って黙っていたの」
「き、君が拾ってくれてたのか・・・!!」
安堵するやらなにやら複雑な気持ちでイッパイだった。
「あなたにとってこれがどの程度の価値のものなのか試させて貰ったの」
「・・・お、奥さん・・・い、いじわるだなあ・・・」
孫堅が苦笑いしていると、妻はチラリ、と彼を見た。
「無くしてもどうってことないって顔していたから、私ね・・・本当は哀しかったわ。もう、私を愛していないんじゃないのかしら、って」
「そ、そんなことあるはずないじゃないか!俺は今も昔も変わらず君を愛してる!!」
「ええ・・・あなたは私に内緒でここでずっと探していたんですものね」
「・・・・知っていたのか・・・」
「当然よ。何年あなたの妻をやっていると思っているの?」
孫堅は頭を掻いた。
「君には敵わないなあ」
妻は持っていた指輪を自分のポケットにしまい込んだ。
「・・返してくれないのか?」
「・・だってもうこれあなたの指に合わないのではなくて?」
「・・・・」
「これは記念にしまっておきましょう。もう落としたりしないように。特注のケースを作らせるわ」
「・・・じゃあ、新しい指輪を買いに行くかい?」
「・・・南蛮で?」
「象牙のリングでも作るか?」
夫の提案は妻を黙らせた。
「・・・あなた。印鑑作るんじゃないんだから・・・。やっぱりダイヤモンドの指輪がいいわねえ」
「そうかなあ、象牙の指輪なんかカッコイイと思うけどなあ。それで指輪のトップに君へのメッセージを入れようとか考えていたのに」
「なんて?」
「一生涯君だけを愛す。孫堅文台」
「・・・嬉しいけどそれじゃあ本当に印鑑になってしまうわね。玉璽でも作るつもり?だいたいふつうはイニシャルでKtoGとかくらいしか入れないものよ?」
「だってちゃんと書かないとわからないじゃないか・・・!」
孫堅がどこまで本気だったのかわからないが、あきらかに少しがっかりした様子だった。
呉夫人はクス、と笑って夫に身を寄せた。
「そういうことは書くのではなくて、ちゃんと口で言うのよ」
妻にそう言われて孫堅は少し照れたようだった。
「呉へ帰ったら注文しましょう。新しい結婚指輪を」
こんなふうに、普通の恋人同士のような会話を交わすのは久しぶりだった。
孫堅にはそれが嬉しくて仕方がなかった。
「・・・ねえ、奥さん。もう少し浜辺を歩いてみない?」
「いいわよ」
腕を組んだまま、二人はまだ早朝の浜辺をゆっくりと歩いていた。


その様子をホテルの部屋の窓からこっそりと見ているやや小さな人影がふたつ、あった。
孫権と孫翊である。
「母上たち、デートしてるね、権兄」
「そっとしておこうよ。久々なんだし」
「ああやってみると父上もまんざらでもないね」
「翊、父上はカッコイイんだよ」
「でも時々かっこわるいよ。母上に弱いし」
「女の方が強い方がうまく行くってこともあるんじゃないか?」
「じゃあ権兄はあんなふうに尻にしかれたいわけ?」
「僕は嫌だよ」
「説得力ないなあ」
「僕は別に一人の人に決めなくてもいいと思ってるし」
「ええっ!?権兄って博愛主義!?」
「一人の人に決めるのなんて難しいし、残った人が可哀想じゃない?」
「う〜〜ん・・・」
孫翊は腕を組んで悩んだ。
「権兄の言い分にも一理あるような気もするけどそれってなにか違うような気がする・・・」
「いいだろ。ひとそれぞれなんだから。だってさ、周瑜さんみたいな人が10人いたら、一人に決められる?」
「たしかに・・・」
孫翊が眉間に皺を寄せて悩んだ。
「でもだからって10人と結婚するわけにはいかないだろ?どうするんだい?」
「一人が正妻であとは愛人ってことになるのかなあ」
「コドモが一番最初にできた人と結婚するの?」
「僕はね、翊。できちゃった結婚は絶対嫌なんだ。けじめっていうもの、ちゃんとしないとね」
「ケジメってさ、10人とつきあっててつけられるもんなの?」
「そこが難しいところなわけだよ。じゃんけんさせるわけにもいかないし」
根はやっぱり子供なのである。
だがそれ故に残酷な発言がぽんぽんと飛び出す。
彼らの両親が聞いたらおそらく将来を本気で心配するであろうこの兄弟の会話は、夫婦が戻ってくるまで続けられたのだった。




(終)