孫家の三男・孫翊は学校でも評判の暴れん坊だった。
暴れん坊といえば長男の孫策もそうだったが、孫翊の場合は悪戯が過ぎるのである。
今は中学生だが成績はあまりよろしくない。
次男の孫権が優等生なだけに、余計に目立つのだ。
そしてついに学校から呼び出しを食らった。
「叔弼には家庭教師をつけることにしたわ」
「はあ?」
孫翊は首をかしげた。
「んなもん、いらないよ」
「駄目よ。あんた成績あと100番くらいあげなさいね。いまのままじゃ高等部にだって入れてもらえないわよ」
「え〜!なんか学校に寄付とかして、うまく入れるんじゃ・・?」
「馬鹿ね。そんなことしたら裏口入学でつかまっちゃうわよ」
「そこをうまくなんとか」
「いいからあんたは勉強しなさい」
母親にきつくそう言われたが、孫翊は納得していなかった。
最初に来た男の大学生の家庭教師は3日で辞めた。
次に来た体育会系の家庭教師は1日、その次は女子大生で半日で辞めた。
どれも孫翊の悪戯のせいである。
「・・・・・」
呉夫人は腕を組んで溜息をついた。
「叔弼。どういうことなの」
「だってさ、母上。あいつらだらしがないんですよ」
孫翊の言い分はこうだ。
最初の痩せた大学生は真面目だった。
孫翊のほとんど暴力と言っていいあばれっぷりにも立ち向かう勇気を見せていた。
ところが、この大学生は貧乏で家庭教師先で出される食事が目当てだったのだが、それをするどく見抜いた孫翊はその家庭教師に出された一切の食べ物をことごとく「俺腹減ってるんだ」と言って食べ尽くしてしまった。
真面目で気が弱い彼はそのことを母親にも言えなかった。
そうして腹を空かせている大学生の前でうまいものをたらふく食べてみせる孫翊に耐えきれず3日目に辞めた。
二番目に来た大学生は体育会系の元気のいい男だった。
孫翊はこの男をテッテー的に無視した。
彼が、どうしたらちゃんと勉強してくれるのか?と尋ねたところ、言うことを聞いてくれたら、という条件を出した。
孫翊の言うこと、とは大学生を壁沿いに立たせて、ダーツの的にすることだった。
孫翊が持っていたのは本物の針のついたダーツ。
彼は大学生の身体スレスレにダーツを付きたて続けた。
「これ、毎日やらせてくれたら少しは勉強してやってもいいよ」
大学生は硬直していた。
次の日、体育会系の学生は来なかった。
三番目は茶髪の女子大生だった。
今風のヘアスタイルとファッションだった。
スタイルはそれなりにいい。
孫翊は勉強するふりをして、彼女の着ている粗い目のニットの裾にほつれを見つけた。
それをそっとつまんで引っ張るとするすると糸がほどけてきた。
孫翊はそれを机の下でずっと引っ張っていた。
彼女の言うことを聞いているフリをして孫翊は彼女に、「ちょっと休憩しようよ」と言った。
女子大生は「そうね」と言って立ち上がった。
「きゃーーっ!」
当然の悲鳴。
彼女の着ていたニットが胸元までほつれて下着が丸出し状態になっていたからだ。
女子大生は泣いて孫翊の部屋から出ていった。
入れ替わりに母親がものすごい剣幕で入ってきた。
それは当たり前であろう。
仮にも女性であるし、子供とはいえ孫翊は中学生なのだ。
孫翊にとって彼女はまったくそんな対象ではなかったのだが。
こっぴどく叱られたが、これでもう家庭教師をつけるだなんていうことも諦めるだろう、と思っていた
だが、母はあきらめなかった。
「徐と言います」
やってきたのは大学一年の女性だった。
背中までの綺麗な黒髪に白い肌が栄える。
兄の婚約者ほど美人ではないが、お茶でも点てていそうな清楚な感じだ。
柄にもなく、孫翊は少しはにかんで、
(ちょっと好みかな)などと思っていた。
だが、生来勉強嫌いな彼にとって家庭教師なんかお断りなのだ。
今度はどうやって苛めてやろうか、などと画策していると、机の前に座った途端彼女は自分の鞄の中から爪切りを取り出した。
「・・・?」
不思議に思っていると、
「叔弼くん、手出して」
と言うので、それに従った。
すると彼女は突然孫翊の伸びていた爪を切り始めた。
「な・・な・・な!」
思いがけない出来事に、彼は飛び上がって驚いた。
「じっとして。深爪したら大変でしょう?」
有無を言わせぬこの言動に孫翊はおとなしくなってしまった。
(・・・な、なんだこの女。変なヤツ)
爪を切りおわったところで彼女は参考書と教科書を取り出した。
「爪が伸びてると気持ち悪いでしょ?」
徐はにっこり笑って言った。
「ねえ、叔弼くんは勉強嫌いなんだね」
「嫌いだね!」
「どうして?」
「嫌いだから嫌いなんだよ」
「ふうん。それで家庭教師も追い出しちゃうのか」
「・・そうだよ。だからあんたも帰んなよ」
「ふうん」
徐は机の上に出した教科書と参考書を鞄のなかにしまった。
(・・・あれ。ほんとに帰っちゃうのかな・・?)
らしくなく、孫翊は内心ゆらゆらと揺れていた。
「じゃあ、今日は勉強よそうか。何する?」
「何って・・・・」
「叔弼くんが決めてよ」
「き、決めてって勝手にそんなこと」
「だって勉強嫌いなんでしょ?私は勉強を教えにきたんだけど、嫌いなら他のことするしかないじゃない」
「・・・・」
(やっぱ変なヤツ・・・)
彼は戸惑いを隠せなかった。
だいたい年上の女と二人だけになることなんて、母親以外にはなかったからだ。
「・・・・・」
「どうしたの?」
「べ、べつに」
徐はくす、と笑った。
「悪戯しないの?」
「ガキ扱いすんな!」
孫翊は大声を出した。
「そう。ごめんね」
彼女は素直に謝った。
それが孫翊にとっては拍子抜けになる。
どう対処していいのか、わからない。
「か、帰るんじゃなかったのかよ」
「クビになると私、困るのよ。学費稼がないといけないから」
「あんたんち、貧乏なの?」
「叔弼くんちに比べたら皆貧乏ね」
「俺は関係ないもん」
「関係なくないでしょ。大きくなったらお兄さんの手伝いしなくちゃいけないんじゃないの?」
「さあ。わかんない。権兄がいるから大丈夫だろ」
「叔弼くんは何がしたいの?」
「・・・昼寝」
「くすっ・・じゃあ寝れば?いくらでも。その間に皆が大人になってっちゃうけどね」
(くそう・・・)
「で?」
「で?って?」
「どうするの?」
「・・・あんたが考えなよ。先生だろ」
徐はまた笑った。
「私のこと、先生って認めてくれるんだ?」
「く・・・・」
「じゃあね、歴史上の人物しりとりしようか」
「はあ?」
「じゃあ私からいくね。前田利家。え、だよ」
「え・・・エリザベス女王」
「・・・ブー。答えは正確にね。エリザベスなんていう名前の女王は一人じゃないのよ」
「えー。じゃあ・・・エリザベス・・・1世?」
「まあ、いいわ。じゃあ「い」ね?殷の紂王」
「誰?それ」
「勉強しなさい」
徐はにっこり笑って言った。
孫翊はムッとして立ち上がった。
「こんなのつまんねえ!」
「じゃあ何だったら楽しいの?」
「・・・ゲーム」
「ゲーム?なあに?」
「格闘ゲー。できんの?」
「いいわよ。やりましょう」
孫翊は部屋の中のTVの前に座って、ゲーム機の電源を入れる。
徐にコントローラを渡して、簡単に説明する。
「わかったわ」
「よおし、手加減はしないぞ!」
二人はコントローラを握って真剣にゲームに打ち込んだ。
「・・・・・」
「ねえねえ、叔弼くん、この「諸葛亮」ってキャラおかしいね〜ど〜してビームでるの?」
どうやらやっているのは「三国無双」らしい。
徐は楽しそうにはしゃいでいた。
全戦全敗。
「・・・・・おもしろくねえ!」
「ん?」
孫翊はコントローラーを投げ捨てた。
「もうやめちゃうの?」
徐が悪びれない口調で言うと、孫翊は口をヘの字に曲げたまま押し黙った。
「・・・・」
「叔弼くんは負けず嫌いなんだね」
徐は笑った。
白い歯が印象的だった。
彼女は腕時計を見て、立ち上がった。
「そろそろ時間だわ。私そろそろ帰るね」
「え・・・もう?」
孫翊は彼女を見上げた。
彼には珍しく少し寂しげな顔をした。
徐はにっこりと微笑んで孫翊を見下ろした。
「・・・明日はちゃんと勉強してくれる?」
「・・・・・かんがえとく」
「そう。じゃあ明日も来るね」
徐は黒髪を耳にかけながらまぶしい笑顔を見せた。
「・・・なあ徐先生」
「ん?」
「先生さあ、お菓子とか作れる?」
「作れるわよ」
「・・・・・・先生の手作りのお菓子が美味かったら勉強してやる」
「わかったわ。約束よ」
そして次の日、徐は籠いっぱいのマフィンを焼いて持ってきた。
「すげーすげーすげー!」
チョコの入ったもの、抹茶味のもの、バナナが入ったものなどいろいろなマフィンがあって、孫翊はそれらを片っ端から平らげていった。
それを徐は笑ってみていた。
「気持ちいい食べっぷりね」
「うん、うめーよ、先生!マジうま!激うま!」
「食べ物に釣られてもいいから、ちょっとは勉強してよね」
「うん、するする」
「今度から成績が上がったときにだけ、作ってきてあげる」
「えーーー」
「そうしないと有難みがないでしょ?」
こうして彼女は孫翊の信頼を勝ち得たのだった。
彼女は周瑜に勝るとも劣らないほどのお菓子作りの名人だったのだ。
孫翊の食い意地がそこまではっていたのか、と思わせるほど、彼の成績はみるみる上がっていった。
徐はお菓子と勉強とを見事にアメとムチに使い分けていたのだった。
それを母である呉夫人は笑顔で見守っていた。
そんなある日、孫翊は母親に言った。
「ねえ、母上。俺いくつになったらケッコンできるんだっけ?」
「あんたいま14でしょ。あと4年ね」
「あと4年かあ・・・まっててくれるかなあ。先生」
「・・・・何言ってるの、あんたまだ子供でしょ」
「だって、徐先生、美人だし、はやく嫁にもらわないと俺不利だもん!」
しかし母はあきれるばっかりで本気にしていなかった。
「それじゃあ今からプロポーズしておけば?」
「プ、プロポーズ!?それ、どうやってするのかおしえてください、母上!」
息子は丁寧に母親に向かって頭を下げた。
「・・・・まさか本気じゃないでしょうね?」
呉夫人は冷ややかな目で息子を見た。
「もちろん本気!」
孫翊はいたって真面目だった。
「・・・・あんたもやっぱりあの策の弟だわね・・・」
母は深い溜息をついた。
どちらも自分の子なのだが。
息子のキラキラした瞳を見て、どう説明したものか頭を悩ませる母であった。
(終)