私と俺(下)
「はー、食った食った」
周瑜が顔に似合わぬ言葉を吐くので、陸遜はそれを咎めた。
「先輩、止めてくださいよ、それ」
「ああ、悪い…。っていうか、女の人の体ってやっぱそんな食えないんだな。おまえの言うとおり、大盛りにしなくて正解だったよ」
「当たり前でしょう…先輩のせいで周瑜さんが太ったりしたらどう責任とるんですか」
「なんか周瑜さんてあんまダイエットとかしてなさそうだから平気かと…」
「僕らにはわからない努力だってあるかもしれないじゃないですか」
「そうだなぁ。あと昼食後に化粧直しするって言われてたんだっけか」
「…先輩、なんだか嬉しそうですね」
「あー、いや、なんか初めて化粧してもらったから…」
「癖になったりしないでくださいよ」
「は、はは、は…」
その乾いた笑いを不快に思う陸遜であった。
周瑜と別れて企画室に戻った陸遜は、トイレに立ったとき他の社員から話しかけられた。
「なあ、おまえ、社長秘書の周瑜さんとつきあってんの?」
「ええっ?」
「なんか昨日からずっと一緒だしさ。今日だって昼一緒に牛丼屋に行ってたって聞いたぞ」
「い、いや、たまたまですよ。それに周瑜さんは社長の婚約者ですよ?僕なんか相手にされるわけないじゃないですか」
「そっか、そうだよな。はは、悪かったな」
(ま、マズイ…。もう社内でそんな噂になってんのか…。やっぱ牛丼屋はマズかったかな…?あとで周瑜さんに謝っとかなきゃ)
一方、中身周瑜の呂蒙は、孫策と近所のレストランでランチを摂ったあと、会社に戻ってきていた。
こちらは周瑜が注意深く行動したおかげで、特に誰に見咎められることもなかったようである。
秘書室の周瑜の部屋に行くと、陸遜と自分の姿があった。
中身周瑜は、中身呂蒙に化粧直しをし始めようとして、気づいたことがあった。
「呂蒙くん、歯磨いてないでしょ」
「え?あ、はい」
「今すぐ磨いてきて」
中身周瑜の呂蒙は机の引き出しから歯みがきセットを出して周瑜に渡した。
中身呂蒙の周瑜は歯磨きセットを手に席を立っていった。
二人きりになったので、陸遜は牛丼屋に行ったことを報告し、謝った。
「あら、そんなことで謝ることなんかないのに」
「で、でも、周瑜さんが牛丼屋なんて…」
「今度元に戻ったら私も連れて行ってほしいわ」
「…は、はい」
陸遜はやっぱりこの人こそが周瑜なのだと改めて思った。
「そのこともあって、なんだかおかしな噂もでているようで」
「おかしな噂って…私と陸遜くんがつきあっているとか?」
「ええ」
「それも仕方ないわね。社長命令なんだし、気にしなくてもいいんじゃない?」
「…そ、そうですか?」
「元に戻ればすぐ消える噂だと思うから」
「…」
なんとなく、複雑な気持ちであった。陸遜にはそれが残念なような、勿体ないような気がしたからだ。
午後からは孫策が外出するとのことで、周瑜は呂蒙の姿のまま一緒に行くわけにはいかず、留守番するはめになった。
社長室勤務の呂蒙は、社長がいない間は暇だった。
同じ部屋にいる二喬にまさか中身が周瑜である、というわけにもいかず、秘書室で仕事をするわけにはいかなかったからだ。
で、結局孫策が不在の間、せっかく男になったわけだし、と力仕事をしようかと思い立った。
ふと、小喬の机の脇に置いてある段ボールに目がいった。
「あ、その荷物なんですか?」
「あーそれ!工事の業者に頼まれたんだった!」
「どこに運ぶんです?」
「21階の倉庫…」
「じゃ、わた…いや俺が運んでおきますよ」
「ほんと?」
「ええ」
呂蒙は段ボールをよっ、と持ち上げた。
(おっと…結構重いよね、これ。さすが男の人の力ってすごいのねえ…!)
周瑜は今更ながら自分が男の体なのだと実感した。
「わ〜呂蒙さん、助かります!それ重いのに…さすがですね!」大喬は手を叩いて喜んだ。
「じゃ、ちょっと行ってきます」
呂蒙は箱を持って部屋を出て行った。
後に残った二喬は顔を見合わせて言った。
「ねえ…なんか今日の呂蒙さんてカッコイイよね〜」
「うんうん、なんかいつものオマヌケな軽さがないっていうか…」
本人が聞いたら『そんな〜』とか言いだしそうなことを二人は笑顔で言った。
段ボール箱を抱えた中身周瑜の呂蒙は廊下まで出て、ちゃんとエレベーターが動いていることを確認した。
「よかった、さすがに荷物抱えて21階まで階段降りるのはしんどいもんね」
しばらく待って、エレベーターが来たので乗り込み、21階で降りる。
21階は倉庫と休憩室、社員食堂などがあるので、朝でもそこそこ人がいる。
「えっと、倉庫…と」
倉庫の扉を開けて中に入ると、社長室用の棚を探した。
「奥か…」
倉庫の一番奥まで行くと、壁越しになにか聞こえる。
「…?この奥に部屋なんかあったかしら?」
荷物を棚に置いて、壁に耳を充てる。
人の声のようなものが聞こえる。
「なんて言ってるのかな…?」
もう少しよく聞こうと、壁に体重をかけた時だった。
「…!?」
壁がくるり、と回転して、中身周瑜の呂蒙の体は壁の向こう側へと吸い込まれた。
「…あっととと!」
壁の向こうには部屋があった。
「なにここ…?」
部屋中に蓋の開いた段ボールが置いてあり、中にはなにやらよくわからないガラクタのようなものが入っていた。
まわりをきょろきょろすると、部屋の奥に人影が見えた。
「あの…」
周瑜が声をかけると、その人物が振り向いた。
「ん?」
年齢はよくわからないが老齢といっていい年齢だろう。白髪に白い鬚をたくわえ、分厚いレンズの丸メガネをかけ、一昔前の科学者かマッドサイエンティスト、といった風貌だった。
その人物の前にはモニターが3台となにやらスイッチとかレーダーのようなものがたくさんついた怪しげな機械があった。
「あの、あなた、どなたです?」
「ありゃ、見つかってしまったか!」
「ここでなにをしているんです?」
白髪の老人は呂蒙の顔をじっとみた。
「お!あんたは…なんかどっかで見た顔じゃの?被験者かね?」
「…被験者…?」周瑜はハッ、と思い至った。
この声。
あの時エレベーターで聞いた声に似ている。
「まさか、あなた…!昨日エレベーターで!」
「やっぱりそうか。どうじゃな?なんか変化あったかね?」
「変化ですって?どうやったか知りませんけど、こっちは中身が入れ替わって大変なんですよ!」
「ほう!やっぱり実験は成功しとったようじゃな!カッカッカ!こりゃ愉快!」
「実験ってなんです?だいたい、あなた誰なんですか?」
「そういっぺんになんでも質問するでない。答えられんじゃろ?」
老人は平然としてそう言った。
「儂は左慈。左慈元放という。世の中の不可思議なことを科学的に証明してみせている科学者じゃ」
「左慈…さん?」
周瑜はその名を聞いたことがあった。
たしか、何年か前になにかの発明をしたといって北魏に売り込み、結局それが偽物とわかって社長に詐欺で訴えられたのではなかったか。
「その左慈さんがこんなところで何をしていたんです?」
「人の魂を移す実験じゃ」
「人の魂…?」
「おまえさんが今身を持って体験してることじゃい!」
「そんな恐ろしい実験は今すぐやめてください」
「恐ろしい?楽しいの間違いじゃろう?」
「いいえ、人の体を乗っ取ってしまうんですよ?これを会社や国のトップにやったらどうなると思っているんです。やり方一つで戦争がおきたり犯罪が起きたりするんですよ!これが恐ろしいことでなくてなんだというんです?」
「ふ〜む、そういやそうじゃの。すまん、儂ゃ、ギャルの体に乗り移っていろいろ楽しいことができるな〜くらいにしか考えとらんかったわい」
「…」周瑜はじろ、と左慈を睨みつけた。
とんでもないエロじじいだ。
「そ、そんなに睨まんでもいいじゃないか」
「どうやったら元にもどるんです?」
「あ?ああ、人の魂にはちゃんとその肉体に紐がついとるんでな。一緒にいればそのうち元にもどるよ」
「一緒にいないとダメなんですか?」
「もちろんじゃ。あんまりずっと離れていると魂の紐が切れて本当に戻れんようになるからの」
「そのうちって、どのくらいですか?」
「人によるかの。3、4日くらいじゃろうて」
「3日…」
「もうちょっと早くならないんですか…」
「それなら簡単じゃ。もっかいあの箱に乗ればいいんじゃ」
「エレベーター…ですか」
「そうそう、おまえさんが押したあのボタンでカメラが中の人間を認識し、作動装置を儂がここで動かしとった。どーせあと数日で取り外されてしまうもんだったからちっと実験でもさせてもらっちゃおうかな〜と思って」
ジジイのくせにてへっ☆と舌を出す。
周瑜は呆れた。
なんといういい加減な科学者だ。
「じゃあ、今すぐ戻してください!今から乗ってボタン押しますから!そしたら作動させてくださいね!」
「え〜!せっかく成功したのに」
「こっちはいい迷惑なんですよ!」
「ふぅ〜む、そうか、あんたの方はそんなむさ苦しい体じゃ面白くないわなぁ…そうかそうか、もちっと研究してみんといかんの…」
エロジジイ、もとい左慈はぶつぶつ呟いた。
「ともかく!やってください!でないと今ここで生きてることを後悔させますよ…?」
中身周瑜の呂蒙はすごみをきかせて左慈を睨みつけた。
「ひぃっ!わ。わかった…」
周瑜はそう言って部屋を出た。
「呂蒙くん、どこへ行ったかな…」
周瑜は38階に戻って呂蒙を探したがいなかった。
周瑜本人は携帯電話をバッグに入れたままにしていたので、一緒にいるはずの陸遜の携帯にかけてみることにした。
果たして本人が出た。
「えっ?ほんとですか?わ、わかりました!エレベーターに乗ればいいんですね!」
電話を受けた陸遜は周瑜からの連絡を受けて、呂蒙にエレベーターに乗るよう指示した。
5階からエレベーターに乗った中身呂蒙の周瑜は、エレベーターの壁にだらしなくもたれかかった。
そうしていると、10階で甘寧が乗ってきた。
「あ…周瑜さん」
「あ、興覇…っと、甘寧…さん、さっきはど、どうも」
さっ、と壁から立ち上がり、それらしく振る舞った。
「…?」
やはりおかしい、と思いながら周瑜がいる後ろを見ないようにドアの方を向いて立った。
13階で営業部員が乗ってきて、入れ替わり立ち替わり人が乗り降りする。
甘寧は20階で降りて行った。
ようやく38階についたところでドアが開くと呂蒙の姿があった。
「あ、周瑜さん…よかった」
「犯人をつきとめましたよ」
「ほ、本当ですか!?で、元に戻れるんですか?」
「ええ。ここで二人きりになったらボタンを押せばいいの」
そうして呂蒙がボタンを押す気まんまんで準備していたところ、エレベーターが閉まる直前に魯粛がすべりこんできた。
これではボタンを押すに押せない。
3人は無言のままエレベーターは下降する。
魯粛が30階で降りてまた再び入れ替わり立ち替わり人が出入りする。
呂蒙と周瑜は顔を見合わせた。
仕方がない、このエレベーター一基しか動いていないのだ。
なかなか二人きりになる機会がなく、延々とエレベーター内を往復する呂蒙と周瑜であった。
20階で再び甘寧が乗ってきた。
「…あれ。なんか今日はよく会いますね」
中身呂蒙の周瑜は多少表情をひきつらせながら、「そ、そうね」と同意した。
甘寧はエレベーターの入口のボタンの近くに立っていた。
5階で孫香が乗ってきた。
「…あ、部長」
「よう」
「これからお出かけですか?」
「ああ」
「私も銀行までお使いです」
「そっか。コケないよう気をつけるんだぞ」
「はい」
そんな二人を見て、呂蒙と周瑜は思わず微笑んだ。
なんだかいい雰囲気だ。
ところが、この4名を乗せたエレベーターは1階に着く直前で止まってしまった。
周瑜と呂蒙は顔を見合わせた。
嫌な予感がする。
「ありゃ…なんだよ、止まっちまったぜ?これだから仮設はよ…しゃーねーなあ」
文句を言いながら甘寧は躊躇なく例のボタンを押そうとした。
それを見て呂蒙と周瑜は慌てた。
「ちょっとまって!!」
「おい、ちょっと待て!それ押すなーっ!」
二人の叫びも虚しく、甘寧は青いボタンを押した。
するとスピーカーから例のジジイの声が聞こえた。
「なんじゃ、あんまり遅いから強制的に止めてやったのに、4人も乗っとるのか。まあいいか、それじゃあいくぞい」
「ん?何だ?」
エレベーターはあのときと同じように、ガクン、と揺れて再び動き出した。
「わわ!」
「きゃあっ!」
甘寧は思わず悲鳴をあげる孫香を抱き止めた。
呂蒙も、反射的に周瑜(外見は自分だが)を庇うようにして壁に手をついた。
そしてすぐに一階で止まった。
「痛っ…だ、大丈夫ですか?周瑜さん…」
「ええ…」
「あ」
声を出してわかった。
「やった!戻った!!」
呂蒙は自分の手や体、顔を触り、それを確認した。
「よ、よかった…!!」
周瑜も自らを確認して、ほっとした。
「よかった…元に戻って」
「あ…」
そしてハッとして前の二人を見た。
甘寧が壁に手をついて孫香を守っているように見えた。
「一体なんだったんだ…おい大丈夫か?」
「はい。部長がかばってくださったから…」
周瑜と呂蒙の目が丸くなる。
あきらかに声の主と言葉が一致しない。
「ちょうどつきましたね」
「じゃあ、気をつけて行ってこいよ」
「部長も」
気づいていない。
お互いの言葉と声が逆になっていることに。
二人はそのままエレベーターから降り立った。
「あ…」
二人を止めようとした周瑜と呂蒙は一階で乗ってきた大勢の人に押され、降りられなかった。
「ああ…こんどはあの二人が…」
お互いが入れ替わっていることにも気づかず、そのまま歩いていく甘寧と孫香の後ろ姿を、周瑜と呂蒙は閉まっていくエレベーターの扉の隙間から見送るしかなかった。
電車に乗る前に甘寧は自分の姿が孫香になっていることに気づいた。
なにせ、カバンを持っていないので電車のパスカードもないのだ。
どうりで歩きづらいはずだ。
スカートに女物の靴を履いてるのだ。
驚いて会社に戻ると、同じように甘寧の姿の孫香も戻ってきて、会社の一階でばったり会った。
「…俺が歩いてる」
「私って…こんな感じなんですね…!」
二人ともお互いの姿を認識した。
なんでこうなっているのか、さっぱりわからなかったのだが、不思議に混乱はしていない。
そこへ、やっとこさエレベーターから降りてきた周瑜と呂蒙がやってきて、二人に事情を説明した。
二人は最初こそびっくりしたが、昨日今日と、周瑜のおかしな姿を目撃しているためか、すぐに納得した。
そしてなんと、自然にもどるまでこのままでいい、と言い出した。
「だっておもしろそうじゃねーか?なあ?」姿は孫香なのにいつもの甘寧のしゃべり方だった。
「うふふ、私も部長になってみたいです」甘寧も、いつもの彼らしくなくおとなしやかだった。
「お?んじゃあそれらしく振る舞ってみろよ」
「お、おう!うろうろしてんじゃねーぞ!…こ、こんな感じですかー?」
「ははは!いいぞいいぞ。んじゃ俺…いやアタシ?アタシもがんばるわー!男ひっかけてもいい?」
「えー!ダメですよぉ!私には部長がいるのに!」
「あ〜、そっか…へんな評判たったらおまえが辛いもんなあ」
「そうですよ!私だって部長の姿で女の子ナンパしたりして、元に戻った後でその子と揉めるの嫌です…」
「それは俺も嫌だな。わかった、そういうのはナシにしよう!」
「…」
「…」
二人のやりとりをしばらく無言で見ていたが、
心配したのが馬鹿らしくなって、呂蒙と周瑜はそのまま踵を返した。
「…やっぱ恋人同士って、すごいですね」
「…そうね」
「全然気にしてませんでしたね」
「…むしろ楽しんでいたようね」
ふと思っていたことを呂蒙は口にした。
「…周瑜さんも社長とだったら良かったですね」
「そう?私は嫌だわ」
「え?そうですか?」
「ええ。だって恥ずかしいもの」
「…そ、そうですよね。はは、は」
(ふ、複雑だ…俺なら恥ずかしくないんだ…)
周瑜が元に戻ったと聞いて、孫策は心から喜んだ。
そして力の限り抱きしめたことは言うまでもない。
陸遜も、呂蒙がやっと元に戻ってくれてほっとしたやらなんやらで疲れがどっとでたようで、翌日熱を出して休んでしまった。
見舞いに行った呂蒙に、陸遜はそっと呟いた。
「こんなんで倒れちゃうなんて…僕もまだまだ、ってことですね。すいません、先輩や周瑜さんの方がずっと大変だったのに」
「いや、おまえがいてくれなかったら俺、パニックになってたよ。ありがとな」
「いえ…」
「ああ、そういえば周瑜さんから伝言。元気になったら牛丼屋に連れてってくれ、ってさ」
沈みがちだった陸遜の表情が、ぱっと晴れた。
ところで工事中の社内に勝手に入り込んでいたエロジジイ…もとい左慈はどうしたかというと、周瑜と呂蒙が21階の倉庫の奥に戻った時にはもぬけのからであった。
報告を受けた孫策が八方手を尽くして調べたのだが、足取りはつかめなかった。
(了)