「月姫」は遠野家裏ルート、「Fate」はご都合エンドだと思ってください。士郎は基本的に誰とも結ばれてないです。
 
 












『TRAPICHE』



 
 
 

Written by “虎空王"

 
 
 
 
 
 
 
 

 ほんの少しだけ色がついたと思えるような透明な液体がグラスの中で揺れる。
 夜と思える時間、微かな明かりの中にあってそれは確かな輝きを放っていた。

「ふむ、なかなかよい葡萄酒よな。そなたが選んだだけのことはあるということか」
「ありがとうございます」

 庭に置かれた丸いテーブルと椅子。
 そこに腰掛けてワインを楽しむ真っ白なドレスに身を包んだ女性。
 そしてその傍にひかえる執事のような格好をした男性。

「どちらかといえば万人受けする類の銘柄よの。だがこの爽やかさは心地よい」

 その言葉とともに彼女はグラスをテーブルに置いた。
 そして浮かべた満足げな表情は彼女を知る者からすればとても信じられないものであるに違いない。
「感謝するぞ。そなたと出会うてより、ただ在るということがこうも楽しく感じられるとは」
 それがどれだけの情感をこめた一言であるのかを知っているから彼もこう返す。

「私も御身と過ごすこの時間がかくまで貴いものとなろうとは思ってもみませんでした」

 ちらとこちらを向いた彼女にむける彼の笑顔がまた彼女の心を鷲掴みにするのだ。
 
 
 
 
 

 衛宮士郎が戦い抜いた聖杯戦争。それはある意味理想的な形で終わったと言えるだろう。
 アインツベルン、そして間桐の妄執。それを知った上で彼と彼の仲間は大聖杯を破壊したのだ。
 その結果から考えると驚くほど少ない代償で勝ち抜いたのである。
 そして多くのものも残った、それこそ何者かの妙な意図を感じてしまうほどに。
 あまりにご都合主義すぎてはいただろうが、皆それを良しとしている。

 それから始まった以前と比べてもずいぶん賑やかになった日常。
 だからこそだったかもしれない、わずかな変化に対し何も抵抗しなかったのは。
 
 

 その日、やることはほぼ終え士郎にとっての一日が終わろうとしていた。
 そんなとき土蔵から出てきて庭に立った士郎の感覚に何か囁きかけるものがある。
 だが士郎はそれを感じつつも、それが何なのかどこからなのかわからなかった。
 強いて言うとするなら『なんとなく』という表現がふさわしいかもしれない。ある種の虫の声なのかもしれない。
 しかし本当に微かでしかも一瞬だったし、何より危険を知らせるものには思えなかったのだ。
 ふと見上げた星空は普段と変わっているようには見えない。
「気にしすぎか」
 だからそんな言葉で自分を納得させた。

 ふすま一枚隔てた向こうにいるセイバーはもう寝ているようで、ほとんど音が聞こえてこない。
「お休み」
 そう小さく声をかけると士郎も布団にもぐりこんだ。
 
 

 眠りという名の闇に落ちていく感覚。
 妙な自覚があった。
 自分が現にいないという理解、それは夢幻の領域において真なることを意味する。
 衛宮士郎は夢の国に意識あるまま降り立ったのだ。

 周囲を見渡せば、およそ彼の過去において訪れたこともないであろう豪奢な建物の内部であると知れる。
 明確な明かりなど見えないにもかかわらず、完全な闇ともならずうっすらと全てが見えていた。
「魔術?」
 そう呟いたのは周囲にあるものが見かけどおりに物理的に存在するものではないことを瞬時に見抜いたからであろう。
 建物それ自体が不確定さの象徴のようであり、そしてそれ以上に何かの神秘を秘めていた。
 一瞬躊躇するものの、士郎はしゃがみこみ床に触れて『解析』しようとする。
 だが

「やめておけ。定命のものよ」

 凛と響くその声に思わず動きを止めた。
 振り向いたその視線の先にあるものは、一人の女性。
 美という幻想をそのまま概念にまで昇華させたような存在だった。
「なんでさ」
 思わず間抜けな言葉を漏らしてしまうほどの衝撃である。それは彼女の存在そのものに対する言葉。
 だが彼女はその言葉を勘違いしたか、少し眉をひそめた。
「ヒトごときでどうにかなるような『世界』ではないわ。危うきに足を踏み入れるような真似など慎め」
 そしてゆっくりと近づいてくるその女性。
 ようやく士郎にも観察する余裕が生まれた。

 白を基調とするドレス。
 紅い眼と輝く金髪。
 一瞬、全ての価値観を崩壊させてしまいかねないほどの『美』。
 軽く髪をかきあげるような動作一つにも麗とか爽とかいう言葉が散りばめられているよう。
 その全てが完璧。
 人ならざるがゆえか、その『美』は完成されていた。

「にしてもこの空間に入ってくる者などおるとも思わなんだがな。何故この地に参ったか?」
 そう、余裕たっぷりという表情で問いかけてくる。
 その様はセイバーとは別の意味での王者としての貫禄に溢れていた。
「こっちにもよくわからないよ。普段どおりに眠りについたらこんなところにいたんだ」
 それになんとか答えるものの少しばかり腰が引けていたのは仕方あるまい。
 士郎の答えに、彼女はふむと考え込む仕草をした。
 だがそれもわずかな時間。彼女は答えを出したらしい。
「退屈がまぎれるのは悪くはないが、面倒はもっと嫌いなのでな」

 急激にあたりに圧迫感に満ちた空気が渦巻いた。
 息苦しさを感じながら士郎が彼女を見ると、その眼は金色に輝いてるではないか。
「汝を元あるところへと帰そう」
 そして振るわれる彼女の手。
 自分に向かってくる力に対して、あるものを投影できたのは奇跡と言ってもよかった。

 全て遠き理想郷アヴァロン

 あの聖杯戦争の中で本体はセイバーに返したが、今の士郎なら限りなく本物に近い精度で投影できる。
 いや、むしろアヴァロンを象徴とする形で固有結界が異界の侵食から士郎を守ったと言うべきか。
 事実、彼女も驚いているようだ。
 彼女は士郎に近づくと、すっと右手を彼の頬に伸ばした。
 はっきり言って先ほどは殺されかけたのだが、優しく触れてくる女性の手に士郎は顔を赤くしてしまう。
 基本的に女性と戦うなどできない男なのだ。

 そんな士郎を尻目に、彼女は左手も伸ばす。
「なんとな。面倒云々より退屈云々を優先させたほうがよいか」
 そう語る彼女の目は驚きに見開かれていた。
 そして両手で頬を挟んだまま顔を近づけてくる。
 それこそキスまでしてしまいそうな近さに士郎はさらに顔を赤くした。

 そうやってどれほどたったのだろう。
 やがて彼女は右手を士郎の胸にまで落とした。
「並の者なら持ちえぬような心。強き心。そうかこれが汝のあるべき姿か」
 やがてその顔も士郎の胸に摺り寄せて、彼女はささやく。
「この世界もまた己の心を投影したようなもの。互いのそれが共鳴でも起こしたか」
 そこまで言って、いや、と彼女は首を横に振った。
「妾が引き寄せられたのかもしれぬ」

 しばらくはその姿勢を心地よげにしてた彼女だが、やがて顔を離し再び両の手で士郎を包み込む。
「一人。そう、一人だ。ゆるぎない強さとともに一人でいる汝を見た」

 アルティミット・ワン それは唯一無二を文字通り体現する存在

「丘の上にひたすらまっすぐな眼差しで前を見る汝がいた」

 それはひたすら孤高なり

「周りに人はおらなんだな」

 サレド、孤高ハ孤独ニ通ズルナリ

「汝もまた一人なのか、妾と同じように」
 
 
 
 
 

 最近、士郎がおかしい。
 それがセイバーたちの結論だった。

 切継に武術のようなものを教えられていたとはいえ、それが生活に滲み出るようなレベルでもない。
 にもかかわらず最近はびしっと背筋を伸ばして歩くようになった。
 歩くにも気を使っている。
 この日本家屋の中で最近の士郎はほとんど音を立てずに歩くのだ。

 変わったといえば食にも微妙な変化が現れている。
 以前は普通に日本茶を出すだけだったのだが最近は紅茶も淹れるようになった。
 それも日本茶の時とは違い、淹れ方をきちんと勉強している。
 凛などの批評を受けつつ腕前は向上しているようだ。
 凛などは以前から紅茶を飲んでいただろうが、士郎が彼女の好みに応えたとも考えづらい。
 事実、凛がリクエストしてようやく彼が紅茶を淹れたことがあった。

 他にも雷画を含めた藤村組の面々に洋酒を買わせているらしい。
 士郎も一杯頂戴することはときどきあるのだが、それ以上に開封していないビンに指を触れ満足しているようなところが見かけられた。
 凛たちにしてみれば彼が『解析』しているのだろうと想像できるが、その理由がわからない。
 どちらかといえばビールや日本酒を酒とみなす彼等に何故洋酒を薦めるのか。
 ちなみにそれを咎めようとした虎が一匹いたが、驚いたことに士郎がそれを実力で黙らせてしまった。

 そしてセイバーも食事の度に首を傾げる。
 なにか物足りなく感じるのだ。
 実のところ、様子がおかしくなってから士郎の料理の腕前はむしろ上昇している。
 それはセイバーも認めた。
 にもかかわらず妙に満足できていない。
 しかし上記の理由により彼女は文句を言うことができなかった。

 それらはやがて『不安』として結晶化していく。
 セイバー、凛、イリヤスフィール、桜、ライダー。彼女たちは一様に士郎の眼差しに首を傾げた。
 まるで『ここ』を見ていないような、どこか遠くを見ているような。
 『自分』たちを見てくれていないような、士郎の目を見ているとそんな気分にさせられるのである。
 
 

 その日も士郎はやるべきことは全て終え、あとは寝るだけになった。
 最近は土蔵で寝込んでしまうということもほとんどない。
 それに気づいて苦笑しながら彼は布団に潜り込んだ。

 意識が落ち込んでいく、どこまでも下へ。
 はっきりとした自我は彼が夢の国に立ったことを教えた。
「よし」
 そう呟くとあるイメージを体中に広げる。
 一瞬空気が流れたような感覚があった後、士郎は黒を基調とした執事としか言いようの無い格好をしていた。
 城の回廊の先にいるものに向けられるバトラーの視線は親愛の情に溢れている。

「朱い月のブリュンスタッドよ。ただ今参上いたしました」
「うむ、待っておったぞ。士郎」
 
 

 そう。あの夢の中で士郎が出会った女性は『朱い月のブリュンスタッド』であった。
 ガイアの外――月から降り立った王であり、一般に真祖と呼ばれるものを生み出した大本。
 巧妙に真祖全てを己の器たる可能性を持たせて生み出した。
 本来そういうことを期待されていなかったアルクェイド・ブリュンスタッドが最も相応しかったというのはなんとも皮肉だが、さしあたりこの物語には関係ない。

 あれから何度か二人はこうやって何処とも知れぬ城の中で出会っている。
 素でお姫様な朱い月と、根本的に一般庶民である士郎。
 そのうち二人は妙な関係を構築するにいたった。
 一言で表すなら、『ご主人様と執事』である。
 フェミニストや女性を立てる男性ならいくらでもいるだろう。
 士郎の場合はその他に世話好き家事好きというファクターがある。

 もしこれがかの物の死を視る少年であれば、彼女を大切にしつつ徹底的に対等であろうとしたかもしれない。
 士郎も基本的にはそうなのだが、上記の少年がある意味貴族であるのに対し、士郎は徹底的に庶民だった。
 何が言いたいかというと、士郎はその気になればいくらでも腰を低く出来るのである。

 前述のファクターとあいまって彼は奉仕する立場になっていた!
「この身こそは執事に特化された存在」
 などとおほざきになるくらいに彼ははまっていたのである。
 
 

「ん。腕も上がってきたようではないか」
「とんでもございません。御身にお喜びいただくためにはまだ足りませぬ」
 明らかに士郎の台詞じゃないとかいう突っ込みはどうか勘弁。
 この男、意外とムードに弱かった。ならば演じきってこその華。
 だからこそ昼間に紅茶の勉強すらもしてみせたのである。

「ふふ」
 朱い月はそう軽く笑いあくまでも優雅な動きでティーカップを皿に置いた。
 柔らかい表情。それが士郎にだけ見せるものだとしても、とても信じられないことである。
 少なくとも魔道元帥あたりが見れば卒倒したかもしれない。

「紅茶などもかつてはただ知識の中だけの存在だったのに」
 朱い月は思う。
 美味いという言葉は知っていても、それを感じられるようになったのはつい最近のことなのだ。
 いや、美味いと感じるにせよそれを支えるものがあることを今の自分は知っている。

 楽しい。

 本当に、自分がこのような感情を持つことになるとは。
 まったく自分はどうしてしまったのだろう。

「げに罪深き男よな、そなたも」
 だがそれも心地よい。
 罪という概念があるとすればそれは快楽だからだろう。
 そうだ。こんなにも心地よい。
 朱い月は思う。
 これが人間の持つ力か、それとも士郎だからこそ持つ『魅』力か。この男なら天使とやらも堕天させるのだろうか。

 そんな朱い月に微笑みながら士郎は返した。
「まだ未熟ではありますが、それでもどんどん上達しているとは感じられます。本当に御身のためと考えればますます」
 彼にとってもこの時間はとても素敵なもの。
 それは朱い月がいればこそのものなのだ。
 彼女とともにいたい。彼女のために何かをしたい。そしてその報酬に彼女の笑顔がほしい。

 士郎は思う。
 自分はこんなにも欲張りだっただろうか。
 他人のために何かをするのが当然だったはずなのに、
 ペイバックを求めるような思考などなかったはずなのに。
 士郎は思う。
 ああ、自分は変わってしまったのだ。変えられてしまったのだ。
 特定の存在にここまで惹かれるとは。
 
 

 ゆったりとした時間が流れる中、ふと朱い月が問い掛けた。
「そういえば、現世のそなたの周りは何かあったか」
 それに士郎が応える。
「そういえば桜が咲き誇る季節となりました。皆と花見に行こうかなどという話も出まして」
「なるほど。そうか、そなたの故郷ではサクラなる花が咲くのであったな」
 今はアメリカでも咲いてますけどね、などという言葉はさすがに飲み込んだ。
 つまらぬ言葉など姫に仕える執事に相応しくないに決まっているのだから。

「しかし。『皆』・・・か。それも妾としては納得しがたい話よ」
 突然朱い月がそう文句じみたことを言った。
「何が、でございましょう」
 とまどう士郎を一瞥し紅茶を飲み干してから、彼女は告げる。
「なに。そなたの周りには女人ばかりしかおらなんだと思うてな」

(うっ)
 何度かこうやって逢瀬を重ねる中で士郎の『家族』関係についてはすでに話していた。
 そのときは特に反応はなかったように記憶しているが、今の朱い月はどうも不機嫌そうである。
 早い話、嫉妬というやつなのだろうかと思いつつ、士郎は居心地悪げに体を少しばかり震わせた。

 そんな彼の前で朱い月はしばらく黙っていたが、一度カップを指で弾いて鳴らすとやおら立ち上がる
「士郎、参れ」
「御意」
 士郎を先導するように彼女は歩き出した。

 他に誰もいないのだが、彼等が歩く廊下には等間隔でカンテラの火が揺れている。
 士郎が初めて来たときには、周囲が見えないわけではないものの明確な明かりも存在しなかった。
 このへんも朱い月の変化と言える。

 そして二人が辿り着いたのは中庭だった。
 そこに生えていた木々が朱い月の腕の一振りで変化する。
 見事な枝ぶりの一つの木のみがそこに立っていた。

「桜・・・ですか?」

 士郎が訝しげに質問するのも無理はない。
 少なくとも彼がこの城に来るようになって以来桜など見なかったはずだった。

「なに、ほんの余興よ」

 そう語りながらかすかに浮かべる笑みは、桜の下でまたなかなかに映える。
 そのことで一瞬顔を赤くしてしまった士郎はそれを振り切るように軽く頭を振った。
 その場にテーブルもあったのでまたお茶でも用意しようかと思ったところに

「士郎」

 そう呼ぶ声とともにまっすぐ伸ばされた腕が彼を招く。
「御前?」
「現世でいろいろ酒を見ておったのであろう? 何かよいものを『記憶』してきたか」
 そう。士郎が藤村組の面々に洋酒を買わせていたのはまさにこのときのためだった。
 だから
「はい」
 と簡潔に応えて彼女のもとに寄る。

 近づいた二人はゆっくりと額を合わせた。
 情報はすでにある。
 解析した情報がすでに士郎の中に。
 肌を触れさせることで朱い月はその情報を読み取っていた。擬似的なライン。
 あとはその情報を基に空想具現化すればよい。

 気づいた時には、テーブルの上に二つのワイングラスと1本のワインの瓶があった。
 瓶の口のあたりを朱い月が軽く指でなぞるだけで、包装していた部分がしゅるしゅると解けてポンという音ともにコルク栓まで抜ける。
 そして朱い月は無造作に瓶を持ち上げた。

「ふむ。『TRAPICHE』とな」

 アルゼンチンのワインである。
 ここにあるのは白だが、きつい酸味もなくしかし過度にフルーティでもない。
 割とあっさりであるその爽やかさは日本人にも受けがよかった。
 アルゼンチンやチリなど南米のワインは日本人の味覚にあうものが多いようである。

 そのまま彼女はいっそ無造作ともいえる――しかし確かに優雅な――動作でグラスに注いだ。
 二つのグラスに注ぎ終えて朱い月は手招きする。
「士郎。そなたも取れ。ささやかなれど酒宴といこう」
「ありがとうございます」
 そして二人同時にグラスを取り上げた。

「「乾杯」」
 
 

 西洋風の城の中に桜という合いそうもない組み合わせだが、薄闇の中にあってはさほど異彩ともならず、ほどよい暗さが桜を引き立てている。
 篝火などあればさらに良かったのだろうがここにあるのはカンテラだけだった。
 だがそれでも闇の中ぼんやりと照らす光が景観を壊すということもない。

「しかし、余興とは仰いましたが、突然といえば突然ですね」
 そんな士郎の言葉に
「妾はいつでもそなたと会えるわけではないゆえにな。せめてそなたの周りの女たちより先にそなたとサクラを楽しみたかったのだ」
 と、少しばかり拗ねたように答えた。
 その子供っぽい嫉妬を含んだ物言いはこれまた士郎の顔を赤くさせる。
 やはり先の『納得しがたい』云々は嫉妬であったか。

 テーブルこそあったが二人は立ってワインを飲んでいた。
 あれからほとんど話題もなくしかしそれを苦とすることもなく、ゆっくりとこの時間を楽しんでいく。
 ふと風が吹いた。
「あっ・・・」
 どちらの声だったか。彼等の気を引いたものははらりはらりと舞い落ちる花びら。
 ぼんやりとしか照らされないこの空間にそれはあまりに儚くそして美しかった。

「日本人は咲く桜以上に散る桜に美を見出すなどとよく言われますが・・・」
「実際は?」
「綺麗だとは思います、それもこういうところで見ればこそですが」
 今の日本で桜など、見物客でごったがえす中で見るものにすぎない。
 それこそ人の踏み入らぬような山奥であればまた美しいものを見ることができるかもしれないが。
 士郎にしてみれば花見とは大勢の人間が騒ぎながらやるものというイメージしかなかった。

 桜とは本来こんなにも美しいものなのだと士郎の感嘆は止むことがない。
 息を止めたかのように桜を見つめていた士郎はふと自分に寄り添うものの感覚に気づいた。
「ご、御前!?」
 グラスをテーブルに置いてきた朱い月がそばにある。
 慌ててしまう士郎に彼女は囁いた。
「そなたと出会うてよりただ在るということがとても楽しい」
 そしてふうと漏れるため息。
「だがそれはそなたがおらぬ間の孤独を助長させるものでもある」
「御前・・・」

 しばし朱い月は黙った。
 やがて上げた顔にはどこか寂しそうな切なそうな表情がある。
「結局、そなたは別のところへ帰っていくのかと思うとな・・・」

 士郎は思わず彼女を抱きしめていた。
「俺は・・・俺はっ!」
 いつのまにか彼の話し方が素に戻っている。
 とてつもない愛しさが士郎の体内を嵐のように駆け巡っていた。

「執事のように振舞えてそのような話し方ができるのもそなたのスキルであろうよ。それもまたよいが」
 ゆっくりと士郎の背に回されるたおやかな女性の腕。
 自分の腕の中に確かに男の存在を感じながら朱い月はしゃべった。
「だがやはり、そなたはそなたのままであるのが一番よいな」

「独りになんかさせないよ。俺がさせない!」
 その言葉の重さも理解せず少年は言う。
 だがそれを心地よさげに女性は聞いていた。

 やがて士郎の首筋に顔を寄せる朱い月。
 その行動に士郎は彼女が吸血種であることを改めて思い出した。
 それもいいかと思ってしまう。
 だが

 ぞく

 想像していたのとは全く違う感覚に体が震えてしまう。
 朱い月は彼の首筋に舌をはわせていたのだ。
「あ・・・ぅ・・・朱い月?」
 それがあまりに気持ちよくて、でも何故そのようなことをするのかがわからなくて。
 思わず彼女の肩を掴んで揺さぶっていた。
「ん・・・士郎」
 だが朱い月は離れない。変わらず彼への愛撫を続ける。
 それに抗うこともできなくなり士郎は彼女の肩から手を離し、またその背中に手を回していた。

「だがな。考えてみればそなたと出会ったことそれ自体おかしなことなのだ。それに近頃はなにやら」
 そこまで言って彼女は珍しくニヤリとした笑顔を浮かべた。

「昂ぶりを覚えるのだよ」

 やがて士郎の首筋から頬へと、朱い月の愛撫は移動していく。
「だから妾はそれほど不安に思ってはおらぬ。そう・・・予感がするのだ」
 上気しきった顔の士郎を眺めると、朱い月はテーブルからまだ中身の入ったグラスを取り上げて
「む。これはそなたが使っておったものか。まあよいわ」
 くい、とその中身を口に含んだ。
 そしてそのまま彼に口付ける。
「ん・・・んむ」
 士郎もその意図に気づいて酒を受け取ろうとしたが、完全にはいかず零れた分が口から顎へと流れていった。

 荒い息を吐きながら懸命に朱い月を見つめる彼の、その瞳に宿るものを何と言うのだろう。
 もうどうしようもなく彼が欲しいのだと自覚しながら女は囁いた。
「花は愛でられてこそ『華』となる。わかっておるのだろう?」

 なんて凶悪な言葉。
 なんて凶悪なまでに美しい。
 そして凶悪なまでに愛しい。

 もうどうしようもなく彼女が欲しいのだと自覚して男は自分から女に口付けた。
 
 
 
 
 

 その日、士郎が起きてくるとすでに他のメンバーは起きていた。
 だが、どうにも彼を見る視線に微妙なものが混じっている。
 首を傾げるがわかるわけでもないので、とりあえず台所で朝食の準備をすることにした。

 その後、セイバー・ライダー・凛・桜・イリヤスフィールと食事を始めるも空気が妙に重い。
 しかしそれを突っつくのは文字通り薮蛇の気がして士郎は黙っていた。
 そして食事が終わりお茶を淹れようと士郎が立ち上がりかけるが
「シロウ。待ってください。話があります」
 セイバーの声がそれを引き止める。
 そう言われて士郎は浮かしかけた腰を下ろした。

 先ほどライダーが入っていった台所でいろいろ音がしているのは彼女が準備をしているからだろう。
 その他のメンバーはどれもこれも表情が固かった。
 そしてライダーの手によって全員にお茶が配られる。
「さて、と。衛宮君、話があるのよ」
「ああ、で何だ」
 凛の口調はいっそ恐ろしいほどだがなんとかそれをいなして士郎は答えた。

「ここ最近、衛宮君の様子がおかしいというのが全員の見解よ」
「それでシロウのこと調べようって話になったんだよねー」
「夕べからシロウの様子を見つつ、ついでに寝ている間にも忍び込んだわけです」
「その、ごめんなさい、先輩」

 約一名点数稼ぎをしている者がいる気もするがとりあえず無視しておこう。
「で? 特にやましいことなんてないと思うぞ」
 内心あまり愉快な気分にはなれなかったが、士郎はなんとかそれを押し殺した。

 すると帰ってくる冷たい視線。さっきから黙っているライダーもこれまた冷たい。
「じゃあ聞きましょうか。いったいどんな夢をご覧になってのかしらね、衛宮君」
(うっ)
 それはさすがに言えなかった、『彼女』との艶夢など。

 冷たい視線から一転、イリヤがにやにや笑いながら追い詰めてくる。
「なーんか顔を真っ赤にしながら『んっ・・・んっ』とかあえいでたよね〜」
 ずずーっとお茶を飲んでから
「まあ所詮夢ですからそこまで細かいことを言う気はしませんけどね」
 膨れっ面をしながら
「先輩、そういう夢を見るなら私が〜」
 ちょっと顔を赤くして俯き加減に
「あ、あの。できれば私も一緒に」

 約二名をその拳で黙らせてから、『あかいあくま』は完全に本気の魔術師の表情でしゃべった。
「単にそういう夢をみるだけなら別に文句はないわよ」

「でもあんた。『朱い月』ってどういうことよ!」

 思わず士郎の口から漏れるため息。
 その名前も寝言で言っていたらしい。
「ああ、確かにここ最近俺は朱い月って女性と会っていたよ、夢の中でだけどな」
「だからそれが異常だってのよ!」

「朱い月よ!? 全ての真祖を生み出した存在であり、ガイアに生きる全ての生命に敵対するもの!」

 だがヒステリックな凛の叫びにも士郎は毅然として答えた。
「それがどうした。俺が出会ったのはただの独りの女性だったよ。そう、どこまでも孤独な・・・」

 ほとんどの者が信じられないと見つめる中で近寄ってくる女性。
「シロウ〜」
 セイバーだった。
「私はシロウに剣を捧げたのに、あなたは別の女性の元がいいと言うのですか」
 論点が違うような気もするがそれは口にしない士郎君。
「つってもさ。俺が一人の男として側にいたいと思ったのはあの女性だけだし」
 その返答にセイバーはうーとうめきながらだくだくと涙を流した。
「やっとわかりました、最近の食事で妙に満たされなかったわけが。料理は愛情なんて言い方があります。結局のところ士郎の愛情は別のところに行っていたのですね・・・」

 もうその後は大変だった。
 その場にいる女性がほとんどいろいろ喚きつつ士郎に詰め寄るのである。
 しかし朱い月に出会って以来士郎はそういうのをあしらうのが上手くなっていた。

「なんでさ」
 なんとかその日一日を逃げ切って眠りにつこうとしていた士郎君。
 布団の周りに皆が殺る気満々といった感じで陣取っている。
「ふっふっふ。寝ちゃったら夢の国にGOなんでしょ。だったら寝かせないか私たちも夢の中に行くかじゃない」
 そんな凛の言葉に士郎は頭を抱えた。
 そもそも士郎が夢の中とはいえ朱い月に巡り合えたのは偶然の産物としか言いようがないのだから。

 士郎は知らなかったがライダーは淫夢を見せることができた。
 もちろん夢魔とは違うが、極めて限定的にしろ彼女は人の意識に干渉することができる。
 いや、もはや出来る出来ないではなく、「やってやんぜこんちくしょー」になっていた。
 女性陣は全員よくも悪くもやる気満々なのである。
 とりあえずα崩壊ならぬδ崩壊とか起こしつつ核分裂ならぬ現実分裂でも起こす気なのだろう。

 結局真っ暗になった部屋の中で士郎はその体のパーツのほとんどを女性に占拠されていた。
 セイバーが右腕、凛が左腕、イリヤが胴体、桜が右足、ライダーが左足、という感じである。
(どうしろと)
 他の面々はすでに眠ってしまったようだが彼だけはまだ眠れないでいた。
 暗い天井に呼気が昇っていく。そして
「朱い月」
 そう呟いたとき、彼の意識は急激に闇に落ち込んでいった。
 
 

 すたっと彼が綺麗に降り立ったのに遅れるようにしてどすんどすんとみっともない音が響く。
 見ると、女性陣が尻餅をついていた。全く対応できなかったようだ。
 セイバー達のうめき声が響く中に

「千客万来とか言ったか。騒がしいぞ、士郎」

 圧倒的な存在感を伴う声が凛と響く。
 その声に女性陣が振り向く中、士郎も服に意識を向け執事の服に着替えた。
「お騒がせして申し訳ありません」
「うむ。だが以前話していたそなたの家族だな?」
「はい」
 なんの澱みもなく言い合う二人。フリーズしていた女性陣はそのことに慌てて再起動をかける。
 が
 士郎に駆け寄ろうとしていた者はそこで立ち止まってしまった。

 ライダーのように綺麗で長い髪。
 セイバーの専売特許であったはずの美しい金髪。
 凛とは全く異なる風格。
 桜とため張れる胸。身長の差を考えれば桜よりもスタイルがいい。
 全てが桁違い。
 約一名、胸に手をやったり頭に手をやったりして「うー」と唸っていたが・・・。

「ちょ・・・」
 その中でも再起動が真っ先にかかったのはやはりというか凛だった。
「ちょっと何よ。その格好その言葉づかいは、衛宮君!」
 そんな凛の言葉が気に入らないのか、わずかに顔をしかめ朱い月は士郎の元にすっと歩み寄る。
 そしてそっと彼を抱きしめた。
「我が愛すべき者だが? 汝等こそ無粋にすぎるとは思わんのか」

 ムンクの『叫び』か。
 そのときのセイバーや桜などの表情はそう表現するしかなかった。
 ひとしきり驚くとセイバーはしゃがみこんでうじうじしだす。
「うー。こうもはっきり見せられたら・・・」
 皆寝る前の決意など崩れ去ったようだ。
 例外ともいえるのが凛である。なんとかたいしてない胸を張って持ちこたえている。
 だがそんな態度も朱い月にはなんの感傷も与えなかった。
「ま、客は客か。士郎」
「はい」

 その後は例の中庭に移動してのお茶会である。
 お茶を淹れるときを除いて士郎は基本的に朱い月の側に立っていた。
 そしてその組み合わせがとてつもなく似合っているということを彼女たちは認めざるを得なかったのである。
「くっ・・・衛宮君が普段淹れるお茶より明らかに美味しいわね。愛情の差というわけか」
「「うー!」」
 セイバーと桜はお茶を飲んでいる時でさえ奇声をあげ、ライダーとイリヤは少なくとも外見上は平静を装っていた。

 そして二人して語り合う士郎と朱い月。
 それは確かに入る隙間もなくて、ああこの二人の仲は誰にも引き裂けないんだと納得するしかなかった。
 誰もあんな士郎の顔を見たことがなかったのだから。
 あれほどまでに唯一つのものを求めるような男だったろうか。彼女たちが知る彼はそうではなかったはずだ。
 でも変えてしまった女がいるということも認めざるを得ない。

 そして女もどうだろう。
 もし本当に語り伝える通りなら、ヒトの子など彼女にとっては虫けら以下だろうに。
 それがなぜ唯一人の男に執着しているのだろう。
 それはやはり変えてしまった男がいるということなのだ。

 ただそれが悔しくて悔しくて、セイバーたちはそれを見ているしかできなかった。
 
 

 お茶会なども終わりこれでさよならという時になって朱い月は少し悪戯するような表情を浮かべる。
「まあ、妾は昼間までは士郎を独占できぬからの」
 その内容に、だいぶ元気をなくしていたセイバーたちはどす黒い生気を甦らせた。
 皆いろいろ考えているようだがライダーだけは
(とはいえあまり攻勢にいってもあれですし、搦め手を考えたほうがよさそうですね)
 多少は穏やかなほうに走っている。黒くはあるが。

 そしてそのまま夢の国での時間は終わりを告げる。
 
 
 
 
 

 あれからまた変化があった。
 凛や桜は今まで以上に私物を衛宮邸に持ち込み本来の自宅に帰ることはめっきり少なくなっている。
 セイバーやライダーそしてイリヤは積極的に料理を学び、家事全般をよくやるようになった。
 真昼間から露骨にモーションをかけたりして、士郎が逃げたりもよく見る光景である。
 なにせ夜は士郎が彼女たちを部屋に絶対入れないためにいろいろやっているのだ。

 騒がしくはあるがきっとこれからもこうなのだろう。
 変化?
 あるかもしれない。
 あるいは士郎が変化を望んで行動を起こすかもしれない。
 なんやかや行動派のロマンティストと言える部分が多々あるのだから。
 それが物語になるのかどうかはわからないけど。
 ただ士郎の心は満たされていた。
 
 
 
 
 

 アルクェイドが眠りについた

 恐らくはもう二度と目覚めることはあるまい その理由がないのだからな

 長らく奪われていたものを取り返したか

 くくっ それゆえか どうにも妾が昂ぶっていたのは

 もう目覚めることがないのなら何が起きようと構うまいな
 
 

 反転衝動

 あの子にとっては二つの意味がある

 一つは単純に魔王となること

 そしていま一つは妾 すなわち朱い月の復権

 今一度この妾がガイアの表舞台に立つか

 彼は敵としてあるのだろうか

 否 そうではないと信じられるからこそ彼は士郎なのだ

 ならば そう 構うまいよ
 
 

 のう 士郎

 妾が再び現世に在ることができるようになったらどうしようか

 現世の日差しの中で思う存分愛し合おうか
 
 



 
 
 
 

あとがき

士郎と朱い月がなぜ想い合うようになったのかとはもっと丁寧にやればよかったですね。
終わりごろセイバー達が出てくるところはかなり手抜きだし。
すみません。

元々は士郎には執事が似合うよなというただそれだけから思いついたものでした。
 
 
 
 



 
 
 
 

Lost-Way後書き
 22万ヒット記念企画参加作品第二号、有り難う御座います。
 BBSで参加表明を戴いてから、心待ちにしておりました。
 何と言う、甘美な時間。
 文字通り『夢物語』を幻想的に描かれておられる。
 素敵ですねー、こういうの。
 ほのぼのとしているようで、幻想的で。
 しかも、しっとりと纏まっている。
 凄いですね。
 私も色々と見習わなきゃ、です。
 この度は素敵な作品を有り難う御座いました。
 
 では。『貴方が信じ続ける限り、夢は必ず現実に変えられる』Lost-Wayでした。