兄さんがいなくなって数ヶ月たったある日、それを感じた。

 魂のつながりが途絶えていた。

 その日は、泣いてすごした。

 兄さんは、死んだのか……もしくは、……私を必要としなくなったのだ……
 
 

皇婿(プリンス・コンソート)志貴・第三話』



 貴方は本当に兄さんですか。

 琥珀と翡翠は嬉しさのあまり気づいていないのか、

 それとも気になってはいても口にしないのか知りませんが、

 貴方のお姿はいなくなってしまわれた時から全く変わっていない。

 そして何より、私と魂がつながっていない。
 
 

 いくら何でも自分の主人と全く生き写しの存在にその言葉は非道いと思ったのか、

 翡翠が声をあげ……

「……秋葉さ……」

 す、と。

 全く変わらない、兄さんの白い指が翡翠の唇に当てられた。

 ドクン

 頭に血が上ってくる。歯を食いしばってしまう。

 ああ、やはり。私は兄さんをまだ忘れられていない、それどころか……

「いいんだよ、翡翠」

 ほろ苦い笑み。兄さん……そんな……そんな表情をしないで……

 まるで本当の兄さんの様。

「秋葉、以前のままのこの姿からわかると思うけど……俺は死ななくなった」

 聞きたくなかった。

 知悉しているだけに。

 できればその言葉を聞きたくなかった。

「兄さん、一体何を……」

 ザクリ、と兄さんがご自身の手のひらをナイフで貫いた。

 信じたく、ない……

 ナイフが抜かれる。すると、

 破れた皮膚が、飛び散った血が、裂けた肉が、

 戻っていく。ビデオを巻き戻すかのように。

「この通り、俺は化け物…吸血鬼さ。」

 目が細まる。自分でわかる。

 知っていたけど信じたくなかった事実が、目の前で証明されてしまった。

 吸血鬼。

 兄さんがいなくなってから私なりに調べた。

 真祖と死徒に分類され、いわゆるブラム・ストーカー的なものは死徒。

 そして、兄さんの横にいる女……アルクェイド・ブリュンスタッドは現在唯一の真祖。

 なにより、死徒はそもそも真祖が吸血衝動にかられた時の為の……

「兄さん、貴方には遠野志貴としての自我が認められます。

 しかし、アルクェイドさんに操られている可能性も否定できません」

 私が、一番、あってほしくない可能性。

「アルクェイドはそんなことはしない!」

 兄さんらしくもなく声を荒げる。

 アルクェイドさんが兄さんの肩に手をおいて気にしていないから、

 とか無理もないよと言葉をかける。

 兄さん……

「妹」

「私は兄さんの妹ですが貴女の妹ではありません」

「…まぁ、その辺はあとでゆっくり話し合うとして、ずいぶん吸血鬼に関して調べたみたいね」

 不愉快ながら首肯する。

 当然だ。兄さんはこの女と消えたのだ。

「それで、志貴が『私の』死徒であることを心配してるみたいだけどそれはないわ。

 二十七祖は知ってる?志貴はその第九位。

 『プリンス・コンソート』志貴=ブリュンスタッド」

「ええ、それも聞いています。

 兄さんを利用して前の九位をあなたが騙し討ちにしたことも」

「秋葉!」

「…いやな解釈ね。

 でもそこまで知ってるなら説明し易いかしら」
 
 

 そもそも、俗説では一般人は吸血鬼に吸血されるとその一般人もまた吸血鬼化するという。

 血を吸われた方は吸った方の吸血鬼に絶対服従。

 そしてその頂点の吸血鬼を真祖と呼ぶ。

「これが間違った解釈であることは知ってるわよね?」

「ええ」

 この頂点には死徒でも立てる。

 さらに俗説にはある。

 真祖が他の吸血鬼に吸血された場合、このヒエラルキーは崩壊し、

 吸血によって吸血鬼化した人間は元に戻る。

「俗説には一面の真理があることには調べていて気づいた?」

 この点も他ならない。

 つまり、ヒエラルキーの頂点が他の吸血鬼に吸血された上で倒された場合。
 
 

 現実には元の人間の体に戻ることなどは無いが、自我が戻るのだ。

 ただし、ヒエラルキーの二番目の存在のみ。

 すなわち、死徒のみ。グールやリビングデット、ゾンビはただ崩壊し風化する。
 
 

「ついでに言えば二十七祖は下克上した場合、前の主の位を継承するの。

 だから私の死徒にして九位なんてことはありえない」

「そうでしょうか?

 空位になった九位に貴女が自分の死徒の兄さんを入れて

 教会に事後報告した、という可能性が残っていますよ?」

 その時、志貴が音も無く立ち上がった。

 すっ、と志貴の両手が秋葉の整った顔に迫る。

 秋葉は叩かれることを覚悟していたが気丈さが避けることも目を瞑ることも拒否した。

 が、志貴の両手は彼女の美しい髪を梳くように通り過ぎ、後頭部を固定した。

 急速に、秋葉は志貴の眼前に引き寄せられる。
 

 紅くなったその瞳が真摯に秋葉を見つめた。

「秋葉……俺はお前に何を言われても仕方ない。

 だけど……。だけどアルクェイドを悪くいうのはやめてくれ……

 こいつは、俺が勝手にきめたことに着いて来てくれた。何も言わずに手伝ってくれたんだ……」

 志貴は秋葉を抱きしめ、独白した。

 本当はいつまでもずっとここにいたかった。

 だが七年前のあの時、あの幸せな時がどれほど不安定だったか、それに気づいた時慄然とした。

 教会が少し考えを変えただけで、秋葉が狙われるかもしれない。

 協会が志貴に少し興味をもっただけで、自分が誘拐され、それだけならまだしもアルクが。

 彼女が無条件に降伏してしまうかもしれない。

 そんなことで、途端に消えてしまう自分の幸福。

 なにより、アルクェイドと過ごせる時間の少なさ。
 
 

 それ故に、賭けに出た。
 
 

 死徒となり、世界中の「裏」の対抗者を狩った。

 連絡などできなかった。くまなく動向を探られていた。

 だが……

 七年間、忘れたことなど無かった。

 案じない日はなかった。

 ここに、帰る日のことを思わない日はなかった。

「ごめんな、秋葉…十五年も家を留守にして、心配かけて、悪い兄貴だったな……」

「兄さん……ごめんなさい兄さん……

 ……おかえりなさい……」

 スンと鼻を鳴らして、秋葉は泣き止むと、志貴の顔を正視した。

 兄さんだ。

 七年前と変わらない、永遠に変わらない兄さんだ。

「おかえりなさい、兄さん」

「ただいま、秋葉。

 ……ちゃんとアルクにもあやまるんだぞ?」

「わかっています……申し訳ありませんでした、アルクェイドさん」

「いいよ、秋葉は私にとっても妹だもん。義姉さんって呼んでくれてよいよ?」

「だから!なんでそうなるんですか!?」

「さっき言ったでしょー、志貴はもうブリュン…」
 
 

 遠野家に久しぶりの喧騒が響く。

 実に、明るい騒がしさが戻った。

 それは一分の隙もない完璧な幸福。

「今夜は腕をふるいますよー」

「お酒を持って参ります……ので、お付き合いいただけますか、志貴さま……」

 志貴は幸せそうに、この上なく幸せそうに笑った。