北条小田原を守りの屋根として、行き交う道に宿がたち、並ぶ木立は春の鳥が啼く。
箱根の剣を越え、はるばる海道をやってきた山伏姿の男の背には黒塗りの薬箱があり、長寿の亀印が掘り込まれている。薬売りである。
修験道に踏み込んだわけでもないのに、薬売りが山伏の格好をするのはいわゆる時代のはやりであった。こういう恰好で出雲からはるばる参ったと言うと、薬とお守りの売れ行きが倍になる。
だから、武田北条共謀の気ありとして諜報を任ぜられた服部半蔵は、もっともらしく山伏風の薬売りに変装して東海道を来たわけである。無口で口下手なわりにせこく儲けてやろうという卑しい野心だけある甲斐性なしで、小田原にはかわいそうにずっと放っておいた離縁寸前の妻が住まうという設定もある。小田原まではあと半日といったところだ。

「もし」

不意に前から女の声がかかって、薬売りもとい半蔵は顔をあげた。
笠をかぶった女は旅姿をしているが、ひと目で金持ちとわかるきらめく布を身に着けていた。顔を隠す薄絹が笠のふちから垂れている。

「あなた様は向こうから来たのですか」

すいと白い手を伸ばし半蔵の来た道を指さした。物言いにもいいとこの出であることを隠す様子がない。

「…へえ」

口下手の設定にそって、低い声は地声だがもごもごと小さな声で言った。会釈するふりをして、半蔵の目は女の胸にしまわれた懐刀の三つ鱗紋をしかと見た。北条家だ。

「そうですか。では、お尋ねしたいのですが」
「へえ」
「男を見ませんでしたか」
「男は、いくらも」
「そうですか…うむ、わたくしの聞き方がよくなかった。大男を見ませんでしたか」
「いくらかは」
「そう」

女の手が垂れ絹をよけて、美しいおもてが半分のぞき、半蔵へ和やかに微笑みかけた。もう半分の顔面は、頭に紐をまわしそこから垂れる布で隠されていた。
この特異な風貌は北条氏康の孫娘、姫に違いなかった。
度肝を抜かれたが、顔には出ない。
気の弱い甲斐性なしの顔のまま、首をかしげて見せていると北条の姫君は「ありがとう」と述べてすれ違っていったので半蔵は振り返り、半分演技、半分本心でぽかんとした。
高貴な女らしい姿に道行く人も足をとめて彼女を見ている。あたりを見ても従者らしい人はなく単独で動いているように見えた。
さてどうするか。
この先、小田原と逆方向に女の足で日が暮れるまで歩いても宿場にはたどり着けない。北条の姫が追いはぎに会おうが山賊に襲われようが野垂れ死のうがどうでもいいが、騒ぎになるのだけは良くない
あの姫君が城を抜け出してきたことが家臣に知れたら城は大騒ぎになり、近い関と門とを厳しく取り締まり始めるだろう。
加えて自分に分が悪いのは、あの姫は風魔忍びの頭領と因縁浅からぬ噂のたつ姫君なのだ。あれが出しゃばってくると面倒この上ない。

「娘さん」

通り過ぎた姫を呼び止める。

「今から向こうへ行くつもりかい」
「ええ」
「どなたかお探しなのだろうが悪いことはいわない。明日におし、今からじゃあ宿に着く前に夜がきちまう」

旅慣れした者がこの油断した旅素人を見たら当然言う言葉だ。

「やはり宿にはつきませんか。親切に、心を砕いてくれてありがとう」

聞き分けはよい。これで姫が戻り、門で捕まってくれさえすれば逆に警備も気が緩み、いつもより簡単に門をくぐれるだろう。

「ですが、心配には及びません。野宿の用意もしてきているから」

そういうと、柏の葉でくるんだ餅を半蔵へ見せた。

「そういう問題ではなくて」

口下手な男のはずだ。これ以上おしゃべりをしたくないが、もうすこし食い下がる。

「山賊とまではいかないが、このあたりは最近あんたのような不用心な人を狙った小悪党が出没するという話だ。腹を空かせた獣も出る。悪いこたぁ言わない、お戻りよ」

また姫は心配には及ばぬと言って、ずいぶん穏やかな顔で半蔵の助言をかわした。
これ以上悶着しては目立つし、不自然である。
そうまで言うならと引きさがり、よくよく気をつけなさいとだけ言って、別れる際に姫は薬売りに小田原で商いがよく行きますようにと言葉を贈った。
歩き出した背に一瞥くれて、薬売りは小田原へ向け歩みを再開した。



物好きにも、先ほどの姫はゲテモノ好みの忍び好みだそうで、主家の権威をかざして風魔小太郎にしつこくつきまとい、その末に風魔に暗殺されそうになった。北条氏康の助けあって姫は辛くも生き延びたが、この時負った怪我が原因で嫁にいけない顔になり、いまだに小田原で風魔を追いかけまわしている。
北条家の醜態として周辺諸国のいい笑い草になっている話だ。
だが、本当に追いかけまわしているとは思わなんだ。



半蔵の悪い予想は的中した。
小田原城下町に入る前から、道々に北条家臣団らしい得物を帯びた男たちが厳めしい顔つきでうろついていた。
団子屋の軒先で茶をすすりながらしばらく様子を眺めていると、男たちは宿に入って帳簿を検めては何事か耳打ちしあっている。あのような噂の立つはぐれ姫でもよほど大事と見えて、団子屋の軒先からふいに山伏姿が消えたことには、気づかない。






今は機にあらず。
半蔵は日暮れとともに山にまぎれた。三日月のもと、頭巾を付けた忍び装束で高い枝の上にとまり、あたりに動物の気配しかないことを確かめてから、幹にもたれて自分の気配を消した。半蔵は武田北条共謀の真偽を確かめる任を果たすため、、一晩だけ山中で息をひそめ待つことにしたのだった。姫が死ぬか戻るかしてことが落ち着き次第薬売り以外に化けて再び小田原城下へ侵入する。
道であの金持ち旅装束にすれ違った者も多い、街道をはずれさえしなければ今宵のうちに北条家臣団が見つけるだろう。
目を閉じ、夜の風が葉を鳴らしたのを聞いた直後、数人の気配が近づいてくるのを気取った。

姫は追われていた。
山の湧水が作った川のぬかるみに足をとられ二度転びかけたが片手をついて耐え、しかし追っ手三名は確実に距離をつめてきていた。
はじめのうち、家臣団が姫を追いかけているのかと思ったが、家臣団にしては薄汚れているうえ、振りかざされている刀は激しくこぼれており、のこぎりのようだった。

「おい待て」

語尾が嗤った。

「これから三人相手にするんだ、あまり疲れることをするなよ」

小物の不埒者どもは勝利を確信し、舌舐めずりと下卑た笑い声を三日月の夜によく響かせていた。
半蔵は大きな足音がたつのと同じ時に木から木へ移り、枝の上から姫君が追いつめられる様子を観察していた。家臣団の気配も、風魔小太郎の気配もない。安全安心かつ悪趣味な観察は、思いのほか早くおわりを迎えた。
行く手を垂直の山肌にふさがれ、迷った末に姫は浅瀬に踏み入ったが、重い装束では思うように進まない。水しぶきをあげ意気揚々と男たちが追い付き、姫の体を羽交い絞めにすると水の外へ引きずり出した。
月明かりで女の体を見たかったのか、木が開けた場所まで引っ張っていき女の着物を次々はぎとっていく。男らは下履きをほどくのに夢中で、とりあげた懐刀の三つ鱗紋に気付く様子もない。半蔵は木の上で頬杖ついて観察を続けた。
襦袢の紐もほどかれて、月明かりに照らされた白い腕が最後にあがくのを見たが、相手の肩たたきでもしてやるようなか弱さであった。

「だ、だれが一番だ」
「おれだ」
「オレが先だろう、どけっ」
「じゃ、じゃあじゃんけんで」
「最初はぐーで行くぞ、いいかっ」
「さーいしょはぐびぇ」
「おめえグビェってなんだよ、焦りすぎだ」と顔をあげた先、仲間二人の姿はそこになかった。かわりに槍一本で男二人をひと薙ぎした真田幸村の残身がそこにあり、夜に炎を灯したような幸村の目はただ一点、残った男を睨みつけていた。












「ご無事ですか」

濡れたままでは寒かろうが幸村は、腕まで降ろされていた女の着物を肩までもちあげてやった。

「落ち着いて、もう大丈夫ですから」

道中少々足止めを食らった遅れを取り戻すため、夜の街道を月明かりをたよりに歩いていたら、気配を感じて街道をはずれ、木立の間に踏み入り、その先で女が追われているのを見つけた。
縁もゆかりもないが、濡れた着物越しにコツコツ感じる背骨がいっそう哀れを呼んで、間に合ってよかったと心底安堵した。
女はしばらく固まっていたが、湧水で口をすすがせるとようやく少し落ち着いたようだった。その傍らに膝をついて背をさすっていた幸村はぞっとした。
暗くて気づかなかったが向かって右の顔半分の皮膚が不自然にゆがんでいるのだ。

「お怪我を…」

言いかけた途中でそれは今できた怪我ではないと察し言葉をとめ、じっと見た。
醜い反面を女の手が素早く覆い隠した。

「これは怪我ではありません。大丈夫」

隠された異形の、もう半分の顔はたいそう整っていて、水で濡れそぼった姿には蠱惑的なものが宿っているようにさえ、映った。



北条と同盟を結ぶのは過去を振り返ればこれが初めてではない。いずれも手切れしたが、また結ぶと言う。
そんな重要な会合に自分が呼ばれた意味を幸村は父からすでに聞かされていた。
北条の姫君が自分に嫁ぐのだそうだ。
家柄を比べれば相手は大名で、こちらは一介の家臣。しかもその次男という立場で、向こうの姫には諸国に嘲笑される悪しき噂がつきまとっている。お互いを罵り合うような同盟のダシに使われる屈辱と反論を、父は「堪えよ」の一言で封じた。真田家をいいように使われてもっとも憤慨すべきは父である。ならばと、幸村は耐えることにした。
そんななか、孫の嫁入りの前に夫となる男の顔を見ておきたいと、すでに隠居した北条氏康公が言い出して、この同盟をよく思わない人々には無視しろと言われたが幸村はひとり、行くことにした。
関係改善を云々と理由を付けたけれど、実際のところはちょっとヤケを起こしていたのである。
だから単身東海道を来たわけだが、その道中、箱根峠で徳川か、上杉か、北条か、佐竹か、奥州か、もしかしたら武田のかもしれない刺客に襲われ、なんとか退けた。
ちょっと遅れた行程を取り戻そうと夜行したら、北条三つ鱗紋をたずさえた女を助けることになったのだった。

「今宵は冷えますね」

幸村の足へ、姫君の手ずから布がかけられた。

「…かたじけない、です」

恐縮しつつ布のおすそ分けをうけると、姫はうなずいて小さく笑ったのが、月の明かりでわかった。丸太の詰まれたこの山小屋はかつて東海道を整備したときの名残だと姫は言った。
姫の顔の左半分は長く垂らした前髪でそっくり隠されてしまったが、幸村から見えるもう半分の横顔は健やかである。

「それにしても縁談の持ち上がっている若武者殿とこんな形でまみえるとは、夢にも思いませんでした」

幸村にしてみても同じである。
小田原城で、北条氏康公に挨拶するときに着る正装を、林のなかでびしょ濡れになった婚約相手の姫君に着替えとして貸すとは、夢にもおもわなかった。

「なにゆえ、姫様がおひとりで、このようなところに」
「ああ、いや…うむ」

開きかけた口を閉ざして、しばらく沈黙が生まれた。
妙な期待がそぞろわき、幸村は「もしや」と恐る恐る切り出した。

「嫁入りが嫌になってヤケをおこされた、とか」

姫は肩を揺らして笑い出した。

「そんなことはありません。よそへ嫁ぐのは北条に生まれた者のつとめです」

同志を求めた幸村は黙って自分を恥じた。

「友達を探していたのです。風魔小太郎という」

「風魔」と繰り返し、この姫と風魔忍の頭領との間にある噂をすぐさま思い出した。
姫が風魔忍びに懸想しているというあの噂は本当だったのだ。
ますます姫の脱走は嫁入りを嫌がる無謀な反抗のように思われ、ちらりとうかがい見ると姫の片目とばっちり目が合った。
顔の半分を髪で隠した顔が歯を見せて笑う。おしろいも眉そりもお歯黒もしていない笑い顔は童女のようでもあり、妖しい魔物が幸村の考えを見透かしているようでもあった。

「あの噂は武田陣営まで届いているのですね」

ぎくりとし、幸村はうろんに答えて顔をそらした。こういう会話は心もとなくて無意識に槍の柄を手元に引き寄せていた。

「真田殿」と覗きこまれる。
「どの噂です?」
「え」

更にずいと姫に寄られて身を引き、だじろぎ、額には汗が浮かんで柄を握る手に力が入って行く。

「わたくしに立つ噂もいくらか種類があると聞いています。甲斐武田の膝元ではわたくしはどう悪口をいわれているのです?」
「それは、私の口からは」
「決して怒りませんよ」

優しげに姫が尋ねるので幸村はやがて押し負けた。

「残忍な風魔忍びの頭領と、その…仲よく、して、毒を飲まされた変わり者の姫君だと」

しつこく言い寄り風魔小太郎に面倒がられて毒殺されそうになった、という噂がさすがに面と向かっては言えない。

「そうか」

姫はまた微笑んだがそれ以上幸村に詰め寄るのをやめて、もといた場所に座り直した。ひざ掛けにしていた幸村の装束がズレたので自分と、幸村の膝へ整えてかけなおした。その所作の丁寧な様子が少し傷ついているように見えて、幸村はとっさに「すみません」と謝った。

「無理に言わせてこちらこそごめんなさい。そういうたぐいの話は慣れているから、本当に大丈夫」

カラと笑ってみせる姿にこそ、幸村はちくりと胸を刺される思いだった。
あたりは静かで、月はうす雲に隠されたのか、小屋の外を包む青白い光は今は弱まって感覚は聴覚ばかり研ぎ澄まされていく。横に座る人の姿が見えないのをいいことに、抱えた膝に幸村は顔をうずめた。しばらくふくろうの声が遠くにあるのだけ聞いていたが、一向、眠くならなかった。

「幸村様、眠って?」
「…いえ。目がさえて」
「そう、…それでは、あなた様はよくない噂のつきまとうわたくしと夫婦にならねばならないから、ひとつお話させてください。どうか」

ふくろうの声はいつのまにか消えていて、月の光はいまだ無い。

「噂は少し違う」

ぽつりぽつりと声は続く。

「小太郎はおじい様の命で、ある大名の盃に毒を含ませた。のちのちの禍根となる故、大名の名は明かせぬが」
「…」
「だからわたくしがその盃をとって飲んだ」
「な…、どうしてそんなことを」
「ふるさとの友達が罪を犯しそうになっていたら、あなた様はきっとおとめになりましょうや」
「はあ、それは、とめますが」
「全力で?」
「…、全力で」
「なにもわからないことはない」

途中から姫の言わんとしているところはわかったが、幸村は誘導尋問に最後まで答えた。

「小太郎は、ひとり殺し損じた」
「…」
「あれは他にもたくさん悪さをしているからきっと死んだら地獄に落ちるのは避けられまいが、人ひとり分、刑期は減った。それでよい。…いや、本心を言えば、わたくしがあれにしてやれることはそれくらいだと思い知った」

冷たい風に雲が流れて、小屋の外に青白い月明かりがぼんやりと戻ってきた。

「大切に育ててくれた家族の役に立ちにくくなったことはずっと後ろめたかったが、それもようやく、役立てる日を迎えられそうでわたくしは此度の縁談をとても光栄なことだと思っています」

が抱えた膝の向こうを見ながら、懸命に言葉をつむぐ姿も見えてきた。
頭の中をまとめながら話すのに必死で、幸村がじっとその横顔を見つめているのに気づかない。

「この左の顔はちょっとよくないが、あなたに精一杯優しくして、あなたと幸いになれるよう努めて、どんな思惑があろうと周りがなんと言おうと、この同盟を善きものへとわたくしたちの力で変えてゆきたいと、そう願っています」

居心地の悪さはいつのまにかたち消えて、明かりとりから差し姫を照らす月の光をいまは神聖なものに感じる。
この人がまもなく自分の妻になるのだと思うと、おとぎ話を聞いているような遠くて不思議な心地がしてきた。不躾という言葉も忘れて幸村は美しい横顔をぼうっと見つめ続けた。
幸村に返事もあいづちもない事をようやく変に思った姫がこちらに視線を寄越し、青白い光のなかでも姫の顔がみるみる赤くなるのを見た。

「す、すまぬ」
「何を謝ります。ご立派であらせられる。姫様の思いにあてられて私は自分がはずかしい」
「はずかしい?どうして」
「此度の結婚にどんな思惑があろうが周りが何を言おうが、それを善きものにしてやろうというそういう気概が私には足りなかったのです。そこに至る前の幼い、ヤケを起こすような心でばかりここまで来ましたから」

姫はよくわからない様子だったが、よくわかってもらわないほうが恥ずかしくなくてこちらにとってはありがたい。

「ところで姫様は風魔を探していつもこんな箱根の山中までお出ましになるのですか」
「いいえ、こんなに遠くまで来たのは初めてです」

小田原まで一日とかからない距離だが、姫君なれば当然か。

「嫁入りのしきたりで、まもなく一部の傍女を除いてそれ以外の人には会ってはいけないようになるのです。最後にお別れを言おうと小太郎を探したのだけれど城に姿は見えず、父を問い詰めると小太郎は甲斐に行かせたというものですから」
「然様ですか」
「あなたの故郷で悪さをしていないとよいのだけれど」

昼間の襲撃が思い当たったが、幸村は「はは」と爽やかに笑って見せて悟らせなんだ。

「夜明けまでまだ少しありますから暇つぶしに、姫様が秘密の話を聞かせてくださったかわりに、私もひとつ秘密を打ち明けましょうか」
「おお、それは楽しみな。交互に言いあって夜を明かすのですね」
「では私から」

と幸村が咳をはらう。

「私はあなたが好きになったと思う」
「…」
「秘密ですよ」

幸村が居心地がよくなったかわりに、はきゅうに居心地わるくなったのか、きつく抱えた膝のつまさきのあたりへゆるゆると視線を逃がした。瞠られたままの目をかわいそうに思ったけれど「次はあなたの番ですよ」と意識して明るい声で圧した。

「…ええ、と」

これまで気丈に振る舞っていたのがすっかり乱れている。

「ええと、その、小太郎は」

また風魔か。

「小太郎は、興奮すると犬になる」
「…それは、どういう」
「秘密です。もう仕舞おう。べ、別の話をいたせ」

幸村が作った妙な空気をかき消すように姫が袖をはらった。

「別の…。では、不躾ながらお尋ねしたいのですがあなたのこちらの目は見えているのですか」
「え」
「左の」
「ああ、見えていますよ。皮膚だけ、おかしくなったのは」
「見てもよろしいか」
「かまいませんよ。見てもさほど気持ちのいいものではないかもし」

前髪をすくい上げようとした姫の手を掴み、その手をおろさせ、幸村の手がの前髪をすくいあげ耳にかけた。その手をそのままの頬に添えた。
途端、姫はあたふたとして赤くなった。
うぶな様子に、この愛しげな姫君に想いをそそがれながら指一本出していないらしい風魔小太郎という男がなにを考えているのか想像した。
固くなった皮膚を指でなぞる。

「聞いているな、風魔。私は噛ませ犬になる気はない」

風魔の名に姫君が一瞬我に返ったのが妬ましくもあり、予想どおりでもあった。

「出てこぬなら姫をたまわる」

腰を抱き寄せ唇を触れ合わせる瞬間、突如黒い竜巻が小屋の屋根と丸太を吹き飛ばした。

血のごとく赤黒い毛の、巨大な獣が木立の中に立っていた。
全身の毛が逆立ち炎のように揺れている。
幸村は十字槍をたずさえて、これと対峙していた。背後に落下してきた丸太が粉塵を巻き上げ、弾かれた石が幸村の頬を細く切り裂くが微動だにしない。
不気味に揺らめく獣の前足の下には姫君が気を失って倒れている。しかし傷一つなかった。
幸村が一歩すり足で砂を踏むと、姫の姿を隠すように獣の頭が低くなり、地鳴りを伴ううなり声が強烈な殺気をもって幸村へ向けられた。

「猛ったか、風魔」

獣はいっそう牙を剥くが幸村は静かに槍をおろした。

「私の妻になる方を傷つけるわけにはゆかぬ。今宵は姫を連れて戻れ。箱根峠を下った道はおまえの庭、夜道も行けるのだろう」

未だ殺気をおさめる術をしらぬ獣をおいて、幸村は斜め横の木立を見上げた

「半蔵殿も、それでよろしいな」

気づかれていたか。
風魔小太郎は幸村が姫にちょっかいを出し始めたあたりから禍々しい気配がだだ漏れになっていたからさておき、いつからこちらにも気づいていたのか。
天然のお人よしのような面をしながら、やっかいな男だ。
幸村が視線を戻した時には、すでに風魔と姫の姿は立ち消えていた。
半蔵が木立のひと枝に姿を現して見せると、幸村は苦笑した。

「きっとあなたがいたから風魔は姫を助けに入るのが私に出遅れたのですね」

賊に襲われているのを見つけたとき、これまでなかったはずの風魔の気配が突然あらわれたのを、服部半蔵は感じていた。夕方に山に紛れてからおそらくはずっとこちらを監視していたのだろうが不覚にも半蔵はこれに気付かなかった。さすがに風魔の勝手知ったる箱根山においては、向こうのほうが気配を消すのがうまかったというわけだ。
姫を見つけ、あの混沌馬鹿が冷静さを欠くまでは。

「小田原へは行くのか」
「一旦甲斐へ戻ります。謁見に使う着物をなくしましたゆえ」
「…」
「ですが、着物をとってまた参ります」
「死ぬ気で来るぞ」
「いなしましょう。私の妻になる方を傷つけるわけにはゆきませんから」

存外にあきれた男だ。
箱根の山々の稜線に紫の線が引かれ始めたのを幸村は見つめ、半蔵に背を向けた。

「善きものとせねば」
「…」
「半蔵殿、家康殿に真田幸村は愚か者とお伝えいただいてかまいません。次の道中風魔に殺されることよりも北条家に望まれぬことよりも、風魔の腕のなかで姫が目を覚ましたとして、気を失ったままのふりをするかそうでないかが、私にはいま一番気がかりなのです」



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