はじめは五歳か四歳か、それくらいの夕暮れであった。
城を抜け出した。

「うぬはなんという」
「北条
「ふうん」
「おまえは」
「そのうち小太郎」
「園内小太郎?」
「ちがう。まだ小太郎ではないがそのうちに小太郎になるということだ」

これをふたり、断崖絶壁から突き出た木の枝に座って話している。
枝からぶら下げた足は宙空。



北条のもとにあってむごたらしきを生業とする隠密集団に、風魔忍軍がある。
風魔は代々、その頭領となる者が小太郎を名乗るならいがあったが、風魔の子はまだその名を襲名していなかった。
幼いながらその顔にはすでに紋様が刻まれ、肌は紫がかっている。
は“そのうち小太郎”から見知らぬ果実をうけとって、その甘い汁をすすった。
にも風魔の子にもまだ善悪や美醜の感覚が定まっていなかったのである。



城でも会った。
ふたりはかくれ鬼をした。

が先に鬼をするから、おまえは逃げるの」
「・・・」

出会ってから時間が経つにつれて、風魔の子は返事をしなくなっていった。
大人になってから思い返せば、恐らくは先代の風魔小太郎に北条の姫に口をきくなどもってのほかと、痛みとともに教え込まれたからだったのだろう。
先代が亡くなって彼が小太郎を襲名した頃になると、小太郎の口数は増え始める。口から出るのはおそろしい言葉ばかりだけれど、それはまだあとの話。

「とうまでかぞえたら、つかまえに行くよ」
「・・・」
「ひとつ」

目をつむって数え始めたというのに、風魔の子が走り去る音がしない。

「・・・ここのつ」

とう、と数えてふりむいたら中庭はザザアと木の葉を揺らすだけでそれ以外に動くものは見あたらない。逃げる足音などしなかったのに。
見渡して、はとりあえず探し始めた。
屋根の上 石灯篭のうら 古樹の幹 縁のした 池の中(鯉がいたのでしばらく眺めた)
背の高い草のなか 木の上 木のさらに上 沈丁花 菜の花 石のした 池の中(鯉がいたのでしばらく眺めた)
日が暮れて鼻緒がこすれて足が疲れて泣き出すまで見つからなかった。
鯉のいる池で泣いていたら風魔の子はやはり無言で、いつのまにか背後に立っていた。

「いたぁ」

わあわあ泣きながら風魔の子の手をつかまえる。
いつもそう、が鬼ではじまって一回戦でかくれ鬼は仕舞う。






***



重ねの裾をひきずって二の丸中庭までお出ましになった姫君は、名残惜しくそれらの景色を目に刻んでいた。
明日、いよいよ徳川へ嫁入りする。
関東でせめぎ合う北条と徳川の和睦を成す、大任である。

「なにか思い出がおありですか」

あまりが目元を和ませて眺めるので、年老いた乳母女がたずねた。

「小さい頃にここでかくれ鬼をしたことを思い出したのです」
「左様でございましたか」
「いつも、まずわたくしが鬼をしてあの子は逃げるほうでした」
「はて、どこの若子でしたか」
「園内家のおのこ。毎日のようにかくれ鬼をして、けれどわたくしは一度も見つけられなかった」

乳母女は、はて、ソノウチ家など家臣にいたろうかと考え込んだ。最近物忘れがひどくっていけないわ、と考えをくくる。
年月を経て会う回数は少なくなっていったが、と小太郎はつかずはなれず、しかし不思議と細い糸は途切れなかった。
十五、六歳のころ、一年ぶりに会ったら小太郎の背が倍になっていてそれはそれは驚かされたものだ。
けれどそれを乳母たちは知らない。が伝えなかったからだ。
同じ北条に仕える身であるはずの誰もが、風魔忍を”けがれ”と呼んでいた。

「ちっとも表情を変えない子で、わたくしが泣くと決まって後ろにやってくるのです。あれは楽しい遊びでした」
「まあ、姫がお泣きに!ばあやは姫が泣いたお姿などややの頃以来見たことがございませんのに」

はそうだったかしら、ととぼけた。

「さても。そのようにご気丈な姫様にお嫁の行き先ができてようございました」

乳母女はからかってそう言ったが、深くたたまれたしわの奥の目に寂しげな色がある。
そんなころ、侍女が乳母を呼びに来た。

「おつぼね様、姫様のお嫁入り道具が整いましたので、どうぞおあらためくださりませ」
「おお用意できたかや。では姫様、ばあやは下がりますゆえ」
「うん。たのみました」

嫁入り行列は今宵、発つ。



ひとりになって、ゆかりの深い鯉の池まで来たとき、ふっと血のにおいが鼻腔をかすめた。
振り返ってみると、西日でできた影でをすっぽり覆うほどの大男が立っていた。
顔に紋様、眼光は獣のように鋭く、腕には鋲を穿った篭手、およそ異形のいでたち。
風魔小太郎である。

「噂をすれば“影”じゃ」
「・・・」

は呆気にとられた直後に可笑しくって笑った。小さいころと同じで、たまにしか返事が返らない小太郎を覗き込む。

「血のにおいがする、怪我をしているのですか」
「しておらぬ」
「させてきたのですか」
「させてきた」

小太郎の正直すぎる物言いにはいつもどおりあきれた。

「無慈悲な殺生をしやるな。おまえの異能は誇りを守るためにお使いなさい」

から会いに行ったことはないが、この忍はときどき会いに来る。
から会いに行ったことがないのは、そうしたいと思っても風魔の住処がどこにあるのかわからないからだった。

「そろそろおまえの住処を教えておくれ、おまえばかり神出鬼没に会いに来てくやしいでしょう」
「教えぬ」
「おうちがおかしくっても気にしませんよ。わたくしはもう小太郎の顔をみてもちっとも驚けないのですから」
「教えぬ」
「隠されると、春画でも大量に持っているのかと勘繰ります」
「そこまで不自由しておらぬ」

の下駄が小太郎のすねをコツと蹴った。幾百の矢に突進していってすべてをかわした末に弓兵の首を取ってしまうような風魔の頭領が、その蹴りは甘んじて受けていた。
遠目に見れば鬼とスミレの花のような対比である。
ところが、スミレの花のたとえの女は徐々に勢いを失って池の面をじっと見つめた。
池を泳ぐ鯉の背が夕日に照る。
雨でもないのに水滴が落っこちて水面に波紋がひろがった。
鯉は驚きそれきり深くへ沈んだ。

「かくれ鬼をしたい」
「・・・」
「今度はおまえが鬼をなさい」
「・・・」
「ね」
「よかろう」
「目をとじて」

小太郎がの顔を見る前に、凶暴な双眸を白い手がすばやく覆った。
恐れもせず。
の寂しいときに会いに来るこの忍。
はいっぱいに手を伸ばし、背伸びまでしてそれでもようやく手のひらが風魔の顔に届いただけだった。
どうがんばっても口と口は

「・・・」

観念して、は親指でそっと小太郎のまぶたを伏せた。

「明日の昼まで数えたら、目をあけて探しにおいで」












***



両の目を覆った手が離れ行き、が遠ざかる音を聞く。
頭蓋の中で数をかぞえる。
目を開けると一面の闇、今宵は新月。
仰いで夜闇をすう。
踵を返すと現れた狼どもが同じほうへ土を踏んだ。
「うぬらも行くか」
狼が喉を鳴らす。
とん、と小田原の誇る大門に跳び乗った。
城門より臨むは徳川
きゅっ、と哂う。
牙をむく。
びゅうと風があったかと思うと闇が体に絡みついてその姿は夜に溶けた。

今宵は新月

我は風魔

混沌を呼ぶ凶つ風





その夜、徳川は風魔忍軍の急襲をうけた。
徳川腹心の服部半蔵は屋根瓦の上でスノーボードのように踏みつけられ、徳川家康は風魔小太郎の前に膝を屈し、たった一晩のうちに徳川一門は風魔の傀儡と化した。

「これも座興」

小太郎は駿府、徳川御殿で杯をあおって見せた。
家康にとってかわった小太郎が首座に座り、「ははぁ」と下座で家康が額づく。
風魔小太郎はそれをつまらそうに一瞥し、闇にぎらりと光る双眸をまぶたの奥におさめた。
頭蓋の中で数の続きをかぞえる。

明日の昼まで数えたら、目をあけて探しにゆかねばならない。



おしまい