見知らぬ平城の異形ひしめく板の間にはいた。
蝋燭の薄暗い灯りのなかに、あやかしか獣としか見えぬ者どもが狂ったような声をあげながら杯をあおっている。その者どもの最奥、無残にちぎれた掛け軸の前に異形どもの長が、これだけは物言わず坐している。オロチといった。肌は鱗で覆われ、眠たいような目は血のごとくに赤い。の前に置かれている杯の湖面と同じ色をしている。

不気味な酒宴のなか、北条氏康なき小田原の将らは下座に追いやられ、前に並べられた生臭い杯には誰一人手を付けずに膝の上できつくこぶしを握っている。ここにいる数名以外、氏康はじめ、北条軍のほとんどの将はいまもってその行方がようとして知れない。
武人ではないがもこの酒宴に招かれたひとりであった。
華美に飾りつけられているわりに、その表情は陶器のように動かない。
を守るように北条の将はひとかたまりに坐してじっとしていた。しかし、守護の要、の真正面だけがぽっかり二、三人分ほど空いている。そこを通してひっきりなしに舌なめずりするような視線が送られてくるのだった。姫の前には杯がもうひとつ、手をつけないまま置いてある。
不意に、の着物の裾がぴんと張った。
太ったカエルを思わす異形が床に手を這わせて羽織を掴んでいたのである。
これに気づいた若い将が「やっ!」と胴震いして膝を起こした。

「貴様、その手を放さぬか!」
「おやめなさい」

柄をあげかけた若武者を、場違いなほど静かな声が制した。である。
カエルの異形は男がきゅうに立ち上がったことにびっくりして、ぴゅうと獣の間に逃げていった。この一幕をニタニタ眺めていた化け物どもはさもおもしろそうに下品な声をあげて、逃げこんできたカエルを褒めたり叩いたりしている。
しぶしぶ柄から手を放したそばから、姫君への嘲笑に今度は血走った眼を向ける。

「よい」
「しかし、姫様っ」
「よい」

なにごとか言わんとした将の口は…閉じ、歯をくいしばってその場に座った。
いま我らには従属するより道はない。
それにしても、ここまで眉一つ動かさないとは、さすがに北条氏康が息子たちより見込んだ孫娘様である。

宴が進みしばらくすると、今度は巨大なイノシシとしか見えぬ化け物がふらふらしながら北条の集まる一角に寄ってきた。またも若い将は膝を起こしたが、今度はまわりが制した。
イノシシがの前に屈む。白い肌すれすれに鼻を寄せて、鼻の穴をひろげて顔をゆらしはじめると、この蛮行には制止していた将もさすがに猛って刀に手をかけたが、当の姫君は目の前の化け物が見えないかのように正面を見据えたままである。
化け物はこの気高い乙女を蹂躙することを想像していよいよ鼻息を荒くし、辛抱たまらず銀糸の着物の胸元に毛むくじゃらの前足をむんずとかけた。
この時、背後の襖が開き、異形の大男が現れた。
捕虜の身でありながら、遅れに遅れてようやく姿をあらわした風魔小太郎である。
味方の登場のはずだが、北条の者たちは憤りと疑念を込めて風魔小太郎を下から睨みつけた。見た目でいえばどう見てもあちら側なうえ、どうも「混沌」目当てであちら側についている気のある、うろんな輩である。北条の姫君を差し置いて、いまはこれが自分たちの大将であることも気に入らない。
小太郎はオロチ軍と北条勢から一斉に向けられた視線を無感動に一瞥し、けだるそうに梁をくぐって入って来た。
うろんで妖しい輩とはいえ、あちら側からみれば小太郎も北条の一派である。遅参を咎められて何をされるかわかったものではない。将らは脂汗をかいて唾を飲み、膝をにじって道を開けた。

小太郎は自分の入る場所だったろう二、三人分の空きにいる毛むくじゃらを、無言で見おろした。
視線が交わって一秒とせず、毛むくじゃらは不満そうに鼻を鳴らしてのしのしと遠ざかって行った。
空いた場所に小太郎がどっかと腰をおろすと、しばし止んでいた醜い声の乱痴気騒ぎがまたあちこちで沸き起こり始めた。
北条の諸将は肩を寄せあってできるだけ小太郎から距離を置こうとしている。
近づいたのはただ一人、胆の据わった姫君であった。
うしろから小太郎の手首をとんとんと叩いた。小さな声でいう。

「小太郎」

預かっていた杯を渡そうとしているのだ。形だけでも置いておけと。
その白い手を突如、熊手のような手が掴りつぶした。
将らは戦慄して一斉に白刃を抜きはらう。
振り返ってを睨んだ小太郎の眼光の鋭く、恐ろしいこと。

「こ、こ、こ!この乱波者めがっ!」
「その手をはなせ無礼者!」
「今日という今日は許さん!キエエエエイ!」

立ち上がって刀を振り上げ、自らを奮い立たせる大声を発した。
小太郎とを取り囲む北条勢の叫喚によって、小太郎の発した声はのほか、誰の耳にも届くことはなかった。



”つめたい”



手が放され、小太郎は赤い杯をとって一息にあおり、血の味が気に入ったのか、足りぬとばかりの前の杯も奪って飲んだ。
は引っ込めた手をもう片方の手で包み、気丈を演じきれていなかった体温をそっと胸にあてた。



おしまい