「姫様、ちょいとよろしいですか」

左近の呼んだ姫君は本来「奥様」「お方様」と呼ぶべき人なのだけれど、この男は未だにそれを幼く呼んでいた。幼く思っているからだ。
は横になっていた身体を起こすと、うん、と応えた。石田三成の正室である。
左近が開いた障子の向こう、緑の景色がまぶしい。は自然と目を細めた。
「よい天気」
「ええ、秋晴れですよ。少し開けておきましょう」
左近は障子を開いたままにして「どっこらせ」との傍らに膝を折った。
それから丈夫な紙に包まれた反物を転がした。
「きれい」
「殿が姫様にと」
「三成様が、これを?」
左近が反物の華やかな柄を広げて、の膝の上に重ねた。
「里に行商の一団が立ち寄っていましてね。近くの村からも買い物に来ていてそりゃあ賑やかなものですよ」
左近が身振り手振りをつけて言う。
「そうなのですか、嬉しい。左近見て」
身体に合わせて立ち上がった。
「ようっくお似合いでございます。殿もご自分でお渡しになればよろしいのに」
「お忙しいのでしょう」
「忙しさにかまけてるんですよ、左近が男としてガツンと言っておきますゆえ」
「ありがとうとだけ伝えておくれ。嬉しいと」
「おやあ、こりゃ姫にもガツンと言わなくっちゃあいけませんな」
左近は目をまるくして滑稽に振舞った。
は苦くうなずく。
「お礼を申し上げるのと一緒に、わたくしにも何か差し上げるものがあればよいのだけれど。この前もかんざしを戴いたし」
「夜這って差し上げれば喜ばれましょうかと」
「そ、そういうことではない。不埒者」
動じた姫君を見て、左近はくつくつと笑った。
「お気持ちはわかりますがね、姫がこのお屋敷で穏やかに笑っていらっしゃるのが殿にとっては一番のよいことだと思いますよ」
左近の一般論はにも正しいのだろうと理解はできた。納得はできないにせよ。
はしばらく思案して、恐る恐る提案してみた。

「・・・按摩、とか」

左近は「あんま」と復唱して顎を撫でた。ううむと悩んで見せてから、打ってかわって深刻な表情に変わる。

「揉む場所によりまする」
「下がりゃ左近」

穏やかなはずのもさすがに怖い顔でぴしゃりと言い放った。

「ところで、行商はいつまでいるのですか」
「はあ。あと二日したらもっと東へ行くそうですが」
「・・・」
「姫」
「うん?」
「なにか買いたいものがあったらこの左近が名代つとめますれば、ご自重なさいますよう」
む、とはあごをひいた。
「いつまでも子ども扱いするでない」
「これは失礼、姫様は分別のある奥様でいらっしゃるのだから物珍しさに惹かれてお独りで城をでることなどあろうはずもござませんな」
左近はこれも身振り手振りで大仰に言うので「せぬ」とは唇をすぼめて顔を赤くした。

いつまでも子ども扱いするでない

とは言ったものの、は一度佐和山城の門を振り返ってごめんなさい、と思った。
足はうまくゆかないときもあるけれど、ゆっくりなら村へ続く下り坂を降りてゆくことができるだろう。
ゆるい坂だし、一本道、迷うことはない。
足取り軽く、手も軽く、は坂道をくだり行く。
巾着になけなしの小遣い。しかもそれは銭ではなく砂金である。城から一歩も出ないには物を買う銭がひどく遠い存在だった。
途中、三成似のお稲荷様の祠があったので花を供えた。
扇が良い。
扇を贈りたい。
「あ」とは頬をほころばせた。もう里の屋根が見えた。






「殿、ご命令を相果たしましてございます」
「ご苦労」
「喜んでましたよ」
「・・・」
「ありがとう、と」
「そうか」

三成は背を向けて筆をとったまま特に反応を示さなかった。左近の位置からでは背しか見えない。
ちょっとは照れてるのかしらと覗いてみると、筆が止っていた。顔を見るまでもない。
左近は腹を抱えて笑いたいのをこらえた。
「殿にお返しがしたいって困ってましたよ」
「困る?何にだ」
三成は振り返った。

「どこを揉めば喜ぶだろうかって」
「・・・ど、どっ、そっ、なっ」

三成は顔を真っ赤に染め上げてぱくぱくと意味のない言葉を言ったり飲んだり。
この反応が左近がからかいたくなる理由であり、この夫婦大丈夫かと心配するゆえんでもある。
「そ、それより、殿が里にひとりで下りたりせぬよう夕方に見に行ってくれ」
「はは、まさか。姫様もそこまで大胆なお方ではありますまい」
「曲者を見つけて笛付き矢を放つ人だ、あなどれぬ」
「しかり!」
そう遠くない懐かしい思い出がぶり返し、左近は膝をぽんと叩いて豪快に笑った。
この左近は同日夕刻過ぎ、「様のお姿が見当たりません」の報をうけた瞬間に三成の執っていた筆に亀裂が走るのを見ることになる。






普段はひっそりとした城下の里であるが、市が立ったことで人と肩がぶつかるほど盛況ぶりだ。
小袖で気軽に歩く人々の間で笠などつけているのはだけで「金持ちです」と言いふらしているようなものだ。
しかし幸か不幸か、ならず者に囲まれるより前に行商たちに囲まれた。
あれやこれやと勧められるのを必死に振り切って、逃れた先、扇は案外簡単に見つかった。
「これは一対の扇だよ」
「これで足りますか」
手の中の砂金はもちろん扇二つを買うには多すぎる対価である。商人は金の量と手のひらの美しさを見たあとに
の顔を見上げた。
砂金、金持ち、傷のない手のひら、世間知らず
これはこれはよいお客。
ふんだくれる

「すこーし足りないね。そうさね、着ている絹も買おう」
「これですか」
「そう、そうしたら着物と砂金あわせてこの扇二つと交換しよう」
「・・・これは」
きゅっと着物を掴む。
これは三成様がくださったもの
「すみません、これはお売りできないのです」
「そうかい。ふうむ」
商人はわざとらしくあごをひねる。の着物や足元など色々を見るふりをして、近くに護衛の者などいないか確かめた。いない。
だあれも。

「では・・・それをいただこう」

商人はまっすぐにの顔を指差した。






夕立は容赦なく降った。
城へ戻るための道のりは降りるときより険しくなったのである。
商人に売り渡さなかった着物もびしょ濡れ。前髪から落ちる水滴をぬぐうことも忘れて、扇だけは濡れないように懐の深くで抱きしめる。次に踏み出した足がいっそうゆるい土に乗り泥を跳ね上げて転んだ。
行きに花をそなえたお稲荷様の小さな小さな祠を見つけ、はそこに身体を寄せてうずくまった。途端背後の森から獣の低く唸るような声。いまのはきっと風の音、風の音・・・

つめたい
さむい
女中たちや門番は怒られていないだろうか、三成や左近は心配しているだろうか
黙って雨に打たれていたら自責の念が押し寄せて、思わず涙が

「姫様、ご無事ですか」

涙がひっこんだ。






息をきらして夕立をものともせず走る三成が二度三度と転びかけた。若さで持ち直して再びトップスピードのまま城門から続く傾斜を駆ける。ひょろっこいように見えて案外脚は速い。
馬を用意する時間も嫌って走りだした二十代の主君をおいかけなければならない中年は必死だ。傘ひとつさして、もう一本の傘と雨よけの羽織を脇に抱えて頑張る頑張る。
ともすれば見落としそうなお稲荷様の祠にを見つけたのは左近だった。立ち止まった左近に気付いて行き過ぎた三成が走って戻ってきた。
雨に濡れて泣きそうだったは左近を見つけると一瞬ぽかんとして、それからまた泣きそうになった。
ともかく見つかってよかったと左近はほっとする。
「・・・さ」
さこん、とが言い終わる前に左近は眉をピンと動かして、顔を動かさずに目だけで右を示した。
こっそり。
「さ」にむっとした三成が左近の右斜め後ろにいる。ゼイゼイ言って、肩を激しく上下させて、風呂でもはいったようにずぶ濡れ、唇は真っ青だ。
が開口一番「さこん」とばかり言うのをかなり気にしている三成が。
の口は「さ」の形。
さあどうする。


「さ・・・きち、さん」


三成はかっと赤くなってびっくりした。佐吉は石田三成の幼名だが、そう呼ばれたのはこの場が初めて。
左近は「お上手!」と言いそうになってこらえる。
三成が左近をどけて前にでた。
「皆に心配をかけて、一体どういうおつもりか!」
三成の雷に打たれ、はうなだれる。
「下の、行商のところへ」
「下の?その足で?おひとりで」
言葉はとげとげ。
は何も返せず、「なんという無謀!」と三成が吐き捨てた。
怒る主に対し、左近はの姿を祠から傘の中に招きいれ、「おや」と首をかしげる。

「姫、おぐしが」

耳の横の髪だけが首の辺りですっぱりとなくなっている。
なんとなく怒られるのを察したのか、は手のひらで毛先を握り隠した。
三成の顔色が変わる。

「誰がこんなっ、誰にやられたのだ」

左近を押しのけて三成が割って入った。

「・・・売りました」
「まさかっ」と眉根を寄せた三成の声は左近には悲痛にさえ聞こえた。
「持ち合わせでは足らなかった、ので・・・」
「羽織でも何でも、ほかに手はありましょう」
「三成さまがくださったものを売ることなどでき」
「着る本人を売るものがありますか!」

肩を揺すぶられ、は大粒の涙を浮かべて唇を噛む。
それきり黙った。

「ごめんなさい」
「ええ」

「ごめ、なさっ」
「ええ」

「こわかった」

ポスン、との身体が三成の腕の中に戻ってきた。
おさまるところにおさまったわりには三成はどぎまぎして「そうか」などと言いながら目と手がおよいでいる。
きゅうと抱きしめるまでには毎度毎度時間を要する二人なのだ。

・・・・・・

・・・・

・・きゅう


左近はしばらく後ろを見ないようにしたあとに、傘の外に手を出した。
「さてさてお二人とも。夕立も止みましたし戻りましょう」
「うむ」
満足そうな三成がを抱える体勢に入ろうとしたとき、
「さ、姫様」
たった一声では三成の腕をすり抜けて、左近のところに行ってしまった。
「どっこらせ」と抱き上げられて定位置におさまる。
三成は斜め後ろで地団駄を踏んで、これも定位置である。






「ところで姫様、何を買ったんですか」
「一対の扇を」
城への登り道、一対と聞いて三成は内心ガッツポーズだ。
「ほう!それはまた仲がよろしい。いやはや羨ましい」
「三成様に、気に入っていただけると嬉しいのですが」
包んで胸に抱きしめていた扇はついに濡れることなく三成の手に渡された。
「ふ、ふむ。嫌いではない柄です」
「よかった」
平常を装ってはいるが、扇を受け取った手が嬉しさで震えているのを見、左近には微笑ましい。
主のご機嫌もなおったし、めでたしめでたし。
「左近にも」
「おや、俺にもですか!ありが」

凍った。
左近の手に渡ったのはもう一方の扇。
三成のと揃いの。
一対の。
ザッと左近が青ざめた。

は嬉しそうに微笑んで
「三成様と左近でおそろいにしてみたのです」
と言った。

今度は地団駄どころか地響きを聞き、左近は減俸を覚悟した。



おしまい