「あの女だな」

鍾会は人だかりを掻き分けズイ、ズズイと進む。
人の輪の中心、大きな屋敷の門前では、「ごひんひょひち」と豪語するご老人、歯の抜けた老のかわりにいえば「ご近所いち」を豪語するご老人と美しい娘が碁盤をはさんで向かい合っていた。
娘が繊手をついとひらめかせると「おお」と覗き込む者どもから低い歓声があがる。歓声があがるたび、一方のご老は組んだ腕をきつくしぼって、はじめた時よりずいぶん小さくなっていた。
ようやく鍾会が人垣を掻き分け終わって中心にたどり着いたとき、
「ごひゃらふ」(ござらぬ)
ご老が指す手をなくして投了した。
やんややんや拍手と指笛がはやしたて「じゃあ次は俺が」といきまいて腕まくりした二番手の男の前に青いマントがひらめいた。

「私の相手をしていただけますか」

英才教育をうけた誉れ高き才、鍾会である。
彼が女相手に一応丁寧に言葉をつくろったのは、いま鍾会を見上げた女が司馬仲達の娘であるからだ。
はしばらく鍾会を見上げていたが何も言わない。結局何も言わずに顔を盤に戻し、門前に置かれた朱塗りの腰掛けに座ったまま、盤に敷かれた石を拾い、翡翠の箱に仕舞いはじめてしまった。
「・・・なにをしておられる」
「片付けでございます」

「逃げるとは、お言葉ですが“臆病者”」

司馬家の娘に向けるにはあまりにもな“お言葉”だ。野次馬たちはおののいたが、言われただけは怒る風もなく片付けを続ける。ひょいとその手にあった箱が奪い取られた。
「お返しください」
「石が返してほしくば陣取りで勝てばよろしいでしょう。私はあなたに貸しがある」
貸しが在ると言われても、にははじめて会った変な人でしかない。鍾会は老人をどかすと、困惑するをおいてパチンと先手をさしてしまった。






時を少しさかのぼれば、今日は都きっての名棋士と鍾会の大一番が企画されていた。
だが広く用意した会場にはさっぱり、本当にさっぱり人が集まらない。申し訳なさそうに家人がパラパラと見に来たがそれがいっそう鍾会の顔に泥をぬった。さっさと名棋士殿を打ち負かし、
「なぜ来ない、なぜ誰も来ないのだ、英才の誉れ高(略」
と家人につめよった。

「み、都で評判の美人の門前対局が行なわれているからではないかと」

押し切られて家来の誰かが言ってしまう。
「やい、やめろ」
「言うなバカ」
「またぼっちゃまが波乱を起こす!」
まわりの者が慌てて家来の口をふさいだが時すでに遅し。
ぼっちゃまはすでに剣を引っつかみ会場を飛び出していた。






時は進んで話は戻って、は強かった。
大将軍のように勇気を持って力強く指すときもあれば、朝露にぬれた花のごとく稀有にきらめく一手で魅せる。あるいは、口の無い暗殺者のように静かに背後を詰めることもあった。
女とはいえさすが司馬懿を父に持ち、司馬師を兄に持つだけのことはある。の才を誰もがおおいに納得して頷くゆえんだ。もう一人の兄、司馬昭の名がでないのは彼は碁がへたくそだったからだった。
鍾会は劣勢にある。
しかし劣勢は彼をいっそう頑なにしてゆく。恥をかかされるという恐れは鍾会のなかでは等しく怒りへと変換されてしまうのだ。鍾会はいまの局とおなじに、死の路へ向かう凝り固まった怒りを御すことが出来ない男だった。
の対局相手たちの大半は、碁をすることよりものような高貴な美人が一対一でかまってくれることが嬉しくて対局を申し込む。しかし鍾会の場合の美しさなんて地面の蟻と同じかそれ以下で目に入らない。
だから気づかぬ。
白いおもては鍾会の攻撃的な意気に気圧されてかいつもより青白く、高く上った陽のもとにさらされて汗が見える。ほっそりとした首筋にはりつく髪を見て取り囲む男たちはほうっと桃色のため息をついているというのに。
そこに、ざわ、と変などよめきがあがった。
「おい」
「いま、あれは」
「どういう手だ」
「俺が知るか」
「なんでだ」
の細い指が石を置いた先は、なにかの間違いとしか言いようがない、自分を不利にするようなものだった。
観衆よりも驚いたのは鍾会だ。
「貴様、ふざけているのか。こんな手は・・・あ」
ここではじめて、鍾会はの表情をまじまじと見た。はなんなら鍾会よりも驚いて、しまったという顔をしていた。美しい顔が歪み、奥歯をかみ締め、汗がぽたりと碁盤に落ちた。
その顔を見つめたまま、なぜだか目がはなせずに鍾会は手がカクンと落ちるままに石を置いてしまった。幸いにも、まあ悪くない場所だ。
肌寒い風がそよぎ、ちちちと小鳥が司馬家の門をくぐっていった。
運ばれた落ち葉が碁盤にひっかかる。
局面はしばらく微動だにしない。
さして長くない苦汁のにじんだ思案を置いて、長いまつげの影がいっそう長く頬におちた。はこうべを垂れたのだ。

「・・・参りました」
「あ、おい、待てっ」

投了した途端は門の中へと早足に入っていき、鍾会はそれを追いかけていった。
観衆はあるじを失った盤といっしょに取り残されて、門のなかをぽかんと見つめていたがさすがについて行くことはできない。鍾会がお邪魔しますも言わずに駆け込んだそこは、司馬家の別邸なのだから。













玄関へ一目散だったのに鍾会が追いかけてきたことに気づくと、は屋敷の玄関をそれた。
あの全身ピタっとした鎧を着て追いかけてくる変な人を屋敷の中にいれてはいけないと思ったのかもしれない。しかしそれは明らかに判断ミスだ。はだだっ広い司馬家の、裏庭という名のただの竹林に迷い込むことになってしまった。
母屋からぐんぐん離れて変な人とふたりきり
何をされるかわからない。
「おい、待てっ、待てと言っているだろう!」
に地の利はあれど、女の足と男の足だ。やがて追いつかれ
「待てというのが聞こえないのかっ」
の袖を引っつかんだ。ところがは外套だけするりと脱いでなおも逃げた。
「バカにしてっ、蛇かあの女!」
女物の高貴な袖を握りつぶし土にたたきつけ、鍾会はなおも追いかける。






ようやく追いつめたときには、はすでに道祖神にしなだれかかって衣を砂で汚していた。
靴は片方失っていて素足である。
「ふっ、追いつめたぞ臆病者の蛇女」
司馬家の姫である。
「少し碁が打てるからといって調子にのったな。しょせんは女、息があがっているぞ」
ぐったりして細かな息のたび忙しく肩を上下させるを高い頂から見下ろし、鍾会は肩で息した。ごくんとひっかかっていたつばを飲み込んで息を落ち着かせると、改めて偉そうに指をさす。
「貴様、なぜわざと負けた」
「・・・」
「答えろ。あれでは観衆のなかにはおまえがわざと負けてやったと勘違いをする無知な愚民も出るだろう。私の経歴に瑕をつける算段か」
「・・・わざとではありません」
はいかにも息苦しそうに、かすれた声でそう返した。
「わたくしが誤ったのです。だから」
「だからなんだ」
「あっちへ、行って」
その言葉が鍾会の怒りに火をつけた。
の襟首を片手でひっ掴むと、引き剥がそうともがいたの手をものともせずに身体を引き起こす。
「来い」
「い、いや」
「いますぐ戻ってもう一度打て。さもなくば許さん!」
「放して、放してくださいっ」
「断る」
錯乱したように無策に抵抗していた手が邪魔で鍾会は二つの手首を片方の手でひとまとめに掴んだ。手を封じられ、次は頭か足がでるだろうと予想していたが両方とも来なかった。
「・・・うっ、う」
ぐうっと小さな背が丸まる。痛みを堪えるような声がわずかに唇からこぼれた。鍾会は怪訝に思ってどこか痛めたかと見返すが、手首はそんなに強くは掴んでいない。細いから痛いのか。あるいは足でも踏みつけてしまったか、片方の素足で小石を踏んだかもしれない。
足元を見た。

白い足首に赤い糸が張り付いている。

食い入るようにその色の対比を見、鍾会の不躾な視線に気づくやははっとして目の淵に涙をうかべた。
鍾会は不意に手から力を抜いて、後ろへニ、三歩よろめき下がった。「あ」「あ」の形でバカみたいに口が開いている。
襟首と手首が開放されると、は土に座り込み、裾を引っ張り血の網がかかる足首を必死に隠した。
「あっちへ行ってくださりませ・・・」
うつむいたからもう最後と言わんばかりの声を聞き、鍾会は駆け去った。
は羞恥にまみれて悲しかったが、見知らぬ男に見られているよりはましな状況になった。胎を鉄の武器で裂かれるような痛みに手のひらを当てて耐え、痛みもまたはやくあっちへ行けと、短い息の間で祈り続けた。
痛みと強烈な眠気に朦朧とする意識のなかで、はあのピタっとした鎧の男が舞い戻ってくるのを見つけてしまった。
もう嫌がる気力もなく、道祖神に完全に身体をあずける。
鍾会は今度こそ激しく息をきらせての前に立つと

「はい!」

が途中の道で落としてきた羽織を必死な顔で差し出した。ここまで散々、が今まで聞いたこともないような罵詈雑言を浴びせかけてきたくせになぜここだけ丁寧な言葉を使ったのかにはわからなかったが、どこか笑える姿だった。笑う力はないけれど。
はついに力尽きて、目の前がくらくなった。
もう寝ているか起きているかもよくわからない。
身体がゆっくりと優しく横たえられて、その上に布がかかるのを感じた。素足に固い手が触っている。
「なんで、・・・そ、そういう時に遊んでいるんだよ、貴様はっ」
今日はまだ大丈夫だと思っていたの
声になったかわからない。
どこかでぬげたはずの靴が足に戻ってくる感覚があってから、は完全に意識を手放した。







***



夢も見ない短い眠りを経て目覚めると使い慣れた寝台のうえだった。
短い、と思っていたがもう夕日が差し込んでいる。
身体はお湯でふやけて膨れてしまったようにむくんでいて、まだ眠り続けたいほど眠たかった。
「起きましたか」
何度も落ちそうになっていたまぶたがパッと持ち上がる。寝台の傍らには王元姫が椅子に腰掛けて、手にしていた刺繍糸を棚に置いたところだった。
「倒れたと聞いて、あなたのお父上とお兄様方まで駆けつけてしまって大変な騒ぎだったのですよ」
は飛び起きて部屋を見回した。
「追い返しました」
元姫は無表情の中にちょっとお姉さんぶった笑顔を含ませて見せる。
「・・・ありがとうございます、元姫様」
「門前で碁を打っていたとか」
ぎくりとしてはかかっている布団を両手で握った。
「ごめんなさい」
「あまり無理と無茶をなされてはいけません。あなたには、女の事情にめっぽう疎いわりに心配性のご家族がたくさんいるのですからね」
母を早くになくしたにとって、王元姫はよりどころだ。その彼女にたしなめられては、はしゅんとして「もうしません」と従順にうなずくほかなかった。







すっかり体調も戻ってからは本邸に顔を見せに戻った。
の元気な姿を見ると、司馬懿と司馬昭は「下痢はもう治ったのか」とトンチンカンでデリカシーのない事を言って喜び、司馬師だけはなんだか複雑そうな顔での頭に一度ポンと手を置いただけだった。
普段は別邸で気ままに過ごすのだがあの変な人にまた会うのも気まずいし、しばらくは本邸で過ごそうと、は思った。
あんなところを見られたのにはどこかあの変な人を嫌悪しきれずにいる。普通は屋敷の女を呼びに行くだろうにうろたえて、の羽織と靴を持って一生懸命駆け戻ってきた。よりも年上に見えたがきっとあの人は女の人と恋愛をしたことがないのだろう。
は家族で食事を囲む席でくすっと思い出し笑いをした。

、なにを笑う」
「いいことでもあったのか」
「おまえは父上みたいにフハハハハーて笑うなよ?」
「昭」
「食事中にごめんなさい。この前会った変な人のことを思い出したのです」
「変な人?」
「それって男?」
「なっ、なんだとっ!?、父は許さぬぞ。おまえは末とはいえ司馬家が娘。私が見極めた立派な男でなくては娶わせぬ。いやむしろ娶わせぬ」
「父上、落ち着いてください」
きゅうに物騒になった食卓に、召使いがたいそう慌てた様子で飛び込んできて話はそこで途切れてくれた。がほっとしたのも束の間、
「へ、変な人がおもてに」
全員の箸がとまる。
「姫様に会わせろと言って」
以外の男たちが先にガタンと立ち上がった。



本邸の巨大な玄関の前では、案の定鍾会がが出てくるのを待ち構えていた。
の背後には司馬懿、司馬師、司馬昭が腕組みをして仁王立ちして、立ち向かうものを目で圧倒している。
「ふん、ようやくのお出ましですか。また怖気づいたかと思いましたよ」
「こんにちは」
鍾会は後ろの怖い人たちが見えていないのか眼中にないのか、をぎろっと無遠慮に睨みつける。
「この前は不本意にも中途半端になりましたが、今度こそ最後までお付き合いいただきますよ」
司馬一族の目の端にピシリと痙攣がはしった。
彼らはずいぶん器用な聞き方をしたらしく、蝶よ花よ育てた娘あるいは妹が鍾会に手篭めにされて、しかし前回は本番の前に男の方が我慢できずそーろーした図が浮かんでいる。
背にかかる圧力が増して、は場をなんとか鎮めようと笑顔をつくった。
「あいにくもう碁は「そこはぬかりありませんよ」
自信に満ち溢れた声が遮った。
ふふふと不敵に笑う鍾会は背後から一冊の紐綴じの冊子を取り出し、司馬一族へ向けて高々と掲げた。

「これを読んできましたからね!」






【月経のことがわかる本】








パパとお兄ちゃんが無双乱舞のアップをはじめました。