宴は栄華を極め、曹操のまえには名だたる名将名軍師がずらりと列をなして向かい合っている。
その列を眺めて憧れ、ため息をもらしていた配ぜん係の一人がふと気づいた。
「于禁将軍はおでましではないのかな」
「おまえ知らないのか、于禁将軍はこういう宴には出席なさらぬのだ。規則どおりきっちりと殿の許しを得てな」
「それはどうして?」
先輩の配ぜん係はお盆で声を隠して耳打ちする。
「于禁将軍の奥方様はご病気らしいよ」



于禁の妻となった人が病に臥せって久しい。
今にしてみれば心の病の名がつくが、当時は物の怪のしわざか呪いを受けたと呼ばれる。
しかし于禁は物の怪のせいとは思っていなかった。決して口に出さないが于禁自身に責があると思っていた。
于禁が左将軍まで上り詰めて、それでいてあの厳格な性質であるから人の恨みもかったろう。于禁への畏怖で収縮した感情のしわ寄せは時に妻や使用人たちへ陰湿に向けられることがあったのは知っている。なかなか子を授からないことも一因であったのかもしれない。
文句も愚痴のひとつも言わず、誰の前でもひときわに明るく振る舞っていた様子こそが危うさの前兆だったのだと、于禁を今更に後悔が苛んでいる。
重い装身具を取り払い、今夜も妻の寝室へ通う。
「起きているか」
はほとんどの時間を眠って過ごすようになっていた。
日に当たらない肌は青白く、まともに食事をとらない体は細っていた。味がわからないのだと言う。景色を眺めることも書物を読むことも、刺繍針もとらずに、何度も何度も着物の柄の同じ場所を指でなぞることばかりしている。
暴れることも泣きじゃくることもない。泣くときは声を出さずに顔もゆがめずに目から涙ばかり溢れ出る。
于禁はそのから唯一頼まれたことをすがるように守っていた。は臥せって以来何か欲しいものはないかと聞いても食べたいものはないかと聞いても、なにもいらないと言ったがある時、夜、眠る前に手をつなぎに来てほしいと、そう小さな声で于禁に頼んだ。それがの願ったただひとつだけのことだった。
返事のない部屋に入って着物の柄を人差し指でなぞり続ける妻の寝台に腰かける。
于禁は柄をなぞるのに使っていないほうの手を静かに握った。
この瞬間はいつも、昼間の冷血が別の世界の男であるかのようだった。
手は一度、于禁の手の中で震えたがそれきり死んだようにおとなしく力なく冷たく、于禁に握られている。柄をなぞる指はとまらない。
やみくもに贈った櫛はの髪をすくことはなく、高い着物も袖をとおされることはなかった。
の背に着物越しに胸をあてて、寝台のはしに乗ったままの小ぶりの碁盤を手繰り寄せる。
「続きをしよう」
于禁が石との右手をとってやらないと対局ははじまらない。左手はつないだままだ。
「ここか」
碁盤の上での手が止まったところに石を置く。
のそばにいる短い時間碁に興じるが、碁がにとって楽しいのかどうかはわからない。
対局は遅々として進まない。しかしこうする間にがときおりなにかを話してくれるのが于禁には細い希望の光だった。
言葉が生まれぬ日は、于禁はかつてが自分を連れ出し庭を散歩した日々の記憶をよみがえらせる。はじめのころは于禁にあわせて無駄口をたたかぬよう唇を一文字に結び規律正しく在るように懸命に足音そろえて歩こうとしていた。あまりに無理をしているように見えて、ついには「散歩に定めはない、自由になされよ」と于禁からその言葉を引き出させた。すると結んでいた唇は雨上がりの虹のように笑い、足は軽やかに先を行き于禁を呼んだ。岩にのぼって苔を踏んで滑って池ポチャし、池ポチャさせまいとして走った于禁ごと池ポチャせしめた。決して陽気とはいえない性質の自分が確かにの陽の気にあてられていた日々だった。
うまく、笑えていたろうか。
二、三手が進んだところでの手は動かなくなった。
「どうした」
投了するにはまだ早い。
終わらないように指してもいる。
か弱い灯りに照らされた横顔を覗き込むと、音もなく頬を涙が伝っていた。
「…今日はこれくらいにしておこう」
碁盤の石をくずさないよう寝台のすみへよけて、冷たい手を痛まないように強く握る。始終、視線が重なることはない。それでもよかった。
「おやすみ」
それでもよかった。
次の夜、屋敷に戻って手をつなぎにきたその時にが命を絶ってしまったと知る日が来ないなら、これですべて満ちている。生きていてくれるだけでいい。

しかし恐れは于禁の体をも少しずつ痩せさせていった。
それでも自らを律し、左将軍としての役目をこれまでと変わりなく立派に果たす于禁を使用人たちの多くははらはらしながら見守っていた
使用人たちの心配は的中し、あの于禁が何十年ぶりといっていいほど久しぶりに風邪を引き、立つこともままならぬ熱を出した。
何重にもかけた布団の中で于禁は大きな体を小さく丸めて、目に見えるほど肩が震える寒さに悪夢と汗だくの目覚めを繰り返す。
熱が最高潮に達した真夜中のことだった。
部屋の扉を静かに開く音を聞いた気がした。
使用人だろうが寒さと苦しさでそれどころではない。
寝台がわずかに揺れた。
冷たい手が布団の中で于禁の手首に触れた。
灯りのない真っ暗闇ではっと目をひらく。
冷たい手は手探りで、于禁の手首から手の甲へすべって、力の限り握られた気がした。力を失った手にのこる力をすべて込めている。
ずっと病のままいたいと、あってはならない思考が頭をよぎった。

、しばらくの間こうして来ることはできぬ」
樊城への救援は急を要す。夕方の軍議で決まったその夜には別れを告げねばならなかった。つないでいない方のの手が顔を覆って、どれくらいぶりか表情をゆがめては泣いた。于禁にはどこか嬉しいような心地があったが、それは表に出してはいけないことだった。
「そのあいだ、生家に戻ってもかまわない。一番心の落ち着くところで過ごすといい」
明け方に、支度を整えて出発するときが久しぶりに玄関に立っていた。
于禁がやみくもに贈った櫛をさし、むやみに高いだけの于禁が贈った着物を着てうつむいて于禁を待っていた。于禁はこれがあの部屋のなかだったらきっと抱きしめたろうが、すぐそこには部下たちが待っていたから触れることはできなかった。
戻ってきた時にはが少し元気になっているような気がした。
しかし、元気でなくてもよいとも思っていた。
この人が生きてさえいてくれれば于禁には十分だった。
一人の人間のひとつの命はそよ風に吹きとび手のひらからこぼれそうなほど儚く軽いのに、なんと重いことだろう。
重くあってほしいことだろう。






豪雨に漢水の水は堤を越え、援軍として向かった于禁軍とホウ徳軍を飲み込んだ。
多くの兵士の命が濁流に持ち去られ、生き残った者たちもいま黒い水に囲まれている。
見渡せば、重い甲冑が三万の兵士たちの体をぬかるんだ土にうずめ込み、此軍の誰もかれもが恐怖に震えている。うねり狂う水の向こうでは軍神関羽の軍勢が彼らを取り囲んでいた。
見上げた于禁の頬を雨はとめどなく打つ。
その日、はひさしぶりに青色の刺繍糸をとり、于禁軍は関羽に降伏した。



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