地の底からおそろしい声がした。

―――この先に進んではならぬ

魏軍を率いる于禁の眼前には岩窟が口をあけている。岩窟はずいぶん深くまで続いているようで、たいまつをかざしても入り口付近の岩が見えるだけだった。
「何をしている」
明らかに人ではない声に怯え身を寄せ合う兵士たちに于禁が厳しい目をやると、兵士たちは寄せていた肩をはなして下を向きながらそれぞれ目を泳がせる。これを見かねた将軍補佐役が内股で小走りに于禁のもとへやって来た。
「う、于禁将軍、ここはやはり、邪の気の払うお方々に事を任せに一旦戻るべきでは」
「殿よりこの声の正体を明らかにし、周辺の民の不安を払しょくせよと拝命賜ったのだ。ひとつの進展もなしに任を他へ渡すことは殿の命を放棄したも同じ」
「でででですが、兵たちは怯えきっております。悪霊が憑くかも」
「士気十分でない者はここに待機してよい。意志ある者のみ私に続け、賊の罠であるやもしれぬ、警戒を厳とせよ」
補佐役からたいまつを奪い取り、于禁は自ら先陣を切って洞窟に足を踏み入れて行った。
「俺も行くとしますかね、すげー嫌な予感はしますけどなんか死にゃしない気がするし。うちも来たい奴だけ来ぉーい」
「于禁殿、李典殿、私も参ります。一番槍は私の役目ですから」
続いて李典、楽進が洞窟の中に入っていくと、兵士たちは顔を見合わせ最初はぱらぱらと洞窟に進み出す者が出てきて、それに引っ張られるようにぞろぞろと大半の兵士が中へ入って行った。取り残された少数の兵士たちは、コウモリ飛び交うこんな場所に取り残されていた方が怖いと、走って洞窟の中へ入って行った。
洞穴の外にだれもいなくなってしばらく経った頃である。
真っ暗闇の洞窟の中から大地をつん裂く無数の悲鳴が響き渡った。







「で、なんだ、このありさまは」
一夜明けた朝議で曹操が肘掛けにもたれ頬杖つきながら、于禁らに尋ねた。
于禁はいつもと変わらない表情だが朝議の顔ぶれは、
怖がっている者 六割
驚いて目を丸くする者 二割
笑いをこらえる者 二割
という割合だ。
郭嘉は微笑みながらさも楽しげに曹操にことの顛末を説明し始めた。
「殿が調査を命じられた例の洞窟に昨日足を踏み入れた者全員がこのように憑かれたそうです」
手のひらで示された先、于禁、楽進、李典の背後になにか透明がかったモノが居る。
楽進の肩あたりからは武具に身を包んだいかめしい兵士の上半身が生えており、奇異の視線をやる魏の官吏をぎろりと睨み返している。
その横の李典の背中には役人ふうの目鼻立ちのつつましい男がいて、こちらは誰かと目が合うたび「その声は、我が友、李徴子ではないか?」と話かけている。
ほかにも数名、武人らしき背後霊を背負った将が朝議の場に出席していた。
僧侶たちによれば、かの洞穴はあの世とこの世の境があいまいな場所であり、踏み入れた者からあの世の気が消えるまではくっついてきてしまうらしい。
曹操はううんとうなって顎をひねった。
「李典よ、害はあるのか」
「こいつらは「その声は、我が友、李徴子ではないか?」
「ちょっとお前は黙っててね殿の前だから。こいつらは賊とか呉、蜀の謀ったものじゃありませんし実害はなさそうですけど。体の調子もふつ「その声は、我が友、李徴子ではないか?」
「こういう害はあります」
「ならばまあいいが。さても于禁よ」
「はっ」
于禁が機敏な動きで曹操へ体の向きを変えた。
「なにゆえおまえの背後霊だけ泥団子なのだ」
曹操が疑問に思うのも無理はない。
于禁の肩甲骨から肩にかけて、ウサギほどの大きさの黒く丸っこいモノがぺったりとくっついていた。目も鼻も口も手足もないが時折緩慢にうごくから、背後霊をこう表現するのはヘンだが、その物体は生きてはいるらしい。
朝議に参加する武官も文官も于禁の背後霊にだけは笑いをこらえてうつむいたり、咳払いして口元を隠すのに必死である。
曹操に問われると于禁は眉間の皺を増やし、固い動作で深刻そうに首をかしげた。
「私の背後の御仁によれば」と楽進がおずおずと手をあげた。
「そちらの泥団子殿はまだ霊になりたてで人の姿の霊にまで”熟成”されていないのだそうです」



曹操から咎めの言葉はなかったが、朝議の場が落ち着かないという理由で憑かれた者たちは退席を命じられた。では、位があがって最近直接指揮できていなかった練兵でもみてやろうか、と思ってみてもそういうわけにもいかない。憑かれた各々は出仕せず、自宅謹慎をしている。全員に背後霊がついた状態での練兵はある意味圧巻だろうが、そんな化け物軍団が曹魏にいると知られては三国の笑いものになりかねない。
左将軍、右将軍揃って突然役立たずになり、于禁、楽進、李典は城の隅っこの階段に力なく腰かけていた。とりわけ、表情にはでないが最も気落ちしているのは于禁だった。あの顔に、あの図体に、あの性格に、この泥団子だから、さもありなん。沈黙に耐えかねて李典が励ましにかかる。
「そう落ち込むことはないですよ于禁殿。あの世の気ってのは普通に元気に暮らして風呂できっちり体を洗えば二、三日で消えるって話じゃないですか」
「そ、そうですとも、それに私はそれ、結構かわいいと思いますっ」
楽進にかわいいと言われてさらに負の気が増した于禁に気をつかって、李典は話をかえた。
「そういえばそいつ、名前なんていうんでしょうね。うちの連中に憑いた背後霊のおっさんが言ってたんですけど、あの世では死んだ順番が未来も過去もめちゃくちゃらしいですから、霊になりたてって言っても実はかの西楚の覇王、項羽だったァ!なんてこともあるかもしれませんよ」
「その声は、我が友、李徴子ではないか?」
「おまえほんと黙ってて」
「これは言葉を話せぬ」
ずっと黙っていた于禁が口をひらいた。
「何者だと問うてもなにか言えと命じてももぞもぞ動くだけだ。名を知ったところで自然に離れるのを待つほかないが、これは人の意を解さぬ下等の生物やもしれぬ」
そのとき、泥団子は于禁の肩に乗っけていた顔(?)をちょいとあげて于禁の顔を見上げ(?)、全体的にやや小さくなった。
楽進はそれを見てあっと気づいた。
「いまこれは、于禁殿に申し訳ないと思ったのではありませんか」
「なに?」
「人で言うならこう、肩を小さくした感じに見えなくもないかと」
「そうなのか」
于禁が怖い顔で肩口の泥団子を睨むと、泥団子は于禁の肩から落ちそうなほど背のほうに身を隠した。とっかかりとなる腕も足もない泥団子はそのままつるんと背から滑り落ちて、于禁が手のひらで受け止めた。
「あれ、落ちた」
背後霊が背後から落ちて李典は目をみはる。もうあの世の気とやらが消えたのかしらと自分の背を振り返れば「その声は、我が友、李徴子ではないか?」
まだしっかりくっついている。
手のひらに乗った泥団子を前に持ってきて、于禁はじっと見おろす。睨んでいると言っていい。泥団子はぷるぷると震えている。
楽進はこれを観察し、ぷるぷるの理由を推理した。
「怖がって、いるのでは」
「…もぞもぞしていただけの昨夜に比べれば挙動に多様性が見られるが、私には理解できぬものだ。だが離れたならば都合が良い。朝議に戻る」
于禁は泥団子を階段の上におろすとそのまま石の階段をあがっていく。
「あ、于禁殿」
楽進の声に振り返れば、泥団子は階段の一段上に上部分(頭?)を置いて、下部分(体?)をひっぱりあげた。さらにもう一段うえに頭をおいて、いまにも「よいしょよいしょ」と聞こえてきそうな懸命な動きで階段を登ろうとしているではないか。
「これはっ、于禁殿をおいかけようとしているのに違いありませんよ、きっと」
「楽進、おまえ犬とかと心通じちゃうタイプ?」
「犬、なるほど、そういうことでしたか、さすが李典殿です!于禁殿お待ちを、これは犬の霊だそうですよ!于禁殿ぉー!」
「いや楽進、俺こいつの正体について言いたかったんじゃなくてさ」
「我が友、李徴子ではないか?」
「静かに!」



そのあとも泥団子はのたのたと于禁のあとを追いかけてくるうえ、楽進に明るい顔で「犬は責任を持って世話を」と言われて、于禁はしかたなく、その背後霊を自分の屋敷に連れて帰った。
しっかり身を清めたが浴場を出ればそこには例の泥団子がいた。扉をすり抜けるような芸当はできないらしい。
夕食の間は足にまとわりつき、のぼろうと試みる。
扉で閉て切った寝室に入っても、扉の外でごそごそと中に入ろうとする音か続き、使用人たちが踏みつけて転んではいけないから、またしかたなく中に入れてやった。
寝台の脚をのぼってこようと試みて全くのぼれそうにない泥団子をしばらく見おろし、于禁は考えた。
腕を組み、眉間のしわを増やして考えに考えること半刻、まだ寝台の脚をのぼろうとしていた泥団子を人差し指と親指でつまんで自分の顔の位置までひっぱりあげた。
肌というか素材というか、見た目はつるんとしているが外皮を触ればもっちりとして弾力がある。直接掴んでも手に汚れがつくわけでもない。
顔を合わせてさらに1分経って、于禁は深くため息をついた。
「よいか」
泥団子に言う。
「かの洞窟に足を踏み入れ、殿から預かる兵士たちに得体の知れぬモノを憑かせしめたのはすべて私の判断の誤りによるところだ。半人前のおまえが私にしっかり憑いておれぬとはいえ、私だけ解放されては憑かれたたままはがすことのままならぬ兵士たちに示しがつかぬ」
わかるな、と泥団子に言いきかせる。
泥団子はつままれたままおとなしく聞いている。
「ゆえに、兵士たち全員から背後霊がはがれるまでの間、公務の時間帯においては私はおまえに憑かれることを甘んじて受け入れる。引き換えにおまえも背後霊ならば背後霊の務めとして、しっかり私に憑いていられるよう努々精進を怠らぬこと。わかったな」
つまんだままの泥団子の頭がうなずくように揺れた。
「よし。ではこれより休養とする。休養もまた務めの一部と心得よ」
その晩、于禁の背後霊は于禁の寝台で、于禁の傍らに布団をかけられ静かに眠りについた。







翌朝も泥団子が消えることは無かった。
これを持ったままでの中央への出仕は風紀を乱し、曹魏の品格を貶めるだけである。昨日の楽進らとの申し合わせのとおり、于禁は出仕を控えて庭に出た。
「しっかり乗っていろ」
于禁は日当たりのいい岩に腰かけた。
泥団子はその肩に乗っていて、心なしか泥団子の頭にあたりそうな部分がお日様を見上げているような格好だ。
「陽の気にあてればあの世の気がはなれるやもしれぬ」と僧侶たちの言葉に従ってのことだったが、それを柱の影や家の中から見た使用人たちには、主が泥団子と日光浴をしているようにしか見えなかったという。
「落ちぬか」
飽きずに数刻も日を浴びていたが、泥団子はいっかな消える気配がない。
作戦を変更し、次に于禁は湯を張った桶を持ってこさせると、浴場で泥団子を湯につけて洗い始めた。物理的な浄化を試みたのであるが、泥団子は湯を嫌がる子供のように暴れ、于禁は大いに濡れた。
「まだ落ちぬか」
ぶつぶつ言いながら水を拭う于禁の後ろ姿を見た使用人たちには、主が拾った子犬を洗ってやったようにしか見えなかったという。



「御免ください」
出仕がままならぬままさらに一日が過ぎたその夕刻に、于禁を尋ねてきたのは楽進であった。
左将軍の屋敷に右将軍がお出ましになったとなれば、大した用意もなかった使用人たちは冷や汗をかいたが、当の楽進があまりに低姿勢で「どうぞおかまいなく」というし、主の于禁も下がっているよう言うので使用人たちはおどおどしながら裏へ引きあげた。
屋敷の奥へ通し、于禁は卓に乗っていた碁盤を下へおろすと、手ずから茶を淹れて楽進にすすめた。
「ありがとうございます。突然お邪魔して申し訳ありません」
「いや。その様子だと去ったようだな」
「はい、昼ごろに。練兵もできませんので使用人たちのためにたまには鴨鍋でもと思いまして西の草原まで狩りに出ていたのですが、気づいたことにはいなくなっておられました」
背後霊が去ったならば、その場所や方法を報告するようにと兵士たちには伝えていた。まさか将たる楽進が自ら于禁の屋敷まで足を運んで報告にくるとは思っていなかったが、律儀で謙虚でいかにも楽進らしい。
「兵士たちの背後霊も、泥団子殿もそのうちに自然といなくなってしまうという僧侶たちの言葉は本当なのだと思います」
「そうか」
「…ところで、もしやどなたかお客人がいらっしゃったのでは」
楽進はさきほど下におろされた碁盤をちらりと見て、申し訳なさそうに于禁に尋ねた。
「客はいない。碁はこれに覚えさせていただけだ」
「おお、泥団子殿はそのようなことができるのですか、すばらしい」
褒められて照れたのか、泥団子は于禁の肩から姿を隠し、その拍子にひっかかっていられなくなってストンと落ちた。これをまた于禁は手のひらで支えて慣れた手つきで肩にのせなおす。
「客人の前にあっては公務とわきまえよ」
言われたとおり、泥団子は今度はちょこんとおとなしく肩に乗っている。
泥団子の横にある顔を覗うとそれはいつもの于禁の顔である。厳しさだけで構成されている。
「…」
「なんだ」
「いえ、その、なんでもありません」」
楽進の帰り際、于禁の肩で泥団子殿がうねうねと横に体を振ってみせたので楽進ははっと理解して、「またね」と子供にするように言って帰って行った。
心配そうに扉の隙間から見ていた使用人たちは、楽進が于禁に対して親しげに「またね」と言ったようにしか見えなかったという。






翌日、朝議への出席が許され、列席各位に笑いをこらえられながらも于禁はまじめな顔で席についた。肩にくっつく泥団子は笑い声から隠れるように、ぎりぎりまで于禁の背中のほうに引っ込み、何度も落っこちそうになっていた。くっつくのはおまえの役目とばかり、于禁はここでは助け舟をださず、泥団子もまた寸でのところで主の肩につかまり続けた。
向けられる嘲笑を、采配を誤った己への当然の罰ととらえる于禁は、背後霊などないかのように普段通りに朝議を済ませ、次に憑かれた部下たちのところをまわって状況を確認する役目をこなした。
夕刻までかかって一通り確認を終えると、すでに7割近くは背後霊が消え去っているという好ましい状況だった。
この報せを李典に届けるべく、于禁は彼の執務室の扉を叩いた。
あるいはすでに李典の背後霊も消え落ちたあとかもしれない。
「李典殿、おられるか」
「その声は、我が友、李徴子ではないか?」
まだ憑いているらしい。
李典は力なく卓に突っ伏していた。
その傍らには李典を心配そうに見守る楽進もいて、事情を聞けば李典の背後霊は使用人の声、犬の遠吠えや衣擦れの音にさえ「その声は、我が友、李徴子ではないか?」と問いかけてきて、一睡もできていないのだという。



屋敷に戻って泥団子と碁をさしあい、物言わず次の手を悩んでいるらしい泥団子を見つめた。于禁は、もしコレではなく李典に憑いているモノが自分についていたならと想像していた。
「…」
泥団子は体を二つ折りにして石をつかむとなるべく静かに盤の上に落し、頭でおしてちょっとずつ石の位置を整える。そして于禁を見上げたが、于禁が壮絶な顔をして碁盤を睨んでいるものだから不安になったのか、置いた石をそうっと左へひとつずらしてもう一度于禁を見上げた。
「む。ああ、いや、間違いを見咎めていたわけではない。さきほどの手でかまわん」
泥団子は石を最初に置いた位置にずらした。
「よし。悪くない手だ」
犬猫にするように泥団子の頭をひと撫でしたのはほとんど無意識だった。
この光景をうかがう使用人たちの顔からはすでに驚きは消えていて、ただただ目じりを下げて穏やかに見守るばかりだった。






さらに二日経ち、洞窟調査から6日過ぎた頃には背後霊に憑かれた者達は、あと二名を残し、ほかの全員が解放されていた。
兵士たちのなかには「いなくなってみるとちょっと寂しい」なんていう者もあれば「あれが美人なオネーチャンだったらよかったのになあ!」と、もう笑い話にしてしまっている者もいる。
笑えないのは于禁と李典だけである。
李典に至っては執務室でつっぷしていたのを見て以来、神経症気味で出仕していない。
「そう気を落とすことはあるまい」
朝議が済んだあと、夏候惇と夏侯淵が声をかけてきた。于禁の肩には未だ泥団子が憑いている。
「そうそう、いかついおっさんが風呂も便所も寝床までついてくるってんじゃあ不幸だが、このモチスケは見慣れてくりゃあかわいく思えてくるぜ、なあ惇ニイ」
そういうと夏侯淵はおもむろにモチスケこと泥団子の顔を両側からつまんで横に引っ張った。
「モチみてえだな、食っちまうぞこんにゃろ」
夏侯淵が大きな口を開いておどかすと、于禁の首のうしろにさっと移動した。
「お、隠れてやがる。お利口じゃねえか」
「芸でも覚えさせたのか」
「これは私の指揮の不足に端を発する業なれば、むやみに落ちるなと指導はいたしました」
「あきれるほど真面目だなお前は」
「ホンットに餅みてえ。お、揉むと気持ちいい!おーい軍師殿、郭嘉よお、ちょっとコレ触ってみろって、すげえから」
「いえ、わたしは女性の胸以外を揉むと死んでしまう病なので結構です」



夜になっても泥団子はそのままだ。
泥団子は丸い頭で器用に石を押し、碁の腕はめきめき上達している。
于禁は次の手を打たずに視線は虚空を見ている。
今日の朝議の後のことだ、励まして楽進は言った。
「泥団子殿は背にしっかりくっついているわけではないのですから、お役目の間はご自宅においてきて、犬を飼ったと思えば大丈夫なのでは」
名案を思いついたとばかり典韋は言った。
「仲良くなって、そんでその、こう、ふところに入れておくんでさぁ!するとこう、矢がこう来た時にこいつが身代わりになって、命の恩人になるかもしれやせんぜ!」
張コウはこの黒い物体を間近で見るなり感動で震えあがり、叫んだ。
「これはサナギ、いつか美しい魂が華麗に花開くに違いありませんっ!」
害はない。粗相もしない。けれど周囲が感じる違和感というものは于禁だけではどうすることもできないことだった。
ふと指に重みを感じて目をやると泥団子は于禁をなぐさめるように、手に頭をこすりつけていた。
「…おまえの咎ではない」
ひと撫でふた撫でした手に宿った優しさは、もう疑いようもなかった。






明くる日、見かねてついに曹操が動いた。

曹操は朝議の場に怪しげな老人を連れて来ると朝議そっちのけで李典と于禁を診させた。
「お初にお目にかかる。小生は左慈と申「その声は、我が友、李徴子ではないか?」
「ふむ、まずはこちらの御仁かの」
左慈と名乗った老人はもはや突っ込む気力も奪われた李典を椅子に座らせ手をかざす。
ふむふむ唸り、背後霊の心だろうか、何かを読み取っている。
魏の名だたる将と高官たちがこれから何が起こるのかと面白がって見守るなか、なにかを読み取っていた左慈がようやく口を開いた。そして、
「これは」
「我が友、李徴子ではないか?」
「うるさい」
と言うなり左慈は李典をひっぱたいた。
「痛ぇっ!」
するとどうしたことだろう、李典の肩に憑いていた文官ふうの背後霊はぱっと白い煙に変わり、その煙が天井に届いた頃には透明に掻き消えてしまった。
「…やった?消えた…やった、やった!よっしゃー!!」
跳んで伏せて喜ぶ李典だったが周りの雰囲気がついて来ていない事に気がついた。
「于禁、次はおぬしだ」
「はっ」
曹操に促され、于禁が左慈の前の椅子に腰を下ろした。
「次はそちらか」
「いかにも」

(于禁将軍にビンタ…?)

諸将が今度は固唾をのんで見守るなか、左慈は于禁に手をかざした。
覚悟を決めてどっしり構える于禁に対し、泥団子は慌てて于禁の首のほうへ近づいたかと思うと伸びられるだけ背伸びをしてぴたりと于禁の頬に貼りついた。その姿勢はこたえるらしく体をぷるぷる震わせているが、泥団子はそこから動こうとしない。
これは于禁がひっぱたかれないように守っているのだと誰の目にもひと目でわかった。
その状態で手をかざしていた左慈だったが、しばらくすると首をかしげた。
「ふむ…これは異なこと」
「異なこと、とは」
「これは生まれたての霊魂、つまり死にたての魂ゆえ、まだ生前の”この世の気”をわずかに纏ったままで人に憑きよった」
「それはいつぞやに聞いた話だ」
「魚が陸に長くとどまれないように、本来ならば他のモノたちとともに自然と消え去るさだめであったが、どっちつかずの半端な魂はこちらにいる間に”この世の気”に引かれて存在が強まってしまったのじゃろう」
頬に貼りついていた泥団子を引っぺがし、于禁は膝の上に置いた。
「それはつまり、消せぬ、ということか」
「いや、方法が無いわけではない。宿主が死に近づけばこの世の気が薄れて、憑いていられなくなろう。言い方を変えれば”死ぬまで一緒”じゃ」
死ぬまでと聞いて、囲む官吏たちの顔色がきゅうに鈍くなり、袖の奥でひそひそと言葉を交わしだした。
「害がないとはいえあれは物の怪のたぐいだろう」
「せめて英雄の霊ならば恰好もつこうがあのような泥に憑かれた将など」
「そも、帝を戴く曹魏の都においてよいのか」」
泥団子はうつむき、体をできる限り小さくした。
彼らは規則に厳しい于禁を日ごろから嫌っているから、わざと聞こえるように言っているのだ。
左慈は髭を撫でて思案顔になる。
「では、少々賭けになるが…燃やしてしまおうか」
于禁の眉間に深いしわが刻まれる。
「生者も死者も炎の中にはとどまれぬのが理だ」
個人的な感情で于禁は動かない。言葉をのむ、そういう人だと楽進は知っていた。
たから楽進は一歩前に出たがこれを制したのは曹操であった。
「その必要はない」
きっぱりと于禁が言ったのである。
「宿主殿はそう言うが、どうやらこれの意志は違うようだ」
泥団子は于禁の膝から足をつたって降りていき、つかまりきれずに最後はコロンと床に落ちた。そこから起き上がり、のたのたと進み左慈の足元で立ち止ると振り返る。
泥団子に目はないけれど、于禁と泥団子はいま確かに視線を合わせて向かい合っていた。
「おまえが消える必要はないと、私は言った」
泥団子はこたえる口を持たない。
しかしもとは人間だったその魂は、自分がいればたとえ何も悪さをしなくても左将軍である于禁が曹魏のなかで立場を悪くすると理解していた。だからいま、泥団子は楽進にそうしたように体を懸命に横に揺らして、ひときわ元気に見えるようにさよならを告げているのだ。
于禁はぐっと歯を噛み締め、小さな魂の覚悟を受け入れた。
「達者で」
左慈がふところから一枚の札を取り出して宙に放つと、泥団子の小さな体も宙空に浮いた。
みるみるうちに人の頭より高い位置にまで持ちあがり、札は赤々燃える炎となって黒い姿はあっという間に炎に巻かれた。
火のなかで苦しげにもがいた影を見るや于禁ははっとして炎の下へ駆けたが、すでに炎は燃え尽きて、広げた手のひらに指先ほどの黒いススがたった一つ落ちてきただけだった。

「…碁の続きはまた、いずれ」

そのススさえも無情に白いけむりに変わり、泥団子の魂はかき消えた。
けむりが溶けて消えた議場の天井を于禁はいつまでも見つめていた。













と思いきや、天井に稲妻がはしった。
強烈な閃光に誰もがまぶたをふさいだ瞬間、于禁だけはその目でしっかりと光の中心に黒点があるのを見、思わずその下に両手をひろげた。
光が弱まり、楽進が目をあけるとそこにはこの世のものとは思えないほどの美しい娘を腕に抱えた于禁の姿があった。
誰もがあんぐりと口をあけ、于禁自身にも何が起こったかわからない様子である。
しかし娘はたしかに質量とぬくもりをもって、于禁の腕の中にいた。
「なにを呆けておる。言ったであろう、少々賭けじゃと」
左慈は自慢の髭を撫で上げながら、ほっほと笑った。
「生者を殺めれば死ぬ。死者を殺めることは通常できぬが、できちゃった場合、どうなるかわからんって。…いや、言わなかったか?はて?」



おしまい